屋根裏部屋の美術館

素晴らしい出品者の巨匠作品


 初めに

 美術品の収集で避けて通れないのは贋作という問題である。
 なかにはすばらしい贋作者もいるようだが、他の人の作品に巨匠のサインを入れて作る場合が多くある。
 ここでは、その人達の手口を紹介する。
 最初に香月泰男のサインが入った作品であったが、売れなかったためしばらくしてから、鶴岡政男のサイン入りで出品された。
 この作品は、なかなか面白いものである。
 また、作者不詳「秋野」という作品で裏面に香月泰男が同じ方よりインターネットオークションに出品された。
  


 ★作者不詳★★シュールな油彩画★サイン有り(出品者I.D.est*** 、***は伏せ字)





 出品者による作品紹介
 ご覧の通りの油彩画です。非常にシュールな絵です。作者の思想がこの絵に感じられるのは不思議です。支持体は古いキャンバスで技法は油彩です。サイズはM10号です。残念ながら額はございません。画面右下にサイン「yk」と恐らく読める筆記体で書かれています。それと年期でしょうか?49がございます。そのほか詳細は不明です。画面の状態も非常に良好です。詳しくは画像にてご判断をお願いいたします。詳しい方、目利きをお願いします。掘り出し物かも知れません。都内の美術品コレクターの改築に伴う遺品の整理売却品です。お気に召す方がおられましたらご入札をお願いします。購入意思の無い方の落札は固くお断りします。
 履歴(香月泰男美術館「香月泰男 履歴」) 

1911年(明治44年) 山口県大津郡三隅町に生まれる。兄弟はいない。
1915年(大正4年) 4才 父母協議離婚。母・八千代一時家を出る。
1918年(大正7年) 7才 三隅村立明倫尋常高等小学校に入学。家庭環境からの影響もあって、友達と遊ぶより一人で時を過ごすことのほうが多かった。
1921年(大正10年) 10才 母・八千代香月家を出る。小学校4年の頃から画家になることを夢見ていたという。これには遠縁に当たるものに雪舟の流れを汲む雲谷派の末裔がおり、その原稿などが家にあったことなどが影響しているものと回想している。またこの頃初めてクレヨンを手にしてその色に魅せられる。 山口県立美術館の安井雄一郎氏の調査によると、雲谷派の末裔とは曾祖父・玄齢の妻・マスの兄弟で、萩の原家に養子に入った謙三の子・つちに迎えた養子の画家であったろうという。
1922年(大正11年) 11才 すでに家を出ていた父・貞雄、朝鮮の大邱にて客死する。
1923年(大正12年) 12才 祖母・チセ死去。学校の教師の描く水彩画・油絵画などにつぎつぎに魅惑されていく。
1931年 東京美術学校に入学、藤島武二の教室に学ぶ。
1934年 「雪降りの山陰風景」で国画会に初入選。
1936年 東京美術学校油絵科を卒業。北海道庁立倶知安中学校に美術教師として赴任。スランプに陥り絵画の制作はあまり行われなかった。
1938年 山口県立下関高等女学校(現・山口県立下関南高等学校)に転任する。
1939年 梅原龍三郎、福島繁太郎の知遇を得る。「兎」第三回文展特選。
1940年 国画会第15会展で佐分賞を受賞。国画会同人に推挙される。
1942年 太平洋戦争の開始で、召集を受け、満州へ。
1945年 ソ連シベリアにて抑留され、クラスノヤルスク地区のセーヤ収容所で強制労働に従事。これが、彼のシベリア原体験となり、その後の作品全体の背景となる。
1947年 帰国。下関高等女学校に美術教師として復職。
1948年 郷里の三隅に戻り、山口県立深川高等女学校(後に大津中学校と統合の上、山口県立大津高等学校となる)に転任。
1955年 マチエルに方解末を用いた独特の黒い作品が生まれる。
1956年 「ヒューザンス」がメルボルン近代美術館に収蔵される。
1960年 大津高等学校を依願退職。その後しばらくは創作活動に専念。
1966年 九州産業大学に新設された芸術学部油絵科の主任教授を委嘱される。
1968年 西日本文化賞受賞。
1969年 「シベリア・シリーズ」で第1回日本芸術大賞を受賞。
1971年 安井賞選考委員を委嘱される。長女・慶子死去。
1972年頃 作品「一本道」(仮題)
1974年 心筋梗塞にて死去。勲三等瑞宝賞受賞。


 作者不詳の油彩画・抽象的絵画(出品者I.D.estt***、***は伏せ字)





 出品者による作品紹介

 ご覧の通りの油彩画です。何処か不思議な奇妙な絵です。大変古いキャンバスに油彩で描かれております。昭和18年戦前の作品です。署名はございますが詳細は一切不明です。大きさはM10号です。状態等は画像を良く見てください。どうぞ宜しくお願いします。

 履歴

 鶴岡政男 つるおかまさお 1907-79(明治40−昭和54)

 人間の根源を極限まで追求した独自の画風を展開。「事ではなく物を描く」という主張は、画壇にセンセーショナルを巻き起こした。

1907年  群馬県高崎市に生まれる。
 幼少時から住所を転々とし、8歳で上京。太平洋画会研究所で井上長三郎、靉光らと交友を結び、NOVA美術協会を結成。《髭の連作》など軍部を風刺した作品を発表
1937年  応召され兵役に服して中国大陸に渡る。40年、兵役解除となる。
1943年  松本竣介らと新人画会を結成。戦後はそのメンバーらと自由美術家協会に合流。
1954年  雑誌の座談会で「事ではなく物を描く」ことを主唱。
       第1回現代日本美術展に出品した作品「落下する人体」が佳作賞を受賞。
1963年  第7回日本国際美術展では作品「夜の祭典」が優秀賞を受賞。常に生きた時代と深く関わりながら、人間の根源を問い続け、鋭い風刺と醒めた虚無感の漂う独自の画風をめまぐるしく展開。
 60年代からパステル画も増え、晩年になるにつれて、一種の軽みが不可思議な色彩の豊かさを生み出した。
1979年  群馬県立近代美術館での回顧展の閉幕3日後に東京で死去。


 出品者について その1

 
出品者に、あなたが行っていることは犯罪ではないかと問い合わせをしたところ次のような回答があった。

 「私はただの会社員です。まずとりあえず判る事を正直に申します。昨年の夏位に、街で5年ぶりに偶然再会した短大時代の友人に私の名前と住所の利用の許可。それにメールの作業を兼ねると、継続して多少のおこずかいになるから、というので、していただけなのです。何処で、誰が実際にどの様な作業をしているのかは、一切知らされていませんし判りません。」

 代理出品のようですが、ここに記載されている「短大時代の友人」は、名前を隠す必要があったのである。つまり、この友人は犯罪であるということを充分認識していた。
 そして、出品者から「短大時代の友人」の話しを伺った。その「短大時代の友人」も名義貸しをしていたそうである。

 「その人は、数人でグループを作り出品品目ごとに、10種類近くのIDを使い分け運営している。その人達は全て関東や関西の専門業者の方達。仕入れ先は、ほぼ全てが、業者市場。出品地域は名義貸し者の地域との事。彼女も一度、依頼者の古書業者さんと神保町の古書の業者市場に連れて行ってもらった事がある、と言ってました。そういう場所で書画も多数売買されるらしいです。」


 出品者について その2

 この出品者のヤフーインターネットオークションI.D.est***は、3人の人が使っていた。

 一番初めにこのI.D.を使っていた方は、非常によい出品者であった。収集品は、ご夫婦で骨董屋を回り集めたものであった。非常に素晴らしい絵画が多くあり、この方の出品物は人気があった。住所からすると、会社を営んでいたことが推察された。ご主人が病気になり、お金が必要となり出品していた。

 相当の枚数が出品された後、残りの絵画100枚以上がこの方の友人に直接買い取られた。そして、この人から引き続き出品された。この方が出品されるときは、明らかに質の悪い、いわゆる贋作が多く混じり出した。
 この出品者が数多くの贋作を作っていることは、出品作品を観察して分かった。その贋作は、サインを書き加えたものであった。

 その後、このI.D.は名義貸しの若い女性が使うようになった。

 この贋作の作製者は、東京美術倶楽部の鑑定を通った贋作を作製した人である。


 ★作者不詳★題「秋野」★古いキャンバス画(出品者I.D.est***、***は伏せ字)





 出品者による作品紹介

 ご覧の通りの大変素晴らしい油彩画です。支持体は古いキャンバス。技法は油彩です。サイズはP10号です。元額装。画面の状態も非常に良好です。大切にされていたのが手に取るようにわかります。サインや裏面の木枠に題名と署名が有りますので参考にして下さい。詳しい方目利きをお願いします。ご購入意思の無い方のご入札はお断りします。

 作品解説

 作品の裏面に香月泰男のサインがあるが、香月の作風と異なる。しかし、作品は非常にすばらしいものである。この出品者は、「★作者不詳★★シュールな油彩画★サイン有り」を出品した方である。

 この作品について、ヤフーインターネットオークションI.D. good8508art 氏より中尾一枝のものであると教えて戴いた。
 中尾一枝の画集にある作品「人間の世界」(1970年作)の写真を送って戴いた。



 写真より、作品「秋野」の作者は中尾一枝であることが分かる。教えてくださった good8508art 氏は、ほとんど知られていない画家中尾一枝について知っていた。この方は、絵、書、音楽などについて、すばらしい知識の持ち主で、いつもながら感心する。


 大量に作り出される贋作

 ヤフーインターネットオークションI.D. gent******よりこのオークションで次から次へと贋作が出品されている。
 それは、他の方がサインのない作者不詳作品として出品されたものが、1ヶ月後ぐらいにサイン有りの作者不詳作品として出品されたことからも分かる。
 2010年6月3日の時点で、この方は12点出品していて、その内訳は長谷川利行3点、三岸好太郎1点、靉光1点、鍋井克之1点、山本鼎2点・・・というような内容である。
 そのなかの2点を紹介する。

 なお、最初に出品した方に、メールでこの件を告げると次のような返事を戴いた。

 「子供の絵が何故前田寛治になるのか疑問です。山本鼎についても全く絵が一致してません。やはり高額になる作家になるのは仕方ありませんが。絵に近い作家のサインならば少しは納得いくのですが・・・・。とてもいい絵なんですが、やはりサインが入ってしまうと、もう愛着がなくなってきますね。残念です。絵がかわいそうで何となく悲しくなってきました。」


 ◆◆作者不詳◆◆古い板絵◆◆(出品者I.D.gent******、******は伏せ字)





 出品者による作品紹介

 当オークションをご覧頂きまして誠に有難うございます。【絵の詳細】***板・油彩・サムホール号・額なし・サイン・裏側には鉛筆書きで何か書かれていますが読めません。画面の状態は概ね良好(多少の汚れや、擦れ等はございます。)です。その他、詳しくは画像をよくご覧の上でご判断いただければと存じます。私は絵に関しては全くの素人ながら古い絵が大好きで自分で買い求めてきたものや、元々家に在った父や祖父のコレクションを含めて随時売り切って処分していきますので、目に留まりお気に召される作品があれば、全て目利きにてご判断を頂きましてご入札をお願いします。祖父のコレクションに付き作者の詳細は不明で、当方は真贋の区別も全く付きません。また、真贋を語る資格もございません。落札者さまからは「本物だったのでとても嬉しい」と言うお言葉や「偽物でがっかりした」と言うお言葉など様々です。画像のみでのご判断は難しいかもしれませんが、ヤフーオークションである以上仕方がございません。全てご理解いただいた上でのご入札をお願いします。低額からの出品で売り切りに付き、落札後のキャンセルやクレーム・返品には一切対応できませんので予めご了承をお願いします。どうぞ宜しくお願いします。

 作品解説

 この作品について、ヤフーインターネットオークションI.D. good8508artが作者不詳の作品として出されていたものである。その約1ヶ月後、ヤフーインターネットオークションI.D. gent******よりサインが書き加えられたものが出品された。この作品には違反商品「詐欺など、トラブルの可能性が疑われるもの」として2件の申告があった。
 なお、このサインは山本鼎(やまもとかなえ)の鼎を象ったものである。


 山本鼎作品



 山本鼎 履歴

1882年 愛知県岡崎市に生まれる。
1887年 一家東京に転居、浅草山谷に住む。
1902年 東京美術学校西洋画科選科入学。
1912年 フランス留学。エコール・ド・ボザールに入学。
1914年 第一次世界大戦始り、ロンドンへ避難。
1915年 エコール・ド・ボザールに通学再開。
1916年 帰国。
1931年 日本版画協会設立。副会長となる。
1935年 帝展参与。
1936年 新文展審査員。
1946年 死去。


 ◆◆作者不詳◆◆大変古い板に油彩(出品者I.D.gent******、******は伏せ字) 







 出品者による作品紹介

 当オークションをご覧頂きまして誠に有難うございます。【絵の詳細】***板・油彩・サムホール号・額なし・ローマ字サイン・裏側に「棟一郎」と書かれた子供の絵が有ります・画面の状態は概ね良好(多少の汚れや、擦れ等はございます。)です。その他、詳しくは画像をよくご覧の上でご判断いただければと存じます。私は絵に関しては全くの素人ながら古い絵が大好きで自分で買い求めてきたものや、元々家に在った父や祖父のコレクションを含めて随時売り切って処分していきますので、目に留まりお気に召される作品があれば、全て目利きにてご判断を頂きましてご入札をお願いします。祖父のコレクションに付き作者の詳細は不明で、当方は真贋の区別も全く付きません。また、真贋を語る資格もございません。落札者さまからは「本物だったのでとても嬉しい」と言うお言葉や「偽物でがっかりした」と言うお言葉など様々です。画像のみでのご判断は難しいかもしれませんが、ヤフーオークションである以上仕方がございません。全てご理解いただいた上でのご入札をお願いします。低額からの出品で売り切りに付き、落札後のキャンセルやクレーム・返品には一切対応できませんので予めご了承をお願いします。どうぞ宜しくお願いします。

 作品解説

 この作品も、ヤフーインターネットオークションI.D. good8508artが作者不詳の作品として出されていたものである。その約1ヶ月後、ヤフーインターネットオークションI.D. gent******よりサインが書き加えられたものが出品された。この作品には違反商品「詐欺など、トラブルの可能性が疑われるもの」として2件の申告があった。
 この作品の質は非常に高いものである。子供は正面を向いているようであるが、右半分は横顔でもある。また、この作品の作者は渡仏経験があると考える。
 「裏側に『棟一郎』と書かれた子供の絵」とあるので、Googleで「画家 棟一郎」で検索したところ、前田寛治 「棟一郎像」 (1929年)というものがヒットした。そこで、今度は「前田寛治」で検索したところ、前田寛治「少年像」という作品が見つかった。
 この前田寛治「少年像」に描かれた少年と「◆◆作者不詳◆◆大変古い板に油彩」に描かれた子供とは、同一人物を描いたように思える。
 贋作ではあるが、おもしろいものである。

 前田寛治「少年像」



 前田寛治 履歴

1896年 鳥取県に生まれる。
1915年 上京、葵橋洋画研究所に学ぶ。
1916年 東京美術学校西洋画科に入学。
1921年 東京美術学校西洋画科卒業。在学中は藤島武二に師事し、また、精神的には内村鑑三に傾倒した。
1921年 二科展に初入選。
1922年 渡仏。アカデミー・ド・ラ・グラン・ショーミエールに学ぶ。新古典主義、写実主義を研究し、アングル、クールベに魅かれる。また、マネ、セザンヌにも刺激を受けた。さらに、唯物史観の影響を受け、「二人の労働者」など、社会的な主題を扱った作品も描く。
1925年 帰国。第6回帝展では「J・C嬢」で特選となる。
1926年 里見勝蔵らと一九三〇年協会を結成する。
1928年 渡仏期の成果を基に、前田写実研究所を開設し、後進の指導にあたる一方で造型理論の研究をすすめ、古典的な構図とフォーヴィスム的な筆致を持つ作品を制作する。
1929年 第10回帝展で、帝国美術院賞を受賞。
1930年 死去。


 ◆◆作者不詳◆◆「嗣冶・Foujita」◆◆キャンバスに油彩画(出品者I.D.gent******、******は伏せ字)

 



 出品者による作品紹介

 当オークションをご覧頂きまして誠に有難うございます。【絵の詳細】***キャンバス・油彩・F4号・額なし・サイン・画面の状態は概ね良好(多少の汚れ や、擦れ等はございます。)です。昭和三十六年九月に贈られた物か描かれた年かは不明です。その他、詳しくは画像をよくご覧の上でご判断いただければと存 じます。私は絵に関しては全くの素人ながら古い絵が大好きで自分で買い求めてきたものや、元々家に在った父や祖父のコレクションを含めて随時売り切って処 分していきますので、目に留まりお気に召される作品があれば、全て目利きにてご判断を頂きましてご入札をお願いします。祖父のコレクションに付き作者の詳 細は不明で、当方は真贋の区別も全く付きません。また、真贋を語る資格もございません。落札者さまからは「本物だったのでとても嬉しい」と言うお言葉や 「偽物でがっかりした」と言うお言葉など様々です。画像のみでのご判断は難しいかもしれませんが、ヤフーオークションである以上仕方がございません。全て ご理解いただいた上でのご入札をお願いします。低額からの出品で売り切りに付き、落札後のキャンセルやクレーム・返品には一切対応できませんので予めご了 承をお願いします。どうぞ宜しくお願いします。

 この作品も、ヤフーインターネットオークションI.D. good8508art が作者不詳の作品として出されていたものである。その後、ヤフーインターネットオークションI.D. gent******より、サインを書き加えられたものが出品された。


 今西中通作品

 コレクターは、同じ画家の作品を集めることがあるため、その収集品が放出された時、その画家の作品が一時期オークションでいくつか出品されることがある。
 また、現在では、贋作作成者は実際に画家の絵を真似て作り売りに出すことは少なく、サインのない作品にサインを書き加えたり、あるいは、サインを消し、新たに著名画家のサインを書き加えることがある。
 古物美術商物故堂2代目より、今西中通のサインでCHuTsuと描かれたものが出品された。このサインはCHuTsnのようにも見えるもので、今西中通を知らないものにとって画家の名前が分かるものでない。
 インターネットオークションI.D.gentoushyaより、長谷川利行「裸婦」が出品されたが、私は、この作品が今西中通のものと考える。
 

 ◆◆T・HASEKAWA・利行・題「裸婦」◆◆板に油彩(出品者I.D.gent******、******は伏せ字)


 画像番号:gentoushya-img371x531-1293584860tuuuks32907







 当オークションをご覧頂きまして誠に有難うございます。【絵の詳細】***板・油彩・額なし・F4号・裏書あり。詳しくは画像をご覧ください。古い油彩画ですので、経年の汚れや折れ等、多少の痛みは当然ございますが、鑑賞に影響ない程度の痛みと思います。状態を重要視される方は、質問欄からその旨の質問をお願いします。その他、詳しくは画像をよくご覧の上でご判断いただければと存じます。祖父が大切にしていたコレクションにつき詳細は不明です。私は絵に関しては全くの素人ながら古い絵が大好きで自分で買い求めてきたものや、元々家に在った父や祖父のコレクションを含めて随時売り切って処分していきますので、目に留まりお気に召される作品があれば、全て目利きにてご判断を頂きましてご入札をお願いします。当方は真贋の区別も全く付きません。また、真贋を語る資格もございません。落札者さまからは「本物だったのでとても嬉しい」と言うお言葉や「画像と感じが違った」、と言うお言葉など様々です。色彩なども正確に表現できない画像のみでのご判断は難しいかもしれませんが、ヤフーオークションである以上仕方がございません。全てご理解いただいた上でのご入札をお願いします。低額からの出品で売り切りに付き、落札後のキャンセルやクレーム・返品には一切対応できませんので予めご了承をお願いします。どうぞ宜しくお願いします。


 【物故堂】☆夭折の画家・今西中通☆貴重な裸婦の油彩画☆





 本作品は宝塚の旧家の蔵出し作品です。絵画のコレクタであったおじい様が他界され絵画に興味の無い遺族からの依頼を受けて遺品整理にお伺いしました。油彩画 が数十点。面白い研究のし甲斐のある素晴らしい作品が出てきましたので随時研究を重ねて出品していきます。本作品の支持体は板。技法は油彩。サイズはF4 号。額はございません。今西中通は決してメジャーな作家ではなく、梅野絵画記念館館長・梅野隆氏(現在は職を退官されました)が、その昔、彼が現役時代 (芸林時代)に発掘した作家といわれています。夭折の画家でもあり、デッサンや水彩画では裸婦画は数多く残しておりますが、油彩画では少ないです。そうい う意味でも本作品は貴重品だと考えます。筆使いや色彩・構図を検証したとき、この絵は今西中通の油彩画と判断して問題ないと考えます。中通の臭いが感じら れる絵です。画面の状態も概ね良いと思いますが古い作品のために若干の汚れがございます。状態に関しては人それぞれ主観が違いますので、詳しいことは画像 をよくご覧になってご判断ください。状態を含めてご質問がある場合は、ご遠慮なく質問欄よりお問い合わせください。この機会に全国の今西中通のファンはお 見逃しのないようにコレクションにお加えください。物故堂の出品する作品は全て未鑑定品です。物故堂の考え方により、所謂、所定鑑定機関での鑑定は受けま せん。よって、所定の鑑定機関での鑑定書取得は保証出来ませんが、作品自体のレベルは良いと考えています。後は、自分の目で見て判断して気に入った方はコ レクションに加えるべく、応札をお願いします。***鑑定書至上主義からコレクター自身が別れを告げるべきです。そうすれば金儲け主義の鑑定機関など必要 なくなります。絵は自分の家の壁にかけて見て飾って楽しむものです。土地や金融商品とは全く別次元の物で、絵画は決して投資対象として、購入するものでは ございません。鑑定機関から鑑定書が出なくても自分が本物と思って、自分の目を信じて日々精進すれば良いのです。美術品の世界から贋作や稚拙な作品の排除 は不可能です。だからこそ、間違いに自分が納得して、気が付けば、一歩前進です。そういうことを繰り返して審美眼は養われていくのです。コレクター自身が その審美眼を持つべきなのです。鑑定書という一枚の紙切れに頼りすぎて、業者を含めて全て審美眼がもてない状況なのです。鑑定書の有無だけで判断して、自 分は何も勉強もしない。コレクターの疑心暗鬼に漬け込み、贋物排除の御旗を立てて、鑑定機関が莫大な金儲けが出来るシステムを構築したのです。いまこそコ レクター自身が変わるべき時です。その為には個々が良い作品を沢山見て、自分なりに好きな作家の研究を丁寧にすることです。所謂、鑑定委員会のメンバーも 大して審美眼など持ち合わせておりません。極めて残念なことですがそれが事実です。実際のところは間違いだらけの鑑定委員会です。判らないからこそ、彼ら もまた日々勉強をしていると思います


 ◆◆作者不詳・サイン・裏書等読めません◆◆力のこもった油彩画(出品者I.D.gent******、******は伏せ字)





 当オークションをご覧頂きまして誠に有難うございます。◆◆◆【絵の詳細】◆◆◆キャンバス・油彩・額なし・F15号・サイン・木枠に書付あり。詳しくは画像をご覧ください。大変古い油彩画ですので、経年の汚れや擦れ、多少の剥落等の痛みは当然ございますが、額装をされれば、鑑賞に影響ない程度の痛みと私は思いますが、神経質な方や状態を重要視される方は、質問欄からその旨の質問をお願いします。その他、詳しくは画像をよくご覧の上でご判断いただければと存じます。祖父が大切にしていたコレクションにつき詳細は不明です。私は絵に関しては全くの素人ながら古い絵が大好きで自分で買い求めてきたものや、元々家に在った父や祖父のコレクションを含めて随時売り切って処分していきますので、目に留まりお気に召される作品があれば、全て目利きにてご判断を頂きましてご入札をお願いします。当方は真贋の区別も全く付きません。また、真贋を語る資格もございません。落札者さまからは「本物だったのでとても嬉しい」と言うお言葉や「画像と感じが違った」、「贋物と思ったので少し残念」と言うお言葉など様々です。色彩なども正確に表現できない画像のみでのご判断は難しいかもしれませんが、ヤフーオークションである以上仕方がございません。全てご理解いただいた上でのご入札をお願いします。低額からの出品で売り切りに付き、落札後のキャンセルやクレーム・返品には一切対応できませんので予めご了承をお願いします。どうぞ宜しくお願いします。


 【物故堂】☆原勝四郎の油彩画☆「自画像」?☆1937年作・真作



 本作品は和歌山出身の幻の画家と言われた原勝四郎の油彩画です。支持体は板。技法は油彩。サイズはF3号。額はございません。サイン。裏書き(昭和 十二年・1937)有り。、作品の真正は保証します。昭和十二年というと、原勝四郎51歳です。本作品は恐らく自画像でしょう。画家本人が絵を描いている ときの構図です。独特の太い線と色彩で勢いよく描きあげる絵は迫力があります。画面の状態も概ね良好で、古い作品ですので経年の汚れやそれに伴う多少の劣 化などはあろうかと思います。詳しくは画像をよくご覧のうえ、ご判断をお願いします。質問が有る場合は質問欄より、ご遠慮なくお申し付け下さい。原勝四郎 は、1886年に生まれてから1964年に逝去するまでの間には様々な人生を送っています。数年間の滞欧生活も経験し、色々な方の援助を得ながら、長生き をした割には絵の数がそんなに多くないような気がします。知る人ぞ知る、という画家です。私は好きな画家の一人で、今回の宝塚の旧家の整理の際に数枚の原 勝四郎の油彩画が出てきました。随時出品していきます。全国の原勝四郎のファンの方はこの機会をお見逃しの無いようにコレクションにお加えくださいませ。 残念ながら額が無く、落札者様がこの絵に合う額装をしてお楽しみ頂ければ幸いです。どうぞよろしくお願いします。


 画廊ビュフェファイヴ取扱



  明治19年(1886)、現在の田辺市に生まれる。和歌山県立田辺中学校を卒業し、明治38年(1905)洋画家を志望して上京、東京美術学校や白馬会研究所で学ぶが、ヨーロッパで学びたいという想いが高まり渡航を決意する。しかし、第一次世界大戦の最中で旅券は発行されず、学資も充分なものとは言えなかった。一時帰郷するが、渡航の決意は固く、大正6年(1917)シンガポールまでの旅券の交付を受けて出国、サイゴンから船員に雇われてフランスに入った。
 パリにたどり着くが、戦争の影響でたちまち生活苦に陥る。画学校へ通えたのはごく短い期間で、以後は貧困のなか、フランス各地、イタリア、北アフリカを様々な仕事をしながら放浪する。途中マラリアにかかり、力尽きて病院に収容されるようなこともあった。友人の画家たちの支援でパリに戻り、大正10年(1921)帰国する。不本意な滞欧生活であったが、同じ時期に留学した画家たちやパリの画学生たちとの交流、美術館で接した巨匠たちの作品、そして生存の限界にあっても、なお描かずにはいられない自分自身を発見したことは、その後の芸術を形成する大きな要素となった。
 帰国後は、郷里にもどり、近隣の風景や自画像、家族の肖像、バラを中心とした静物など身辺の自らが愛したものを主題として制作した。昭和15年(1940)二科展で岡田賞を受賞し、翌年会友に推挙される。戦後は、二科会の再建に加わらず、二紀会に同人として参加した。
 原勝四郎は昭和39年(1964)78歳で亡くなったが、鮮やかな色彩で筆触の効果が充分に活かされた生気あふれる作品は、いまも多くの人々の心をとらえて離さない。 (ホームページ「和歌山県情報館」和歌山県知事室広報課)

 履歴(「画廊ビュッフェファイヴ回廊30周年記念原勝四郎展」より)

1886年 和歌山県田辺市に生まれる
1904年 田辺中学卒業
      東京美術学校予備科に入学
1914年 白馬会溜池研究所に通う
1917年 渡仏。パリのアカデミー・グラン・ショミエール等で油絵を学ぶ
1917年 帰国、第8回二科展出品。以後、1943年まで出品を続ける。
1940年 第27回展岡田賞受賞。
1931年 西牟婁郡瀬戸鉛山村(現在の白浜町)に転居。
1948年 第2回二紀展に同人として出品。以後、1960年(昭和35年)まで出品を続ける。
1953年 第7回展同人努力賞
1959年 第13回展同人優勝
1964年 死去。享年78才。


 偽造された鑑定書

 

 靉光の作品を鑑定する機関として「靉光の会」がある。
 ここに、「靉光の会」が発行したとされる2枚の鑑定証書がある。共に昭和58年2月16日に発行されたものである。
 同日に発行されたものであるがおかしな点がいくつもある。

 ・印章が異なる。
 ・サインの「盛」の書体が異なる。
 ・登録ナンバーより、同日に21枚以上の鑑定証書を発行したことになる。
 ・作品「なす」には、「制作年」とあり、作品「鬼あざみ」には「製作年」とある。
 ・靉光は、1946年に死去した画家である。この2枚の鑑定証書には、制作年が1966年とある。

 その他にも違いがあるが、同一日にこのような異なった鑑定証書を発行するわけがない。
 そして後に、靉光の会代表が朝日晃氏に替わったが、この時の靉光の会代表印がこの2種類の鑑定証書にあるものと異なっている。
 この2枚の作品の真贋を調べるのは、まずこの鑑定証書を調べなければならないが、少なくとも制作年に記載ミスがあるようなものは近寄るべきではない。


 終わりに

 出品者I.D.est **が、たんなる名義貸しである。
 しかし、出品者I.D. gent******は、たんなる名義貸しとは考えられない。
 しかし、贋作ではあるがどの作品もよい作品である。
  

    

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