はじめに

 当美術館「屋根裏部屋の美術館」が所蔵する古沢岩美「果物と港」を紹介する。
 この風景画には、非常に開放感があるのが感じられる。
 また、古沢岩美が描いた作品でこのような作風のものはほとんど存在しない。それは、暗い心情から明るい心情に変化したときのその変わり目のほんのいっときに描かれた作品だからだ。


 古沢岩美 「果物と港」 (1947年、鹿児島湾風景、屋根裏部屋の美術館蔵)
 


 作品紹介

 作品には、 IWAMI. F. U というサインと ]]]]Zとの年号がある。
 インターネットオークションでは、作者不詳として出品されていたもので、5,350円で購入したものである。
 当初、サインの IWAMI. が読み取れず、また、F. U と書かれていたため、日本人の作品ではなく在日韓国人が終戦直後描いた作品と考えてた。
 たまたま、インターネットオークションでこのサインと同じものを見つけ古沢岩美と分かった。そして、 ]]]]Z と書かれていたが、これは1947年を表すものと分かった。

 当初、器より日本の港風景と考えた。 そして、このような開放感がある作品がいつ作られたかというと、戦後と考えた。それは、開放感の前に必ず苦しいときがあるからである。それでは、なぜこのような変化が起きたかということを考えると、@ 理由がなく突然起きた A 結婚により幸せになった B 人に認められ幸せになった C 病気が治った D 戦争中非常に辛い時を過ごし、そして終戦となった 等がある。そして、なんとなく「D 戦争中非常に辛い時を過ごし、そして終戦となった」と感じたからである。それは、海と船が描かれていたためかもしれない。画家は、遙か彼方に想いを寄せているような気がしたからである。それで、戦時中日本で辛い時代を過ごした在日韓国人画家の作品と考えたのである。
 しかし、違っていた。在中日本人が終戦後に帰国したとき描いた作品であった。まともに言うと、古沢岩美が中国武昌地区で1年間抑留生活を送った後、鹿児島へ復員したとき描いたものである。
 
 私はこの作品をすばらしいものと感じ、作者名が判らなくても購入したものである。このように質の高い作品でも、画家名が分からないときは非常に安い価格で入手できることがある。作者名を見て、その作風を調べてから真贋を判定する人には出来ないことである。そして、この作品は非常に貴重なものである。それは、このような作風の絵画は1枚しか存在しないからである。戦争という苦渋を味わった後、それから解放された直後に起きた一瞬の感動を伴って描かれたものだからだ。


 古沢岩美 ふるさわいわみ (1912-2000)

 日本のシュルレアリスムの先駆者として有名。独特のエロティズムの世界を描いた。

 「僕はわざと悲惨な絵を描こうとも思っていませんし、空想はあまり入れていないんです。ただ、それでもこれをやっていると、それは大きな大作を描いたときもそうですけど、アトリエで一人で夜中にやっていますから、その場面で回虫が目から飛び出しているものもありますし、それから、コレラで死んだものもありますが、それがフッと出てくるんです。そうすると思い出しちゃって描けなくなっちゃう。そうすると、オイオイ泣いて死んでいったやつの顔がフッと浮いてくるのよ、そうするとどうも具合が悪くなる。」(古沢岩美/一枚の繪別冊画集「古沢岩美 エロスと修羅餓鬼」、一枚の繪(株))


 ここに描かれている「非常に強い開放感」とは、それまで感じていた「辛さ」からの解放から起きるものである。そのきっかけは、理由もなくある日突然訪れたり、結婚、あるいは社会との調和から生まれたりする。
 それは、脳における神経伝達系の異常ともいえるものである。脳内で神経伝達物質ドーパミンが多量に放出され、快感、多幸感が生じるためである。


 解脱

 この絵画に描かれている「雲」には、ちょうど林武が「美に生きる 私の体験的絵画論」(林武 講談社)に書かれている感情と同じものがある。

 「それは一種の解脱というものであった。絵に対するあのすごい執着を見事にふり落としたのだ。僕には、若さのもつ理想と野心があった。自負と妻に対する責任から、どうしても絵描きにならなければならなかった。だからほんとうに絵というものをめざして、どろんこになっていた。そのような執着から離れたのであった。」

 「外界に不思議な変化が起こった。外界のすべてがひじょうに素直になったのである。そこに立つ木が、真の生きた木に見えてきたのである。ありのままの実在の木として見えてきた。
 僕のそれまでは、道一つ見ても、絵描きになりたいと執着した人間の目でしか見ていなかった。また、まがいなりにも一年間学校に通って、ものを明暗で見ることを学んだ。だから、ものは明暗で見えた。空の雲は、ひじょうに不思議な形をして飛んでいる。それは哲学的でもあり、詩的であった。しかしそれすらも、明暗で見るなら、ただ団子のように陰影で描くだけのことになる。だからおもしろくない。あのおもしろい雲を、雲そのものでなく、明暗によって描くということはくだらなく思えた。
 学校で教えた樹木もまた明暗であった。そして塊であった。それは現象であって、本質ではなかった。本質とは、学校ではおそらく教えることのできないものであろう。本質は、僕たちが自分で力をつくしてつかまねばならない。それは教科書にも書いてはない。
 僕は率直になって、そのものを見ることにより、明暗を超え、現象を超えて、そこのはほんとうの木が生えているのを見、ほんとうに飛ぶ雲を見た。
 絵を捨てて、もう村役場の書記でもいい、という気持ちになったとき、そこには、ほんとうの木が生え、ほんとうの空があった。それは、全く無限に深い空であった。」  

 この「解脱」の前には、必ず精神的に危うい時期がある。

 古沢岩美についてインターネット検索エンジンGoogleを用いて調べた。

 「(戦争により)悲惨な体験を味わったこともあった。」(「板橋区美術館 ねっとび」)
 「加害者と同時に被害者でもあった、中国での3年間の地獄の戦争体験による苦渋と慚愧の中から生み出された30枚の銅版画は、戦争という大きな流れの中での個の無力さ、悲しみ、残虐さを、見事に具現化し、強烈な反戦芸術作品になっている。」(「渡辺私塾」ホームページ)
 
 
 また、古沢岩美には、統合失調症患者にみられる「社会的、感情的ひきこもり」があった。
 
 社会的、感情的引きこもり

 オリーブの茂る暗い木立の奥に、古い農家の納屋を改造した天井の高いアトリエがある。作者、古沢岩美は板橋区前野町のこのアトリエに移り住んで40年以上にもなる。
 「蟄居(ちっきょ)ですよ。私はほとんど家から出ません」
 この言葉から、画家の生活がアトリエ中心であることがうかがえる。(「板橋区美術館 ねっとび」)


 解脱の前

 作品「夜の花」(1927年、板橋区立美術館所蔵)は、彼の初期絵画である。この作品が1927年のものなら、彼が15歳頃のときの作品である。彼の精神の本質は、このような作品からも窺うことが出来る。

 作品「夜の花」(1927年、板橋区立美術館所蔵)


 
 作品紹介

 「夜の花」は、生命の始まりである卵のまろみを持った形と、生殖器としての花の繊細な描写が不思議な質感をかもし出している。(「板橋美術館 ねっとび」)


 解脱の後 

 このように心に問題があった画家は、「解脱」が起きた後、非常に明るい絵画を描く。

 作品「千夜一夜物語」

 

 これは、本の挿絵であるが、挿絵だと画家はその内容に即した絵画を描くことがあるが、非常に明るい絵画はなにもこれだけではない。


 作品「女」(1968年、屋根裏部屋の美術館蔵)



 作品解説

 この作品には、二人の女性と一匹の獣が描かれている。また、中央部には人の手の指、獣の指、および目が描かれている。
 手の指のそばに目が描かれているが、これは誰かが女性の穴を指で広げ、覗いているからである。その場面を女性の内部から描いたものである。


 作品「変貌」(1992年、所有者不詳)



  このアブノーマルな絵画は、シュルレアリスムというものと本質的に異なる。
 この絵画は、ちょうど次のような感覚のものである。
 「ポッパー(亜硝酸アミル)は、ディスコで踊るときやセックスのときに使うドラッグとして人気があった。臨床的作用としては、自分のなかに引きこもる、音楽が遅く、あるいは遠く聴こえるなど時間が遅く感じられる。変形視、脱抑制、それに恍惚状態になった群衆のなかで踊ることに仲間意識を感じるような情動の高まりなどがある。また、性のパートナーとの茫洋とした一体感、オーガニズムの高揚、判断力の放棄もみられる。使用者は決まって、亜硝酸アミルの影響がなければ実行を躊躇したであろう性行為をしたことを認める。(「共感覚者の驚くべき日常」リチャード・E・シトーウイック著、山本篤子訳、草思社)

 人の欲望にはいろいろあるが、なかには明らかに異常とも言えるものがある。
 ドラマ「クリミナルマインド」は、FBI行動分析課(Behavioral Analysis Unit、BAU)が取り扱った異常犯罪を描いたものである。そのなかで、精神異常の青年が女性の腹を切り裂きたいという欲望に駆られたものがある。
 また、日本での犯罪に同じ欲望から起きたものがある。
 
 名古屋・妊婦切り裂き殺人事件:1988年3月18日、名古屋市中川区の住宅街のマンションで、この家の主婦(27歳)が殺害されているのが見つかった。この主婦は出産予定日も過ぎていた臨月だったが、その腹は無惨に切り裂かれ、赤ちゃんが取り出されており、中にはなぜか電話機と車のキーが入れられていた。未解決の猟奇事件として知られる。

 この作品の構図と「夜の花」(1927年、板橋区立美術館所蔵)を見比べると、画家が15歳の時、何を考えていたかが分かる。
 「板橋美術館 ねっとび」には、作品「夜の花」の解説として、「生命の始まりである卵のまろみを持った形と、生殖器としての花の繊細な描写が不思議な質感をかもし出している」とある。古沢岩美が15歳前後に描いた「夜の花」の構図は、「変貌」に似ている。「夜の花」は卑猥な妄想を伴って描かれたと考える。


 作品「男になれ」(古沢岩美銅板画集「修羅餓鬼」より)

 

 この作品「男になれ」は、戦時中の従軍慰安婦との体験を基に戦後描かれたものである。
 この作品には、男のうなじ辺りから吐出している器官が描かれている。この感覚が統合失調症にみられる体感幻覚というもので、臓器が皮膚から飛び出したように感じるものである。
 
  統合失調症にみられる幻覚
  (1) 幻聴
     自分についての悪口や、批判・命令が人の声となって聞こえる。
     話かけと応対の形で聞こえることもある。自分の考えを声として聞くのは考想化声という。
  (2) 体感幻覚
     内臓が溶けて流れ出すなど、奇怪な内容が多い。
     その他、幻視・幻嗅なども起こることがある。

 この作品「修羅餓鬼」に描かれている男のうなじ辺りから吐出している器官について、まったく同じ感覚というものが「幻聴・不安の心理療法」(黒川昭登・上田三枝子著、朱鷺書房)に記載されている。ただし、そこでは統合失調症における症状としてではなく離人症における症状として取り上げられている。

 「非現実的感覚が『自己』という現実に関連して起こる場合は、『自分の顔にクレーターのような円錐形の穴があいている』とか、『口がグチャグチャに裂けている』『顔が人並みはずれて大きい』『頭髪が抜けている(実際は抜けていない)』『自分は誰かに操られている』などと訴える人がいる。」


 これらの作品は作風が非常に異なるが、精神に問題がある画家のひとつの典型的なパターンである。
 それは、「非常に暗い気持ち」(色彩的に暗い絵画)から「解脱」(開放感のある絵画)を経て「非常に明るい気持ち」(色彩的に明るい絵画)となることである。そして、それはすべて絵画に表れる。その絵画のなかには、統合失調症の患者に見られる妄想・幻覚が描かれていることがある。
 そして、そのような画家の多くは幼少期に問題を抱えた家庭に育ち、行動面に社会的、感情的引きこもりがある。
 また、長期に及ぶスランプもある。


 精神疾患

 精神疾患を分類すると、統合失調症、双極性障害、解離性障害等がある。それらは、脳内で神経伝達物質であるドーパミン、セロトニンおよびノルアドレナリンの見かけ的な増・減が起きている。
 そして、統合失調症、双極性障害およぼPTSDをみるとそれらは要因として遺伝と幼少期の環境がある。
 また、鬱的症状および幻覚は統合失調症、双極性障害およぼPTSDにみられる症状である。
 古沢岩見の絵画には、幻覚が描かれているものがあることは確かである。


 終わりに

 非常に暗い絵を描いた画家は、非常に明るい作品を作り出す。
 たとえば、池田満寿夫、国吉康雄および宮本三郎等も非常に暗い作品を描いたが、後に非常に明るいタッチで裸婦を描いた。
 それは、画家の心の変化から起きたことで、流行によるものではない。
 そして、その作品の暗さは心の暗さからくるものであり、その心の暗さは幼児期から作りあげられることが多い。
 また、その心の問題が取り除かれたように感じたとき明るい作品が生まれる。
 これらの絵画で、暗い作品の方を好いと思う人もいれば、明るい作品の方が好いと思う人もいる。
 さらに言うと、作品「変貌」(1992年)を好む人もいるはずである。
 それでは、あなたは開放感にあふれる「果物と港」、陰鬱な「夜の花」、漫画の表紙にも使えそうな「千夜一夜物語」、エログロの頂点を極めた「女」(1968年)・「変貌」、そして退廃的な情景を描いた「修羅餓鬼」の6作品のうちどの絵画が好きか?どれも芸術的(?)であるが。


 履歴

1912年 佐賀に生まれる。
      幼少の頃より父に買い与えられた画材で絵を描いた。
1921年 9歳の時、母が病没する。
1926年 14歳。久留米商業学校二年終了、退学。絵を描かしてくれるという条件で、朝鮮、大邸に渡る。伯父の経営する練炭所で働きながら、休みの日に妓生の家に通い、描く。
1927年 作品「夜の花」を描く。
1928年 上京して郷土の先輩岡田三郎助宅に7年間寄宿、その間本郷絵画研究所に学びながら画家としての修行を重ねた。
1931年 春台美術展、光風会展へ出品。
1938年 独立展に出品。
1939年 靉光、麻生三郎、北脇昇、斎藤義重らと美術文化協会を設立。
1943年 応召。
1945年 ソ連国境に向けて転進中に敗戦。武昌地区で約一年間捕虜生活を送る。
1946年 鹿児島へ復員。単身上京し、小説のの装幀をしながら焼け跡をスケッチして歩く。
1947年 アヴァンギャルド美術家クラブを結成。美術文化協会展、日本アンデパンダン展などに出品。
1951年 「プルトの娘」をサンパウロ・ビエンナーレ展に出品。
1955年 美術文化協会を退会。
1966年 「千夜一夜物語」を描く。
1967年 カザノヴァ回想録の挿絵を描く。
2000年 死去。


 参考文献等

 一枚の繪別冊画集「古沢岩美 エロスと修羅餓鬼」(一枚の繪(株))
 「渡辺私塾 ホームページ」
 「板橋美術館 ねっとび」
 「幻聴・不安の心理療法」(黒川昭登・上田三枝子著、朱鷺書房)
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