古賀春江 夢の散歩

 はじめに

 当美術館「屋根裏部屋の美術館」が所蔵する古賀春江の作品「風景」(1926,1927年?)を紹介する。
 彼は、1926年から1927年にパウル・クレーに傾倒していたが、この作品はちょうどその年に制作されたものである。


 古賀春江

 大正期に活躍した日本の初期のシュルレアリスムの代表的な洋画家(男性)である。本名は亀雄(よしお)。後に僧籍に入り「古賀良昌(りょうしょう)」と改名する。「春江」はあくまでも通称である。
 キューブ風、クレー風、シュール風(1926年から1927年にパウル・クレーに傾倒)といろいろな作風に取り組んだ。


 作品「風景」(1926,1927年?、古物美術商物故堂2代目取扱、屋根裏部屋の美術館蔵)





 ***出品者(古物美術商物故堂二代目)による作品紹介***

 本作品は宝塚の旧家の蔵出し作品です。絵画のコレクタであったおじい様が他界され絵画に興味の無い遺族からの依頼を受けて遺品整理にお伺いしました。油彩画が数十点。面白い研究のし甲斐のある素晴らしい作品が出てきましたので随時研究を重ねて出品していきます。本作品の支持体はキャンバス。技法は油彩。サイズはP8号。額装。サイン・裏側木枠に題名と署名有り。裏書の自体は自署でしょう。サインも力強く感じます。筆使いや色彩・構図・古賀の世界観が如実に現れている絵です。色彩がとても豊かで、街の心象風景を表現しているのだと思います。シュールな画面の状態も概ね良いと思いますが古い作品のために若干の汚れがございます。状態に関しては人それぞれ主観が違いますので、詳しいことは画像をよくご覧になってご判断ください。状態を含めてご質問がある場合は、ご遠慮なく質問欄よりお問い合わせください。この機会に全国の古賀春江のファンはこの大変貴重なシュールな油彩画をコレクションするチャンスですので、お見逃しのないようにコレクションにお加えください。物故堂の出品する作品は全て未鑑定品です。物故堂の考え方により、所謂、所定鑑定機関での鑑定は受けません。理由は鑑定機関自体の鑑定眼を全く信じていないからです。ただそれだけです。鑑定委員は私たち(一般のコレクター)と同レベルか、それなりに研究を重ねている人よりは遥かに劣ります。鑑識眼のレベルは相当低い。その様な連中が多数決でもなく自分たちの好き勝手に鑑定をしていて、権威だと、笑わせる。日本のオークション会社も同様で、猫も杓子も鑑定書。オークション会社も論外。業者もしかり。物故堂は、自分の見識において、少なくとも私自身は良い作品と判断した物だけを出品しております。私の判断と鑑定機関の判断がずれる場合が多々有る為に、所定の鑑定機関での鑑定書取得を保証は出来ませんが、作品自体のレベルは良いと考えています。後は、自分の目で見て判断して気に入った方はコレクションに加えるべく、応札をお願いします。本来の姿かたちにコレクター自身が戻るべき時がきました。鑑定書至上主義からコレクター自身が別れを告げるべきです。そうすれば金儲け主義の鑑定機関など必要なくなります。絵は自分の家の壁にかけて見て飾って楽しむものです。土地や金融商品とは全く別次元の物で、絵画は決して投資対象として、購入するものではございません。鑑定機関から鑑定書が出なくても自分が本物と思って、自分の目を信じて日々精進すれば良いのです。美術品の世界から贋作や稚拙な作品の排除は不可能です。だからこそ、間違いに自分が納得して、気が付けば、一歩前進です。そういうことを繰り返して審美眼は養われていくのです。コレクター自身がその審美眼を持つべきなのです。その為には良い作品を沢山見て、自分なりに好きな作家の研究をすることです。所謂、鑑定委員会のメンバーも大して審美眼など持ち合わせておりませんから。極めて残念なことですがそれが事実です。間違いだらけの鑑定委員会ですから・・・。彼らもまた日々勉強をしていると思いたいです。

 ***作品解説***

 古賀春江は、詩も書いていた。作品「風景」は、1926年もしくは1927年のものであるが、1926年に書かれた「赤い風景」という詩がある。

 「赤い風景」(1926年)

 土手の上から歩を休めて見る門口の向ふまで、
 太陽が疲れた光を撒いてゐる。
 私も少し疲れた。

 夕暮れに間近い、赤い色の中で、
 休みに入らうとする生もの等の雑然とした音が聞えて来る。
 遠いのはやさしく、近い音は大きい。

 刈あとの田と稲束。

 家路へ帰る人の感情が耳の所で色になって聞える。
 何かがチラチラする気配がする。
 これはずっと遠くまでつづいてゐます。

 この作品とこの詩とは多少時期が異なるかもしれないが、詩にある「太陽が疲れた光を撒いてゐる」、「夕暮れに間近い、赤い色の中」とはこの絵にある様なものなのだろうか。


 パウル・クレー「南の庭」(1936年)



 パウル・クレー(Paul Klee、1879年12月18日 - 1940年6月29日)は20世紀のスイス出身の画家、美術理論家である。
 ドイツでワシリー・カンディンスキーらの青騎士のグループに参加し、バウハウスで教鞭をとったこともある。その作品は表現主義、超現実主義などのいずれにも属さない、独特の世界を形づくった。(Wikipedia)


 作品「花月」(東京国立近代美術館蔵




 共感覚者

 共感覚とは、文字に色が見える、音に手触りを感じる、痛みから不思議な映像が浮かぶなど、五感のうち二つの感覚が同時に働く、奇妙な知覚様式である。ランボー、ナブコフ、スクリャービンなど、多くの作家や音楽家、画家も持っている。(『猫は青、子猫は黄緑』パトリシア・リン・ダフィー著、石田理恵訳、早川書房)

 詩「赤い風景」(1926年)に「家路へ帰る人の感情が耳の所で色になって聞える」とあるが、これは感情が色として感じたということである。
 つまり、彼の作品「風景」(1926,1927年?)には、共感覚というものが伴っている可能性がある。

 太陽が疲れた光を撒いてゐる。
 私も少し疲れた。

 作品「風景」(1926,1927年?)には、彼が疲れたとき感じる「太陽が疲れた光を撒いてゐる」が描かれている。それが、作品左上に描かれた黒い太陽である。
 
 また、彼は、「病床にて」(1933年)という詩を書いた。
 
 「病床で書かれたという20篇の詩はノートに書きなぐられたもので、錯乱の状態で、脱字・誤字も多く、夫人が判読しながら清書されたものである。幻覚体験の過程で綴り合わせた詩句であるから、ほとんどがオートマチスム的なものであるのは当然である。……・」(『古賀春江 -芸術と病理- 』より)

 共感覚は、幻覚と同じように脳のトラブルから起きるものである。

 履歴には、「1927年 神経衰弱にて帰郷」とある。
 共感覚は脳における小さなトラブルと言えるものであるが、彼は脳における大きなトラブルとも言えるものも生じたようである。


 シュルレアリスム

 日本におけるシュルレアリスムの先駆けとも言える古賀春江の作品「海」について次のような意見がある。

 「海」(1929年、二科会16会展出品)に続く数年間の彼の作品は一般に日本におけるシュルレアリスム絵画の嚆矢とされており、以降の日本の美術に大きな影響を与えている。しかし例えば「海」などはモンタージュ技法を積極的に用いたモダニズムの絵画であるともいうことができ、必ずしもフランスのシュルレアリスムと共通した思想的な根拠(フロイト流の無意識の重視など)がないことから古賀独自の(日本的な)超現実主義との評価がある一方でシュルレアリスムであるとの評価に疑問を呈する者もいる。(Wikipedia)

 詩「赤い風景」(1926年)は、あたかも作者が半覚醒状態にいるような感覚で作られている。
 また、作品「風景」(1926,1927年?)も、作者が覚醒状態で見た風景というものではなく、あたかも夢の中でさまよい歩いているような感じがするものである。
 1929年に作られた作品「海」はさておき、1926年もしくは1927年に作られた作品「風景」はシュルレアリスムに分類されるものである。


 

 私は、靉光作品を研究して、画家に絵の中に「顔」を描く画家がいる事が分かった。
 この古賀春江もその一人と考える。
 このことについて、経験豊かな古物美術商物故堂2代目に伺った。

 「顔に関してのお話ですが、絵の見方には様々な角度から見る必要があると判断しますが、どの見方が正しいというものは無いと思います。即ち、絵画の見方に『正解』は存在しないと思います。作家自体が意識して描いた作品も有れば、無意識のうちに出来上がってしまった作品もあると思います。その場合は特に鑑賞する側に委ねられるのでは・・・。」

  

 作品右半分で、不要なものを取り除き、色調を補正すると顔のようなものが現れる。


 作品「室内」(水彩、東京美術倶楽部鑑定証書付き、SBI artfolio取扱、個人蔵)





 この作品にも多重像として多くの顔が描かれている。


 精神的な問題

 古賀春江における精神的な問題を示すものとして次のものがある。

・幼時より絵画を好み、人中に出るを好まず。
・1914年 同郷で同居中の藤田謙徳氏自殺す。親友を失い精神的激動をうけて懐疑的となる。
・1927年 神経衰弱にて帰郷。
・1932年 強度の神経痛に冒され身体衰え、次第に厭人的となり入浴恐怖、奇妙な強迫観念に悩む。

 芸術家の多くは、精神障害があると言われている。
 また、共感覚というのも、一種の脳障害である。
 
 色には暖色系と寒色系がある。
 これは、赤い色系が暖かく感じ、青色系が冷たく感じるというものであるが、これは経験的なものからくるものかもしれない。しかし、色の違い、つまり目から受ける刺激が皮膚感覚と関連したものであることは確かである。つまり、経験による共感覚である。

 短調の曲は悲しく、長調の曲は明るく感じる。
 これも、耳から受ける刺激が感情と関連したもので、色の違いにより起きる目から受ける刺激が皮膚感覚と関連したものと同じようなものである。

 共感覚を持つものは、それらが特に発達した、あるいは問題を生じたものである。
 それが、芸術で表現された時、我々もそれに対し共感するからすばらしく感じるのである。

 「深夜の風景」(1933年)

 凡ての物音の絶えた真白な深夜の時間を見給へ
 白い時間の風景を見給へ
 凡ての現象が真正面に生きて
 実に生き生きと躍動してゐる
 その表情の美しさ

 大きく光を強くした
 北極星が遠い向ふ側の太陽と合図をして
 海と空が一帯になって万象を包んでゐる
 魚族と鳥類との交歓
 星と樹木等の握手
 いろいろの昆虫と草叢の小さな花々との可愛い遊戯
 だまって動かずに微笑してゐる野道の小石
 眠ってゐる人間や色々の動物の会話

 それは真黒な闇の包囲の中で
 表も裏も音がなく
 無類の明るさと美しい色彩とに彩られて
 此上もない真実を生きてゐる
 深夜の風景を見給へ


 終わりに

 作品「風景」(1926,1927年?)には、疲れた画家が感じる「太陽が疲れた光を撒いてゐる」という黒い太陽と、「夕暮れに間近い、赤い色の中」という色合いの風景画描かれている。


 履歴(『古賀春江 -芸術と病理- 』より)

1895年 福岡県久留米市に善福寺住職の長男として生まる。幼名亀雄(よしお)。
1902年 尋常小学校入学。幼時より絵画を好み、人中に出るを好まず。
1912年 中学3年の時、洋画研究のため退学を希望し容れられず故意に学則を犯し退学す。上京を許されて「太平洋画会研究所」に入る。短歌、長詩をこの頃より作りスケッチブックは絵よりもこれらのものに埋められる。
(1912年 斉藤与里、岸田劉生、清宮彬、高村光太郎らにより「ヒュウザン会」(フュウザン会に改名)が結成される。同年、萬鉄五郎が参加する。)
1913年 「日本水彩画研究所」に入り石井柏亭氏に師事す。
1914年 同郷で同居中の藤田謙徳氏自殺す。親友を失い精神的激動をうけて懐疑的となる。
1915年 僧籍に編入し幼名を良昌と改名し、呼名を春江とす。
1916年 帰郷し父の逝去に逢う。月岡好江と結婚。
1917年 第4回二科会展に「鶏小屋」(水彩)初入選。以降、画家として活躍を始める。
(1920年 『万朝報』8月15日号に記事「ダダイズム一面観」が掲載される.。木下秀一郎,普門暁らにより未来派美術協会が結成される。)
1922年 「埋葬」で二科賞を受賞。古賀春江、神原泰、中川紀元、岡本唐貴らにより前衛グループ「アクション」が結成される。
(1923年 村山知義と「未来派美術協会」のメンバーであっ た尾形亀之助、柳瀬正夢らとにより日本のダダ運動の先駆をなす「MAVO」が結成される。)
1923年 福岡市極楽寺に移る。
1927年 神経衰弱にて帰郷。
1928年 長崎に転地。東郷青児、竹中久七と知る。
1931年 川端康成と知る。装幀・挿絵の仕事に追わる。
1932年 強度の神経痛に冒され身体衰え、次第に厭人的となり入浴恐怖、奇妙な強迫観念に悩む。
1933年 死去。


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 梅毒(ホームページ「性病救急隊 梅毒とは」)

第五期

心臓血管梅毒は感染から10〜25年ほど経って起こります。大動脈に血管が弱くなって拡張した動脈瘤できたり、大動脈弁の逆流で胸痛や心不全が起き、場合によっては死に至ります。神経梅毒は神経系に起こる梅毒で、梅毒を治療しないでいると約5%の人に現れます。

・脊髄に浸されると足から激しく刺すような痛みに襲われ、次第に歩行にも障害が現れる様になり、下半身の麻痺状態に繋がります。
・脳が侵されると、脳の進行性麻痺となり、判断力が低下、言語の不自由、誇大妄想になったりと、痴呆の症状が現れます。

このように脳や脊髄に多大の障害を起こし、日常生活に支障がでてくるのです。

更に、神経梅毒は髄膜血管型・進行麻痺・脊髄ろうの3つの型に分けられます。

・髄膜血管型神経梅毒慢性型髄膜炎で、脳や脊髄を侵します。
・進行麻痺神経梅毒は個人の衛生状態の悪化、気分の浮き沈みが激しくなる、錯乱が進行するなど、だんだん行動の変化が現れてきます。
・脊髄ろう神経梅毒は、徐々に始まる脊髄の進行性病変で、脚に強い刺すような痛みが不定期に現れては消え、やがて歩行が不安定になります。


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 「宝塚の旧家」より出てきた原勝四郎作品

 原勝四郎「自画像」(1937年、古物美術商物故堂2代目取扱、個人蔵)



 

 原勝四郎「花」(古物美術商物故堂2代目取扱、個人蔵)





 古物美術商物故堂2代目が言う「宝塚の旧家」とは、どのようなものかは分からないが、ここから出た作品はなかなか良いものが多かった。
 そのなかで、原勝四郎「自画像」というものがあった。

 原勝四郎

 知られざる画家
 「絵を売って飯を食うなんて芸当は、俺にはとても出来ん。」(原勝四郎)
 フランスとアフリカを放浪。帰国後、和歌山県の田辺・白浜に籠もり、制作を行っていた。
 
 自画像(「画廊ビュッフェファイブ開廊30周年記念原勝四郎展」)


 履歴

 渋い色調であるが、フォーヴ的な荒々しい大きな筆触で風景と人物画を描いた作品が多い。

1886年 和歌山県田辺市に生まれる
1904年 田辺中学卒業
      東京美術学校予備科に入学
190?年  東京美術学校西洋画科中退
1914年 白馬会洋画研究所に入所。
1917年 渡仏、パリのアカデミー・グラン・ショミエール等で油絵を学ぶ。
1917年 帰国。
1940年 二科展第27回展岡田賞受賞。
1931年 西牟婁郡瀬戸鉛山村(現在の白浜町)に転居。
1953年 二紀展第7回展同人努力賞。
1959年 二紀展第13回展同人優勝。
1964年 死去。享年78歳。



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