屋根裏部屋の美術館

靉光 古物美術商物故堂取扱作品

 はじめに

 当美術館「屋根裏部屋の美術館」所蔵の「白百合」(油彩画)および靉光「鯖」(水彩画)を紹介する。
 靉光はシュルレアリスムや宋元画風など、特異な画風で知られるが、写実の実力もすばらしいものがある。作品「鯖」は彼の写実力がよく分かるものである。

 そして、優れた靉光研究者ともいえる古物美術商物故堂が取り扱った靉光作品群を紹介する。
 約2年間で、数少ないと言われている靉光作品(靉光の会鑑定証付き)を4点も取り扱っているということは、驚異的としか言いようがない。また、鑑定証を取っていない作品も、それは靉光のものに間違いないものもある。


 靉光(1907-1946)

 広島の生まれ。本名、石村日郎。初め靉川光郎と名のり、のち略して靉光。近代日本洋画を代表する画家。東洋絵画に学んだ独自の内省的シュルレアリスム風の作品を描いた。古賀春江とともに日本のシュルレアリスムを代表する画家。

 生前は独特な画風から画壇の主流から外れ“異端の画家”とも呼ばれた。

 自画像「二重像」(1941年、墨、紙、広島県立美術館蔵)   



 この自画像「二重像」(1941年)には、二人の靉光が描かれている。
 ここにある「もう一人の自分」とは、精神に問題がある人が感じるものである。
 また、皮膚が異常に盛り上がって描かれている。
 この作品に描かれている感覚、つまり皮膚が異常に盛り上がったように感じる感覚が統合失調症にみられる体感幻覚である。
 
  統合失調症にみられる幻覚

  (1) 幻聴
     自分についての悪口や、批判・命令が人の声となって聞こえる。
     話かけと応対の形で聞こえることもある。自分の考えを声として聞くのは考想化声という。
  (2) 体感幻覚
     内臓が溶けて流れ出すなど、奇怪な内容が多い。
     その他、幻視・幻嗅なども起こることがある。

 この作品に描かれている感覚と同じようなものが「幻聴・不安の心理療法」(黒川昭登・上田三枝子 朱鷺書房)に記載されている。ただし、そこでは統合失調症ではなく離人症として取り上げている。

 「非現実的感覚が『自己』という現実に関連して起こる場合は、『自分の顔にクレーターのような円錐形の穴があいている』とか、『口がグチャグチャに裂けている』『顔が人並みはずれて大きい』『頭髪が抜けている(実際は抜けていない)』『自分は誰かに操られている』などと訴える人がいる。」

 このような感覚を持つ画家の多くは幼少期に問題を抱えた家庭に育ち、行動面に社会的、感情的引きこもりがある。


 靉光のスランプ

 幼少期にストレスを受けると、その後ストレスに対して耐性がなくなる。

 靉光は、7歳のとき広島市内に住む伯父の家に養子にださた。養父母は靉光をかわいがったが、彼はこのときのことを、「淋しく悲しい記憶のみ」と言っている。

 そして、そのような画家はスランプに陥りやすく、さらにそれがストレスとなる。

 彼は、常に貧乏であった。
 
 「1931年から靉光は、豊島区長崎の培風寮に住み始める。現在の地下鉄要町の近くにあったアパートで、詩人の花岡謙二が管理し、貧しい芸術家が多く住んでいた。この一帯はその頃から画家・彫刻家向けのアトリエ付き貸家が数多く建てられ、芸術家村の様相を呈していた。詩人の小熊秀雄はこれを「池袋モンパルナス」と謳い上げたが、靉光もその一員として制作に打ち込むことになる。とはいえ、この頃から彼は一種のスランプに陥った。公募展への入選も、著しく減少してしまう。1934年には桃田キエと結婚し、聾唖学校の教師をしていた彼女の支えにより経済的には楽になったはずだが、制作の上では暗中模索が続いた。新婚間もない頃、部屋の隅でうずくまり『絵が、絵が描けない……』といって泣く彼の姿を、キエ夫人は目撃したという。」(大谷省吾)


 作品「菊」(1927年制作、6号、靉光の会鑑定証書付き、古物美術商物故堂取扱、所有者不詳)


 ***出品者による作品紹介***

 本作品は昭和2年・靉光が画家を目指し始めた時期で目まぐるしく画風を変化させ、様々な様式を取り入れた時期・即ち一つの展覧会に出品するのにもアカデミックな作品からゴッホ調・ゴーギャン調という風に画風を変えて出品もしていた。その中に有って本作品は極めてアカデミックを象徴する作品である。裏書によると「美術院・凡展・昭和二年収蔵」とあり、展覧会の出品番号と思われる「二八番」という張り紙も有ります。これは昭和2年に広島で開かれた広島美術院・凡々社展という展覧会即売会が開かれております。恐らくこの時に収蔵されたと存じます。本作品の旧蔵者(広島在住の先代の贓品)から本作品を御譲り頂きました時に話を伺い、十分に研究してから、間違いの無い作品と判断して、2年前に「靉光の会」に鑑定に回し(資料と照合の後)鑑定書を発行していただきました。この時代の画風を知る現存する作品は皆無で、極めて貴重と言わざるを得ません。ただ、絵そのもの魅力や価値をどの様に捉えるかは購入者(所蔵家)の判断であり、元来、絵という物はそう言うもので有ります。靉光といえば「シュール」という人も多いとは思いますが私は靉光のシュール画には全く関心はありません。むしろ具象画の方がよほど好きで有ります。この絵の支持体は板・技法は油彩・サイズは6号・額は元額・状態は概ね良好です。作品に関しましては「靉光の会鑑定証書付き」ですので作品の真正を保証します。


 作品「薔薇」(6号、estel1965jp出品、所有者不詳)





 ***出品者による作品紹介***

 大変古い6号の大きさの厚紙に油彩で描かれております。サインは有るのですが判読できませんので作者不詳でお願いします。絵の状態はかなり古いため紙焼けが有りますし、画像で確認できないくらいの若干破れもございます。この額に入った状態で数年前に古道具屋さんで主人が気に入り購入した作品です。結構な値段でこんな古ぼけた絵を購入した理由が私には判りませんが、今回、家庭の事情により今まで二人で集めてきました作品を全て処分しようとしております。後もう少しですが、いくらになっても処分しますのでクレーム無しの返品はご容赦くださいませ。宜しくお願いします。

 ***作品解説***
 
 この作品のテーマおよび構図は作品「菊」とほぼ同じため、制作時期はほぼ同じと考えるが、どちらの作品の制作時期が早いかと言うと作品「菊」の方だと考える。それは、作品「薔薇」の方には一回り工夫の跡が見られるからである。
 また、この作品と作品「菊」が同じ種類の額に納められていることから、この2作品はもと同じコレクターが所有していたと考えられる。
 なお、出品者estel1965jp のご主人は非常によいコレクターであることがこの出品からも分かる。


 作品「曠野社」(1928年頃、靉光の会鑑定証書付き、古物美術商物故堂取扱、所有者不詳)



 ***出品者(古物美術商物故堂)による作品紹介***

 本作品は大変貴重で最重要資料の一つ数える事の出来る作品です。靉光の初期の油彩画を語る上で本作品の色彩及び構図やその背景等、時代の流れに揉まれ行く靉光の歴史が見て取れる作品だからです。本作品はサイズがF10号。チークの重厚な額に収まって居ります。厚紙に油彩で描かれそれを旧蔵者が板に貼り付け木枠を組まれ、大切されていた事が伺える作品です。本作品は靉光が1928年昭和3年に1930年協会第三回展に出品した「曠野社」・「曠野」の2点のうちの1点、「曠野社」と鑑定書には記載されておりますが、本作品が出品作品の可能性を残しては居りますが、断定された物ではございません。理由はその当時の資料を鑑定人であった靉光の研究者であり最初の画集の編纂者であった美術評論家の朝日晃氏所蔵の資料からも、その当時の図版が存在しない為に断定には至っておりません。しかしながら、この図柄が、武者小路実篤の白樺派関係で、「新しき村」の東京に於ける拠点で、当時、質屋経営で大富豪であった支援者の広大な敷地内で村を形成していた。その敷地内に白樺関係の書物の発行を一手にしていた印刷会社の名前が「曠野社」なのです。これは全て調査の上、判明している事柄であります。そして、その生き証人が、この建物の外観は「曠野社」ですと言われたので、鑑定書の題名に「曠野社」と付いたわけです。本作品は4年ほど前に東京のシンワアートオークションに出品された作品です。当時のエスティメートは350万〜500万です。詳しくはその当時の図録か何かでご確認をお願いします。今では鑑定機関が変わり、何かと問題だと認識しておりますが、本作品は現在の鑑定機関には出しておりません。一つの絵に対して鑑定書を何枚も付けなくてはいけない今の美術業界の考え方は非常に不見識です。巷のオークション会社はびくびくし過ぎですし、コレクターも、もっと成長しなければいけないと考えます。この機会にこの大変貴重で資料的に重要な絵画を是非とも研究材料に又、古の時を刻む絵画として靉光の心を読み解く材料としてコレクションにお加え下さい。***物故堂のオークションは常に売りきりですので安心してご入札をお願いします。自己紹介欄及びその他の出品作品もご覧下さい。追記・・当時の「靉光」の権威(2003年11月)の美術評論家・朝日晃氏談話・・この絵がもう少し早い段階で発見されていれば、私(朝日晃)が講談社より出版しました最初の靉光全画集の最初のページを飾っていた事であろう。この絵のタイトルとなっている「曠野社」は当時、白樺派・武者小路実篤が推進した「新しき村」の東京に於ける拠点であると同時に、この団体の出版物を統括する出版社として活動をしていた。何故、靉光がこの絵を書き残したのかは不明である。しかし、大正デモクラシーの流れの中で、曠野社が一時期の「白樺派・実篤」の活動の拠点であり、又、活動の舞台となっていたのである。「新しき村」の考えに同調した洋画家も少なくない。岸田劉生をはじめ多くの文人・画家達が協力していたのである。当時、靉光が住んでいた場所と曠野社は非常に近かったことも判明しているが、非常に大きな時代の潮流の中で、二十歳そこそこの靉光がこの事に感慨を覚え、やや大袈裟に言えば、その生き証人として自分なりの感性で絵を描き残したのかも知れない。年賦によると、靉光は1928年(昭和3年)に1930年協会展に作品を出品している。「曠野社」・「曠野」という題名の2点であるが残念ながら図柄が存在しない。この作品が展覧会の出品作であるかどうかは不明であるが、その可能性は十分にあると考えられる。理由として、この絵が「曠野社」の外観を描いた作品である事は調査の結果判明しいるからである。又、当時、靉光は目まぐるしく画風を変えていた事は資料により明らかである。彼に最初に注目したのは私であると自負しているが、現状において、靉光の画風が一定であるかのような認識は残念でならない。しかし、この作品は筆使いや色彩は言うまでも無く、画面全体の雰囲気に不思議な力が感じられる。又、この作品がその後の作品群に少なからず影響を与えているようにも感じられる。裏面の貼り紙には靉光と同じ広島県人会の方が大切に保管されていた事を窺がわせる。この様な絵が発見された事は、靉光の初期の画風を知るうえで非常に貴重な事である。正しく新発見である。・・・以上の朝日氏談話は2004年の1月シンワアートオークション出品に際して、出品者自らがこの絵に対しての見解を談話と言う形で文章化したものである。鑑定書と共にお付けしてお送りします。所蔵家の話では、鑑定書取得後、ある美術館が購入意欲を示したが、金額的(800万円前後で交渉)な折り合いが付かずに売却を断念。その1年後にオークション出品となる。更なる調査報告としては、当時(大正14年〜15年)にかけて、曠野社内で労働争議が発生する。当時の議事録を原本にて、武者小路実篤記念館にて確認。当時、曠野社内で労働に従事していたのは、「村内会員と村外会員及び2名の日雇い労働者」と記載されておりました。何故労働争議が起きたかというと、賃金の未払いからです。この日雇い労働者2名の内の1人が石村日郎(靉光)の可能性を探りましたが、当時の原本にも、これらの2名の氏名記載はありませんでした。非常に残念な事ですが、これが事実です。しかしながら、靉光は大正12年・16歳で広島を離れますが、上京前に大阪で約1年間住みます。その折に、デザイン会社や印刷工を経験します。上京は翌年の大正13年。飯場や日雇い労働をしながら飢えを凌いでいました。そう言う状況であった石村は印刷工員として技術が有ったので、近くの白樺関係の「曠野社」で工員として働いていた可能性を誰も否定できませんし、むしろ、的を得た正論かもしれません。実篤記念館の学芸員も同様の意見でしたが、これが靉光の知られざる一面かも知れません。そうであるならば、このタイトル「曠野社」の意味が理解できてくると思います。一つの大いなるロマンではありませんか?

 ***作品等解説***

 古物美術商物故堂が、「今では鑑定機関が変わり、何かと問題だと認識しておりますが、本作品は現在の鑑定機関には出しておりません。一つの絵に対して鑑定書を何枚も付けなくてはいけない今の美術業界の考え方は非常に不見識です」と述べている。「今では鑑定機関が変わり、何かと問題だ」ということは、美術収集マニアによる周知の事実である。
 この古物美術商物故堂は、「実篤記念館の学芸員も同様の意見でした」とあるように、よく研究をしている学芸員と意見を交わしているようである。


 作品「白百合」(1929年、古物美術商物故堂2代目取扱、屋根裏部屋の美術館蔵)





 ***出品者(古物美術商物故堂2代目)による作品紹介***

 本作品は、広島出身の画家・靉光(本名・石村日郎)の真作油彩画です。支持体は板・技法は油彩・額装・サイズはF0号・所謂小品です。画面の状態は概ね良 好です。表面にはサインはございませんが、裏書がございます。題名「百合」・靉光・・。その横に恐らくは購入者の記載なのか「昭和四年茶房「リリオム」ニ テ 小品展ニテ 収蔵」。小さい画面ながら当時靉光の作品や画風を語る上で大変貴重な油彩画と言わざるを得ないです。本作品も画面全体が暗くその中から白 い百合の花が力強く開いている。生命力を感じさせるえです。後にも何枚も百合の花を描いていますが、花が好きで、百合は特に好きであった花の種類だったよ うです。当時の靉光は目まぐるしくその画風を変化させていた時代でも有ります。井上長三郎が語るには一日に数枚の絵を描いて全て画風が違っていた。即ちこ の証言から見ても靉光という画家を語るにはその根底に流れる何かを見つけなければ、本当の意味での靉光像を語ることにはならないと思います。現存する作品 からだけでは一切判断できないわけです。当然、大きな参考にはなるわけですが全てではない。特に初期の画風は今尚、良く判っていないのが現状です。本作品 の裏書を見る限り、靉光は茶房で小品展を行っていたことになります。絵の具を買うためには絵を売らなければならなかったのでしょう。プロである以上、絵を 売ってなんぼです。売れない絵を描いても意味が無い。靉光の奥様が語られたのには、売れる絵は描かなかった。暗い闇の中から浮かび上がってくるようなグロ テスクな題材ばかりを選んでは描いていた。どう考えても売れる絵ではなかった言われておりました。今では評価されている絵も当時は誰も見向きもしなかった に違いない。しかし、逆に売れる絵を描かなかったのか??そんな筈はないのです。特に結婚前には食うや食わずの生活の中、栄養失調寸前になりながらも絵は 描いていた。そう言う意味からも花を題材にするれば、売れたのでしょう。靉光論を語れば限が無いのでこの辺で終了します。

 ***作品等解説***

 靉光のサインで、「光」が他の作品にあるものと異なる。しかし、「靉」は靉光のものであり、そして、「光」は他の作品を観ると比較的描き方にバラツキがあるのが分かる。その他の文字は、性格に偏りがあることを示すものである。
 古物美術商物故堂2代目は、「花を題材にするれば、売れたのでしょう」と言うが、花、人、風景は重要なモチーフであり、花をモチーフにしたからと言っても別段そのように考えなくてもよいのではないだろうか。この「白百合」は、靉光の花をモチーフにした作品の中では優れたものである。


 作品「白薔薇」(古物美術商物故堂取扱、所有者不詳)



 ***出品者(古物美術商物故堂)による作品紹介***

 本作品は大正末から昭和にかけて活躍した?洋画家靉光の油彩画です。F4号の板に油彩。京都の旧家の秘蔵遺品です。先代が昔、手に入れられて、上下2箇所が横に割れていたそうです。それを張り合わせて修復されました。大変な貴重品です。花びらや茎の描き方、背景の取り方、色彩、筆使い、靉光らしい粘りがあるマチエール等、構図や絵の具の置き方。久々に全てが靉光らしい力強い絵です。少なくとも私は間違いの無い作品と判断しています。後は、自分の目で見て判断して、自分も「良い絵だ」と思う方、そして所蔵したい方がご入札してください。靉光の鑑定機関は念のために、東京美術倶楽部ですが、未鑑定です。理由は物故堂の考え方からです。それ以上でも以下でもない。ですので、鑑定書が取れる保証などは一切ございません。物故堂のオークションの絵で保証できる絵は1枚もございません。***1945年上海で戦病死するまでは、生きて帰還するつもりでいたようです。いよいよ戦争が激しくなってきた1943年頃から絵の具が中々手に入らなくなるということで、靉光の周りの画家達は絵の具を買いだめしたそうです。遺族の話では、靉光は「絵は何でも描ける。土でも泥でも描ける」と。靉光は出征前にかなりの数の油彩画や春画を含めて1斗カンで絵を燃やします。キエさんは止めたそうです。二十数点は隠したそうです。大きな作品は燃やせませんでした。キエさんが「何故絵を燃やすのか?」と質問すると、靉光は「絵は帰国してから、いくらでも描けると」。話は前後しますが、靉光は生前、日本では東京でも広島でも個展即売会を何度もしています。しかしながら、なかなか絵が売れず、キエさんは質屋へしばしば行く事になる。結婚前も結婚後も靉光は貧乏でした。少しでも絵を売るために3回中国を訪れます。中国で日人画家「靉光」として絵を売りました。本土よりは売れたそうです。靉光の今現存する大作はその多くが古キャンバス。奥さんのキエさんが何枚かのキャンバスを縫い合わしていたそうです。新しいキャンバスを買う余裕が無いのです。今は東京国立近代美術館にある有名な「目の在る風景」と言う作品があります。あの絵は、戦後にはキエさんが所蔵していた物ですが、キエさんの承諾もなしに、有無も言わさず、ほぼ勝手に半ば強引に買い付け証明を送り手中に収めた作品だそうです。キエさんは一度手持ちの作品全てをブリジストンに買い取ってもらおうとしますが、その当時の購入委員会のメンバーに坂本繁二郎が居ました。彼は靉光を知らなかった。絵の評価も出来なかった。訳の判らない絵。と言う判断でしょうか?1960年代でも無名。かの有名な評論家・土方定一も靉光はあまり好きではなかったようです。当時、土方の弟子であった朝日晃が土方に隠れて、最初の靉光の画集を講談社から出した。この時にまだまだこの画集に載せるべき絵が他に相当数あったと言われていました。即ち、相当数が散逸しているのも事実であります。またまた独り言が長くなりました。

 ***作品等解説***

 長年絵画研究をしていた物故堂が、力を入れて紹介する絵画には間違いのないものが多い。
 そして、この作品紹介には力がこもっている。
 また、これが出品されてから約1年後に、物故堂2代目よりこれと同じような作品「白百合」が出品された。
 作品「白薔薇」と作品「白百合」は、作風が同じで、入れてある額の種類が同じであることから、ほぼ同時期に作られたものと考えられる。


 作品「菊」(1932年、古物美術商物故堂取扱)





 ***出品者(古物美術商物故堂)による作品紹介***

 本作品は京都の初出し専門業者の倉敷旧家の蔵出し品だそうです。この業者は私が靉光の研究をしている事を知っている人物で、私が気に入れば購入してもらえる事も知っている人物。3週間程前に持ち込まれ、見た瞬間に気に入ったので買い取りました。同じ時期に描いた同じ花の絵が2枚あります。構図は異なりますが同じ作家の絵であることは間違いが無い。2点とも買い取りましたが1点は暫く研究して楽しむために持っています。いずれ出させて頂きますが、今回は1点出させて頂きます。私の今までの経験上、私が発見した中でも上位にランクされる出来の良い作品と思います。裏面の年号の記載から、昭和7年の作品と判りますが、靉光25歳、豊島区長崎村の花岡夫妻経営の「培風寮」の4畳半の2階に住んでいた頃です。薄暗い部屋の中で、対象を見つめ続けて描いていた頃です。この頃には1日に何枚もの絵を描いていたと言う時期で、相当数の絵が残されている筈なのですが、戦災や、戦争に行く時に自ら絵をかなり燃やしていたのも事実であり、絵自体が少ないのも事実でしょう。しかし、当時は酒代や飯代にも事欠き、売れない絵で代金を支払っていた事もかなり判っています。この絵がどう言う経緯で倉敷に(この業者の証言が正しいと仮定して)在ったのかは不明ですが、広島にも何度も帰省をして、個展も何度も開いている。こう言う流れから、倉敷に眠ったのか、と想像は出来ますが詳細は不明です。来歴よりも絵自体が靉光そのものなので何の問題も無いとは思います。私は非常に好きな絵です。この時期の油彩画は現存確認では殆ど無く、貴重品です。この後にライオンの連作や獅子、目のある風景などの大作を仕上げていく事になる。言わば、本作品はその過程に有る作品で、そういう作品への発展を示唆する作品に感じられるのですが、如何ですか?マチエルも靉光の臭いを感じさせる重厚なもの。右下のサインも良いと思いますし、裏書の字体も本人の自署と思います。絵の画面の状態も良好です。古額装済み。サイズはF2号と小品ですが、魅力ある作品です。絵から漂う雰囲気気がたまりません。正しく靉光の世界です。総合的に判断して当方は非常に良い作品で、靉光の真作との判断です。

 ***作品解説***

 この作品は、まるで心を病んでいる人が描いたようなものである。
 靉光は、1930年代よりシュルレアリスムに向かっていったが、その原点はこのような気持ちの悪い絵画にある。

 物故堂2代目が言う、「靉光の奥様が語られたのには、売れる絵は描かなかった。暗い闇の中から浮かび上がってくるようなグロ テスクな題材ばかりを選んでは描いていた。どう考えても売れる絵ではなかった言われておりました」とは、このような絵である。

 このような作品は、「幼少期における劣悪な環境(6歳のとき広島市内に住む伯父の家に養子にだされる)」と「発症時(?)のストレス(極度の貧困)」により生まれる。
 また、このような作品を作る人は、自画像「二重像」(1941年)にあるような顔で、作品「白百合」(1929年)の裏面にある文字を書く人である。
 この作品は、前衛的な作風を求めて作られたものではない。


 作品「蝶」(F30号、1936年、靉光の会鑑定証書付き、古物美術商夢幻堂取扱)

 

 ***出品者(古物美術商夢幻堂)による作品紹介***

 本作品は靉光が一九三六年に「蝶」をモチーフに描いた作品です。年表を見ておりますと、所々で「蝶」を題材に描いていた事が判ります。しかし、現存が確認されているのは、1点で残りの数点は現存が確認されておりません。この絵がその内の1枚なのかは、図柄が残されているわけでは無いので明らかではございませんが、その可能性は否定できません。極めて力のある作品で、色彩や構図、その精神性にまで靉光の世界が広がりを見せております。本作品は今年の9月の都内のオークションに出品された作品で、落札額は520万円でしたが、持ち主が売却を依頼され、委託での販売となりました。年の瀬を迎え何かと物入りの為の売却です。キャンバスに油彩。元額装で差し込みケース及び黄袋付です。鑑定書は「靉光の会」の鑑定書が付きます。絵のサイズはF30号(72.7cm・90.9cm)。

 ***作品解説***

 「書は人を表す」という。この「蝶」といういじけきったような書体は、靉光の性格に問題があることを示唆する。
 そして、この作品にも画家の精神に問題があるように感じられる。
 この作品は、作品「菊」(1932年)と共通する画家の精神状態がある。


 作品「ばら」(1938年、古物美術商物故堂取扱、所有者不詳)





 
***出品者(古物美術商物故堂)による作品紹介***

 1946年戦地上海の病院にて戦病死。昭和21年の事。アメーバ赤痢やマラリアなどを併発しての病死と言われるが、遺族の話では餓死とも言われる。最後は食事を拒否していたとされる。戦争を憎み絵を愛した。絵描きを目指した。絵描きになる事を反対され単身で上京。上京前に1年ほど大阪の印刷工場で働き、同時にデザインを学ぶ。今年生誕100年で3箇所の美術館で展覧会を実施している。私は東京近代美術館にこの展覧会を見に行った。感動はなかった。既に見た作品ばかりで、新たな作品を見ることも出来ず、又、最初の話では全ての作品を一同に集めると豪語していた東近美の担当者(O氏)も力の無さか、作品を集め切れないでいた。この作品がもう少し早く私の手元に来ていれば、持参し展覧会に出せたかもしれない。この作品は倉敷の旧家の蔵整理で出てきた作品。夏の暑い時期に3日間出張してきて発見した作品。全体的に状態もよく、維持されています。F4号に油彩。板に描かれ、板の大きな破損も無い状態ですが、無論、長年蔵に入れられていた作品のため汚れや若干の痛みはございます。汚れは落としましたので、鑑賞できる十分な状態でお届けできます。額も元額装で大きな痛みはないので、このままで十分です。差込箱と黄袋も付きます。詳しくは画像でお確かめ下さい。表にサインは無く、板の裏に署名と年期、題名の記載あり。あわせて画像を良くご覧下さい。私の研究では、この字体及び署名は靉光の自署です。そう言う意味からも私は間違いの無い作品と考えています。絵自体の評価は非常に良い物です。力強い筆致、重厚なマチエル、葉の描き方や薔薇の行き方描き方、壷の描き方背面の処理と色彩。暗闇に浮かび上がる壷に入れられたばら。彼が好んで描いた好きな花の一つです。靉光の画集の中にはこの壷と同じ壷の絵がございます。色も形も同じ。同時代に描かれた可能性がございます。この時のえはバラのみならず、壷に様々な花が入れられていた。本作品はバラのみの構図です。靉光の絵といえばシュールな絵と言われますが、実は様々な絵を描いてきているのです。画風は何度も変えられています。しかし、画風は変われど、その画面を通じて一つの線では繋がっているでしょう。それは靉光の精神です。この絵にその精神を感じられたならば、そしてこの絵を気に入って頂けたならばご入札をお願い致します。少なくとも誰が何と言おうとも私は靉光の真作と判断しています。後は自分の目で見てご判断下さい。無論、未鑑定のため、鑑定書取得の保証は出来ません。絵が良い作品である事は私が保証します。私の保証など有っても無くても同じ事ですが。絵は鑑定書の有無に関係なく画格で決まります。この作品には品と格が有ります。絵を家の書斎に掛けて楽しんで下さい。心が癒される絵です。


 作品「電線」(1938年、gentoushya取扱、所有者不詳)






 靉光「化石」(1938年頃、gentoushya取扱、meiyasu0304取扱、屋根裏部屋の美術館蔵)

 



 ***作品解説***

 この作品は、作風およびサインの筆跡から、1938年頃と推測される。
 また、額は作品「白百合」と同じメーカのものである。


 作品「幻想的な薔薇」(仮題、1938年頃、gentoushya取扱、所有者不詳)

 

 
***作品解説***

 
この作品も、作風、サイン筆跡および同一出品者などから、1938年頃と推測される。
 


 作品「流水」(1943年、靉光の会鑑定証書付き、古物美術商物故堂取扱、所有者不詳)



 
***出品者(古物美術商物故堂)による作品紹介***

 本作品は非常に貴重で今後一切入手が不可能な夭折の天才画家・靉光が描いた作品です。何処の風景でしょうか、恐らく広島の何れかの川の風景を描いた作品だと思われます。非常に鋭いタッチで描かれており、特に色調に靉光の特色が見出せる作品です。バックの木々が紅葉を見せ始めている時期と思われクリーニングを施せば鮮やかに色が蘇ると考えますが今は現状のままのでの出品となります。この状態で、「靉光の会の鑑定証書」を取得している為、鑑定書の裏面の写真は現状での状態で撮られた写真が使われております。作品の題名が「流水」と在る様に、流れる川の水を鮮やかな靉光グリーンで、又、靉光の「海」を描いた作品に共通する水の描き方など、非常に力が漲る素晴らしい出来の作品です。絵のコンディションも全く問題は御座いません。この名品をこの機会に是非コレクションの一つにお加えください。支持体は板・技法は油彩・サイズは3号・額は元額です。裏面に署名・制作年代の記載有り。所定鑑定人・靉光の会鑑定証書付です。


 作品「グラジオラス」(1943年頃、靉光の会鑑定証書付き、古物美術商玄々堂取扱、所有者不詳)




 ***出品者(古物美術商玄々堂)による作品紹介***

 素晴らしい花「グラジオラス」を描いた靉光の真作です。花びらの描写は宋元画の特徴を捉え、細密に描かれております。靉光独特の色彩やタッチ等素晴らしい作品です。東京の業者の交換会で入手しましたが今回、全国のコレクターの皆様に所蔵して頂きたく出品致します。この機会を是非ともお見逃しの無い様にお願い致します。元額に収まった絵はF4号サイズで板(ボード)に描かれております。そのマチエールは重厚で気品すら感じさせます。画面の状態は極めて良好です。画面向かって左下にサインが有ります。

 ***作品等解説***

 この作品が出品されたのは、2006年5月23日であり、また、鑑定書の日付は2006年3月3日である。このことより、この作品の出品者古物美術商玄々堂が鑑定書を取ったものと考えられる。
 また、この作品の額は作品「菊」および作品「薔薇」などと同じメーカーのものと思われる。


 作品「鯖」(水彩画、1928年制作、真贋不明、半紙破損部分画像修正、屋根裏部屋の美術館蔵)



 ***作品等の解説***

 この作品は、靉光「薔薇」の落札者が所有していたものである。
 なお、当初、この作品は非常によい収集家である estel1965jp が所有していたものである。


 茶房「リリオム」

 作品「白百合」の裏面には、「昭和四年茶房『リリオム』ニ テ 小品展ニテ 収蔵」とあるので、茶房「リリオム」について調べたところ、次のような記述を見つけた。

 ・「喫茶店の時代」(林哲夫著、編集工房ノア)

 「(松本)竣介はリリオムで仲間たちと小品展を催し、初めての個展もここで開いている。」

 ・「松本竣介追想」(鶴岡政男著/「自由美術」1948年/自由美術協会公式ウェブサイト)

 「彼を知ったのは随分古い事で昭和4・5年頃からだったと思う。彼と私は太平洋研究所にいたので毎日の様に顔を合せていたが、グループがちがっていたので別に話し合うこともなかった。其後彼が麻生や薗田などと赤豆会というのを作って気焔をあげていた頃、団子坂のリリオムという喫茶店で日曜毎に絵描きや同好者達が集っていいたい事を言い合う会合ができて、そこで彼とよく会って話し合う様になった。其頃私はNOVA美術協会を若い仲間とやっていたので彼もメンバーに加わった。NOVAは12年の事変で若い仲間達は戦争に引っぱられたり戦死したりして7回展で解散してしまった。」
 「其後彼は二科会友として九室会などで活躍していた。二科脱会後終戦前まで井上、麻生、松本、大野、糸園、靉光、寺田、鶴岡のメンバーで新人画会をやっていた。」

 ・「図版 U1930-1935 ドヤを住み家」(三重県立美術館学芸員東俊郎著/「長谷川利行(図録)」(神奈川県立近代美術館、宇都宮美術館、三重県立美術館、東京ステーションギャラリー、東京新聞編、東京新聞)

 「雌伏の時代はおわって、毎年二科に数点を出品して、その特異な画風によって画壇の一角に確たる地歩を築いてゆくように誰もが思う、というよりまず利行自身がそう信じ、画家たちとの交友もはじまっている。すでに1929(昭和4)年には傑作《靉光像》があるが、靉光をはじめ井上長三郎、寺田政明と利行を認める画家の数はしだいにふえて、「リリオム」という喫茶店での個展などもきっかけとなり気がついたときにはすでにあげた寺田政明、麻生三郎、吉井忠、中村金作といった感受性ゆたかな画家たちといっしょに裸婦のデッサン会をしたりしている。そして利行はこれら年若い友人たちにその風変わりもふくめて愛されていたようである。」


 終わりに

 靉光の具象画を紹介した。作品「白百合」は、松本俊介、長谷川利行、鶴岡政男、麻生三郎等「太平洋美術学校」に属する若き画家たちが集まっていた喫茶店「リリオム」で行われた小品展に出された貴重なものである。また、作品「鯖」は画家の写実における実力を判断する上で貴重なものである。
 また、「暗い闇の中から浮かび上がってくるようなグロ テスクな題材ばかりを選んでは描いていた」作品「菊」も靉光を知る上では重要なものである。


 履歴

1907年 本名石村日郎。広島県山県郡壬生町(現、北広島町壬生)に生まれる。
1913年 6歳のとき広島市内に住む伯父の家に養子にだされる。
1922年 高等小学校卒業後、印刷所に奉公し製版技術を習う。
1923年 大阪の天彩画塾に学ぶ。このころから靉川光郎(あいかわ みつろう)と名乗る。靉光とは、これを略したもの。
1924年 17歳で上京、谷中へ居住し太平洋画会研究所に学んだ。フランス近代絵画の影響を受け、作風がめまぐるしく変化した。
1926年 第13回二科展(→ 二科会)に初入選。以降「池袋モンパルナス」と呼ばれた界隈で、独自の画風を追求。
1928年 作品「鯖」
1929年 作品「白百合」
1930年 この頃から画風が変化し、次第に前衛的作品が増える。
1934年 桃田キエと結婚する。
1938年 第8回独立展で「目のある風景」が独立美術協会賞を受賞。「時代状況のなかでの不安な精神状態を鋭く捉えたシュールレアリスム作品」と評された。
1943年 靉光、麻生三郎、糸園和三郎、井上長三郎、大野五郎、鶴岡政男、寺田政明、松本竣介により新人画会が結成される。
1943-1944年 一連の自画像を制作。
1945年 8月6日、広島に原爆が投下され、故郷へ残してきた作品、資料の多くが焼失。8月15日、中国で終戦を迎える。
1946年 敗戦後帰国をはたせず上海の陸軍病院で死去。享年39歳。遺族の元には遺品の飯盒だけが友人から送られた。


 参考文献

「芸術新潮 2007.5」(靉光特集:東京国立近代美術館主任研究員大谷省吾著、新潮社)
「BM 美術の杜 13 生誕100年 靉光」(靉光特集:東京国立近代美術館主任研究員大谷省吾著、星雲社)





 靉光「薔薇」を出品したestel1965jpが、彼末宏「静物」も出品したので紹介する。

 彼末宏「静物」(仮題、mugenndo出品、屋根裏部屋の美術館蔵)



 ***出品者(mugenndo = estel1965jp)による作品紹介***

 ご覧の通りの古い油彩画になります。お気に召す方が居られましまらご入札下さい。県内の古道具屋さんから購入しました。[支持体・板]・[技法・油彩]・[サイズ・F4号]・[額なし]・[状態・良好]・[サインあり・読めずに詳細不明]・・・詳しく判らないので目利きにてご入札下さい。いくらになっても処分しますのでクレーム返品や落札後のキャンセルはご容赦下さい。どうぞ宜しくお願い致します。

 ***作品等解説***

 出品者のmugenndoは、estel1965jp(初代)である。estel1965jp(初代)が古物商に多くの収集品を売り払い、そして、オークションI.D.estel1965jpは他の方が使うようになった。
 このestel1965jp(初代)は、その後、mugenndoとI.D.を変えた。
 この方が、靉光「薔薇」を出品した方である。
 彼末宏「静物」は、古物商にまとめて売らなかったものであり、最後まで大切に所有されていたものである。
 サインは、彼末を知らないものにとって読みにくいものであり、H.KANOSUEと判断できないものである。
 この作品は、黒を背景色とし、すばらしい技術力により作り上げられている。
 サインも作品と調和して、彼末宏のサインではより洗練されたものとなっている。
 そして、この作品はコレクターが大切にしていたものであることが、これを収めている額が「古径」の高級額ということからも分かる。

 履歴

 初期の頃はサーカスの芸人たちを題材に、シャガールやクレーを思わせる明るい色を多用した絵画を描いたが、'70年代に画風を一変させ暗調に転じ、黒を用いながらも不思議な透明感のある幻想的な感動を生み出した。

1927年 東京都に生まれる。
1946年 東京美術学校油画科入学。
1953年 第27回国画展で初入選。
1958年 西欧学芸研究所より奨学金を受けて渡欧。
1960年 会友優作賞受賞。
1960年 国画会会員となる。
1972年 国画会会員退会。退会後は個展を中心として作品を発表。
1980年 東京芸術大学教授となる。
1985年 自選展開催。
1991年 死去。享年64 歳。





 サインの比較

 作品「白百合」の筆跡と他の4作品の筆跡と比較してみた。
 これらを比較すると、「光」の書き方にバラツキが見られる。特に作品「白百合」の「光」は、他の作品のものと異なっている。
 しかし、この作品にある「年」は、「ばら」(1938年)のものと同一である。




    


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