はじめに
 
 当美術館「屋根裏部屋の美術館」が所蔵する今西中通の作品「白良浜より***を望む」、作品「雲あり」、作品「裸婦」(木炭画)および作品「魚」(仮題)を紹介する。
 
今西中通は抽象画で有名であるが、それ以外にフォ−ビズム風、キュビズム風、セザンヌ的具象画などにも良い作品を残した。ここでは数少ない油彩風景画等を紹介する。 


 今西忠通 いまにしちゅうつう (1908-1947)


 貧困と病気(結核)に苦しみながら、そして放浪の末はかなく消えていこうとした時、中通が学んだ独立美術研究所時代の先輩林武画伯が、美術雑誌「求美」(昭和四十六年一月)に幻の画家と題して、今西中通思い出の記事を掲載して以来、日本画壇に注目されるようになりました。(「窪川たんね歩き」高知県高岡郡窪川町教育委員会社会教育課文化振興係ホームページ)

 「風評で有名な中村恒子さんもうちの近くの二階部屋を借りて絵を描いているし、有望な絵描きの一人に入れていい独立の今西忠通君も、私の白い玄関に百号の入選画をかけてくれて、相変らず飯屋(めしや)の払いに困っている。」(「落合町山川記」 林芙美子)

 「絵は手で描くものではないな」(今西中通)



 今西中通が「絵は手で描くものではないな」と言っていたが、同じようなことが絵を観る者にもいえる。絵は心で観なければならない。穏やかな色彩の油彩画「白良浜より***を望む」および「雲あり」からは、この画家の穏やかな人柄が窺える。暮らしが貧しくとも、このような心情を保てたのは、幼少期に豊かな愛情を受けて育ったからだろうか。


 作品「白良浜より***を望む」(和歌山県西牟婁郡白浜町、古物美術商物故堂取扱、屋根裏部屋の美術館蔵)



 ***出品者(古物美術商物故堂)による作品紹介***
 本作品は京都の大覚寺の近くの旧家の蔵出し。小さな蔵ですが非常に質の高い作品が埃に塗れて眠っていました。陽の目も見ずに半世紀以上に渡って暗い蔵の中に眠り続けていた作品です。再び今西中通の真筆を発見しました。支持体はキャンバスボード・技法は油彩・サイズは17.7cmX25.5cm・額は御座いません。表面にはサイン「CHUTSTU」裏面には鉛筆で「白良浜より000を望む」と有り、「昭和十七年七月二十日・忠通」と書付が有ります。又、珍品なのは、その横に俳句が書かれていることです。画像で十分確認していただけると存じます。非常に貴重な作品と言えるでしょう。私は過去に今西の真筆を京都で5点ほど発見しています。それらは、今西の奥さんである「久仁子」夫人が今西の絵を、かなりの数持参して京都に再婚に来ております。それらの絵が少し散逸しました。久仁子夫人と交流の有った方から買い取りましたので間違いがなかった。本作品もそう言う流れの絵だと思いますが、正直に言って、この絵の経緯は不明のままです。ただ、単純な構図の中に今西の特徴が随所に表れている作品と存じます。水彩画には多くこの様な構図が見られ、非常に面白い作品ではないでしょうか。今西のファンならこの絵の素性の確かさが見て取れると思います。この機会に是非コレクションの一つに加えて下さい。わざわざ鑑定書を取得はしておりません。未鑑定品の為、真贋の保証と言うよりは、鑑定書が取れる保証は出来ません。理由は鑑定委員会など、今西中通の絵が判る人は居ないからです。一応、今西中通の所定鑑定人は東京美術倶楽部と言う事ですが、余り意味はございません。鑑定書を付けても余り値段が高くなく、鑑定に出す人も居ないです。少なくとも私は、この作品は今西中通の真筆と考えます。これは、私の意見です。


 作品「雲あり」(古物美術商物故堂取扱、屋根裏部屋の美術館蔵)



 ***出品者(古物美術商物故堂)による作品紹介***

 本作品は東京の旧家の贓品です。蔵整理の際に出てきた作品の中の1点。何の変哲も無いただの風景画。しかし、その画面からは非常に力が漲っていると思います。何処の風景を描いた物なのかは委細不明ですが色彩や筆致や筆の勢い・力強いサイン等から、少なくとも私は今西中通の真作と判断して居ります。絵の支持体は板・技法は油彩・サイズはサムホール・額はございません。表面にはサイン・裏面には墨書で「雲有り・忠通」と有ります。画面はいたって良好です。板には少しの反りが見られますが、鑑賞には問題御座いません。無論、経年の擦れや汚れは御座います。この絵を自分の目で見て判断して気に入った方のご入札をお待ちしております。

 ***作品解説***

 作品「白良浜より***を望む」と作品「雲あり」を比較すると、サインが異なっているが、ともに同じような色彩が用いられている。


 作品「裸婦」(木炭画、高知県『今西中通展』出品、屋根裏部屋の美術館蔵)



 ***出品者(美術商)による作品紹介***

 日本を代表する抽象画家、今西中通の作品です。1931年、23歳の頃の作品です。題名は『裸婦』、力強い線と描写力は今西の卓越した感性が感じられます。手法は紙に木炭、水彩画です。 画面サイズは、縦36cm横28cm 。画面右上に1931.8 CHUTSU.IMANISIサインあり。昭和47年高知県『今西中通展』出品作品です。


 作品「裸婦」(油彩画、東京美術倶楽部鑑定証書付、古物美術商物故堂取扱、所有者不詳)



 ***出品者(古物美術商物故堂)による作品紹介***

 本作品は京都の旧家の蔵出しです。中通の御夫人は中通の死後、京都に嫁がれました。この旧家の先代が直接に夫人から中通の油彩作品を三点頂かれ所蔵されておられました。坂出風景二点とこの裸婦一点です。この裸婦は大変貴重な作品であります。デッサンでは裸婦を多く描いておりますが、油彩では殆んど有りません。元々、日本中でも油彩画は100点をきっております。デッサン・水彩画は結構有るのですが。今回この今西中通の珍品をオークションに出品し中通のファンにコレクトして頂きたく存じます。中通ファンにはたまらない、この最初で恐らく最後の油彩画を是非お見逃し無く。東京美術倶楽部の鑑定証書付です。3枚目の画像が鑑定証書の裏面です。右下にサイン・年期・1933と読めます。サイズは4号・キャンバスです。額は立派な手彫りの元額にはまっております。
 ***作品解説***

 今西中通の作品では、非常によいできばえのものです。古物美術商物故堂は、このようなすばらしい作品を探し出す方である。


 作品「顔・魚・工場・池」(仮題、サインなし、good8508art取扱、屋根裏部屋の美術館蔵)

 

 ***作品解説***

 ここに描かれているものは、楽しかった思い出である。彼の抽象画には、楽しかった思い出が描かれているものが多い。また、抽象画を描くようになってからは、深い色調になった。
 出品者good8508art は、非常に感性豊かな方で、非常によい作品を出品している。この方からよい作品を見付けだし購入して、再度インターネット美術商が売りに出していることがある。


 作品「風景」(古物美術商物故堂2代目取扱、所有者不詳)



  ***出品者(古物美術商物故堂2代目)による作品紹介***

 本作品は宝塚の旧家の蔵出し作品です。絵画のコレクターであったおじい様が他界され絵画に興味の無い遺族からの依頼を受けて遺品整理にお伺いしました。油彩画が数十点。面白い研究のし甲斐のある素晴らしい作品が数多く出てきましたので随時研究を重ねて出品していきます。本作品の支持体はキャンバス。技法は油彩。サイズはF6号。額はございません。裏書はございません。非常に特徴のあるサインや背景の色彩、重厚なマチエル、構図等も含めて本作品は今西中通の油彩画と考えます。非常に中通らしい風景画です。画面の状態は、古い作品のために汚れや擦れ経年の痛みやあたり、多少の剥落は有ろうかと思います。状態に関しては人それぞれ主観が違いますので、詳しいことは画像をよくご覧になってご判断ください。状態を含めてご質問がある場合は、ご遠慮なく質問欄よりお問い合わせください。この機会に全国の今西中通のファンはこの機会をお見逃しのないようにコレクションにお加えください。物故堂の出品する作品は全て未鑑定品です。物故堂の考え方により、所謂、所定鑑定機関での鑑定は受けません。よって、所定の鑑定機関での鑑定書取得は保証出来ませんが、作品自体のレベルは良いと考えています。上記の事柄を全てご理解いただいた上、後は、自分の目で見て判断して気に入った方はコレクションに加えるべく、応札をお願いします。***物故堂の考え方・・・・鑑定書至上主義からコレクター自身が別れを告げるべき時がきました。そうすれば金儲け主義の鑑定機関など必要なくなります。絵は自分の家の壁にかけて見て飾って楽しむものです。土地や金融商品とは全く別次元の物で、絵画は決して投資対象として、購入するものではございません。鑑定機関から鑑定書が出なくても自分が本物と思って、自分の目を信じて日々精進すれば良いのです。美術品の世界から贋作や稚拙な作品の排除は不可能です。だからこそ、間違いに自分が納得して、気が付けば、一歩前進です。そういうことを繰り返して審美眼は養われていくのです。コレクター自身がその審美眼を持つべきなのです。鑑定書という一枚の紙切れに頼りすぎて、業者を含めて全て審美眼がもてない状況なのです。鑑定書の有無だけで判断して、自分は何も勉強もしない。コレクターの疑心暗鬼に漬け込み、贋物排除の御旗を立てて、鑑定機関が莫大な金儲けが出来るシステムを構築したのです。デパートは言うまでも無く、オークション会社も大きな圧力をかけられています。それもこれも結局は買い手、即ち業者であれ個人のコレクターが鑑定書を要求するからです。いまこそコレクター自身が変わるべき時です。真贋はコレクターが判断すれば良いのです。その為には個々が良い作品を沢山見て、自分なりに好きな作家の研究を丁寧にすることです。所謂、鑑定委員会のメンバーも大して審美眼など持ち合わせておりません。極めて残念なことですがそれが事実です。実際のところは間違いだらけの鑑定委員会です。判らないからこそ、彼らもまた日々勉強をしていると思います。


 

 私は、靉光作品を研究して、画家に絵の中に「顔」を描く画家がいる事が分かった。
 この今西中通もその一人と考える。



  



 これらは、作品「白良浜より***を望む」、作品「裸婦」(木炭画)、作品「裸婦」(油彩画)、作品「顔・魚・工場・池」、作品「風景」からの切り抜きである。


 問題のある作品(ギャラリー川船取扱、所有者不詳)



 この作品は、ギャラリー川船が取り扱ったことがあるものである。ギャラリー川船は、いろいろな個展を通じ美術の普及を計っている画廊であり、今西中通はこの画廊が得意とする画家の一人である。

 精神に問題がある画家は、それを示す作品を作る。
 私は、この作品がそれを示すものと考える。そして、この作品は今西中通の作風として知られているものではない。
 また、この作品にも「顔」が描かれている。

 次に、同じように「精神に問題がある画家は、それを示す作品を作る」ということを示すものを掲示する。

 梅原龍三郎「トンボ」(仮題、東京美術倶楽部保証書付き)

 


 林武「裸婦」(パステル、「武の会」登録証書付き)

 


 中通の苦悩 (「窪川たんね歩き」高知県高岡郡窪川町教育委員会社会教育課文化振興係ホームページ)

 中通を幻の画家というのは、中通死して凡三十年後の今日、中通が学んだ独立美術研究所時代の先輩林武画伯が、美術雑誌「求美」に幻の画家と題して、今西中通思い出の記事を掲載したことによって博く紹介されたためである。幻の画家今西中通は画家名で、本名は今西忠通と言い、明治四十一年十月三十日旧松葉川村中村今西由馬の五男に生まれた。少年時代には家に多くの資産があり、父は松葉川村長や県会議員を勤めるなど、恵まれた家庭で育った。松葉川東尋常小学校(現在の七里小学校)から窪川高等小学校一年終了後、高知県立城東中学校(現在の追手前高校)に入学し、昭和七年十九才の時画家を志して上京、東京川端学校に学び、更に独立美術研究所に学んだ。昭和十年独立美術展に出品してD賞を受け、画壇への第一歩を踏み出した。昭和十三年都新聞社に入社してカットを描きながら画の修業を積んだ。同十五年上原まつ(東京の人で久仁子とも言い中通の没後藤本氏と再婚)と結婚した。この時から中通の苦闘が始まった。この時父は既に病没しており、父が在世時代重役をしていた高知商業銀行は昭和七・八年の世界経済恐慌の嵐を受け倒産し、その余波を受けて今西家の資産は大部分が失われていた。その上中通は肺結核に罹り信州蓼科高原で療養に努めていたが、翌十六年には香川県坂出に移り療養に勤めながら画の道の精進を続けた。昭和二十年福岡市に移り、研究所を設立しようとしたが、その研究所はアメリカ進駐軍に接収せられて目的を果たすことが出来なかった。こうして貧と病躯に攻められ、戦災の焦土福岡で、後藤基助と言う人の援助のもとで苦しい生活と画への精進を続けていたが、病状は日々悪化し、昭和二十五年六月十日、三十九才で福岡市一本木町二二二番地で苦闘の生涯を終った。
 明るみに出ることなく優れた才能異色ある作品を世に残したが、昭和四六年には福岡市で、三十五年には東京丸美で、三十五年には高知大丸で、三十六年には神奈川県立美術館で、四十二年には京都国立近代美術館でその遺作展が開かれ、二十七年には平凡社発行の世界美術全集日本版に作品が掲載された。  貧苦ー病苦ー戦後の混乱、そして放浪の末筑紫の果てにはかなく消えていった中通、既に人から忘れられようとしていた。昭和四十六年一月林画伯が美術雑誌「求美」に幻の画家として中通の記事をのせて以来、俄に日本画壇に注目されるようになり、画商はその作品を求めて数十万円から数百万円の高い評価をつけるようになった。  昭和四十七年五月二十日から二十八日まで、高知市文化祭行事として、県立郷土文化会館で、その遺作品百余点が一般へ公開された。尚その遺作品は生前の妻であった京都在住の上原まつが大部分を保管しており、窪川町内にもその二・三点が残されている。由来窪川町には、名ある画家音楽家文学家或は彫刻家等の芸術家が殆どない。中通はこの芸術家の育たない窪川に、唯一の光を放った男である。


 終わりに

 風景を描いた2枚の油彩画に観られる色彩は、落ち着いた美しいものである。
 また、「裸婦」(木炭画)もすばらしい作品であるが、「裸婦」(油彩画)は今西中通の代表作としてもよいようなすばらしいものである。
 抽象画「顔・魚・工場・池」(仮題)は、彼が描いた抽象画では最高作品といえるものである。

 巨匠と呼ばれた画家の多くは凄まじい絵画を描いた。それは、「苦悩」という状況下での作品だからという解説がある。しかし、今西中通の生活状況は非常に悪いものにかかわらず常に穏和な作品である。「絵は手で描くものではないな」という言葉ひとつにも彼の性格が窺われる。作品には画家の性格・精神が表れる。そして、画家の性格・精神は幼少期の環境に大きく左右される。また、性格・精神は遺伝的要因もある。


 履歴

1908年 高知県高岡郡窪川町に生まれる。
1927年 城北中学を中退し上京。川端画学校に学び、のち1930年協会研究所、独立美術研究所に移り、里見勝蔵、前田寛治に学ぶ。
1931年より独立美術協会展に出品。
1935年 独立美術展でD賞授賞。
1936年 同会会友。
1940年 肺結核になり療養生活を送る。(1940年〜)
1947年 独立展に出品し会員に推されるが、同年肺結核のため永眠。



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