屋根裏部屋の美術館

李仲燮(イ・ジョンソプ)

韓国を代表する洋画家李仲燮の最高傑作


                                          2005.10    
2006.11 改訂
2010.12 改訂
                                          中村正明   
                                          masaaki.nakamura.01@gmail.com

 はじめに
 
 当美術館「屋根裏部屋の美術館」が所蔵する李仲燮(イ・ジョンソプ)「魚釣り」(仮題)および「牛」(仮題)を紹介する。
 作品「魚釣り」非常にすばらしいものだが、やや問題もある。それは、この絵画の色彩である。これは、当時李仲燮が貧しかったために良い絵の具を購入できなかったためか、あるいは精神に異常を来したために起きた色彩感覚の異常によるものかは分からないが、決して美しいものではない。
 しかし、絵画には画家の豊かな感性によるすばらしいドローイング技術がみられる。
 李仲燮には、すばらしい作品が数多くあが、それらと比較し、最高作品というのは大変気が引けるが、少なくとも彼の最高作品と言われている「黄牛」よりすばらしいことは確かである。


 李仲燮 イ・ジョンソプ

 李仲燮は、韓国の教科書及びテレビ東京の番組「美の巨匠達」にも取り上げられた画家である。韓国で最も偉大な西洋画の画家である。




 作品「黄牛」(個人蔵)



 作品解説

 李仲燮の最高作品は「黄牛」とされている。しかし、彼の最高作品を「黄牛」とするなら彼はたいした画家ではない。もし、欧米で「黄牛」だけを評価したなら特別際だった作品との評価は得られない。これは、韓国国民がその歴史の深い悲しみをその作品に重複したからである。


 作品「魚釣り」(仮題、古物美術商物故堂取扱、屋根裏部屋の美術館蔵)



 出品者(古物美術商物故堂)による作品紹介

 本作品は京都の美術品に対して非常に造詣の深かった在日韓国人の旧蔵品で先代の死去にともない、譲って頂いた大変貴重な作品です。この作品の来歴もほぼ正確に掴んでおります。李仲燮氏は日本に油彩画の勉強に来ており、里見勝蔵の弟子の一人でした。決して正式な弟子であったのかは不明ですが、里見勝蔵の直弟子の一人で京都洋画壇の竹中三郎が面倒を見ていました。この作品の旧蔵者は里見勝三及び竹中三郎並びに金田辰弘などのコレクターであり竹中三郎から譲られた作品だそうです。紙に油彩で描かれていたため折り曲げていた跡が残っております。画像で十分確認できると思います。この画風は晩年の作品で韓国に帰国後に描かれた作品と思われ、竹中三郎自身は適当に本にでも挟んでいたと想像できます。竹中から譲られた旧蔵者は薄い紙に描かれている為、厚紙で貼り付けて額装しておられましたが、額は朽ち果てていますので新しい額に入れてお届けします。絵の支持体は紙で技法は油彩です。サイズは22.5センチ×18.5センチです。画面は比較的綺麗ですが経年の為、ほんの少し擦れがございます。又、先程も申しましたが折り目が有ります。表面にはサインが御座います。2枚目の画像でご確認ください。李仲燮は日本に居る時は自由美術協会会員で腕を振るっておりました。独自の画風を確立し韓国に於いては非常な高い地位を築いておりますし、油彩画の作品などは殆んど手に入れる事は不可能に近いと存じます。もし、日本に李仲燮のファンが居られましたら是非ともこの機会をお見逃しの無い様にコレクションの一つにお加えください。

 出品者によるメール情報(一部)

 旧蔵者(在日韓国人)が、竹中画伯に李仲燮の作品をお持ちでないか尋ねられました所、「いくらでもあったのだが、今はこれ一枚が残っているだけだ。」と言われたそうです。それが本作品です。元は薄い紙に油彩で描かれており四つ折りにして本に挟んであったらしいです。・・・・ 
 
 出品者の作品紹介に記載されている竹中三郎について

 竹中三郎(1904-1987):京都市生。関西美術院に学ぶ。27年1930年協会展に入選。28年上京、里見勝蔵に師事。29年二科展入選。31年より独立美術協会展に出品。31-35年渡仏。38年独立賞。45年京都に戻る。46-66年自由美術家協会展に出品。69年自選展開催。70年渡仏。以後個展を中心に活動。87年京都で歿。

 作品解説

 李仲燮(イ・ジュンソプ)は、今では韓国を代表する画家であるが、生前は韓国では評価されなかった。この作品も竹中画伯は四つ折りにして本に挟んであったことは確かなようである。李仲燮(イ・ジュンソプ)は、世話になった竹中画伯に作品を送ったところ、彼は、どうやら子供向けの絵のように捉えたのである。

 この作品のドローイングは一流で、作品内容もすばらしい。しかし、作品にある色彩は非常に悪いものである。
 
 韓国戦争(1950年6月〜53年7月)のさなか、彼は1951年、日本より彼を慕い追いかけてきて結婚した妻と二人の子供を連れ韓国最大の島である済州島(チェジュトウ)へ難を逃れた。配給される食料だけでは飢えをしのぐことは出来ず、磯に出てはカニを捕まえ、食料の足しとしていた。この貧しいなかで、生きる喜びを絵画に表した。それは、貧しくとも家族4人で暮らすという幸せがあったからだ。
 しかし、この作品は妻達と分かれた後、悲しみに暮れながら、楽しかった思い出を描いたものである。


 作品「牛」(仮題、4号、屋根裏部屋の美術館蔵)





 出品者の作品説明

 この作品は在日の美術品コレクターの秘蔵遺品です。サインも無く作者は不詳ですが板の裏に書付がございます。ご存知の方が居られましたら目利きしてください。サイズは4号板です。

 作品解説

 裏書の書付けには李仲燮とある。
 この作品も作品「黄牛」と比較して、負けることのない作品である。
 しかし、裏書きの書付は作者のサインと考えるが、たぶんこのような力強いサインは他の作品にはないのではないだろうか。


 作品「喜び」(仮題)


 
 作品解説

 李仲燮の喜びにあふれる作品である。
 孤独だった彼が結婚により幸せになった。そして、辛い別れがその後に訪れる。


 作品「思い出」(仮題、所有者不詳)



 作品解説

 楽しかった思い出が、暗闇の中に現れる。

 幸せだった時を思い出すたびに悲しみがわき上がる。酒を飲んでも悲しみは薄れない。


 鬱状態で制作られた絵画と躁状態で制作された絵画

 李仲燮の一生は、韓国の受難の時代にあった。
 また、彼は精神疾患を抱えていた。それは、鬱、多幸状態のある躁、そして統合失調症(精神分裂病)である。巨匠の多くは、このような精神疾患を抱えている。そして、その躁状態の時には素晴らしい絵画を作り出した。
 そして、彼は統合失調症(精神分裂病)の症状が現れ聖歌病院に入院した。

 


 終わりに

 作品「魚釣り」は、色彩に問題があるが、これには画家の豊かな感性によるすばらしいドローイング技術がある。芸術とは優れた技術と豊かな感性により成り立つものなら、この作品は問題を含みながらも芸術性が高いものとなる。


 履歴及び時代背景

 1916年4月平安南道ソンチョンリのある裕福な家庭で生まれた。父は消極的で病弱な人だったが、李仲燮が5歳になった年に亡くなっ た。

 李仲燮が生きた大半の時代は、韓国が日本の植民地の時代とその後の韓国戦争の時代であった。その歴史的背景のなかで非常に苦しい生活、家族とともに喜びに溢れた一時の生活、そして家族と引き裂かれ悲しみにくれる生活があった。

1910年(明治43年) 日本が韓国を併合する。
1914年(大正3年) 第一次世界大戦始まる。
1915年(大正4年) 日本が対華21カ条要求を出す。
1916年(大正5年) 日本の植民地時代の韓国(現在は北朝鮮の、元山(ウォンサン)に生まれた。富農家。
1919年(大正8年) 本格的抗日運動「3.1独立運動」が起きる。
1920年(大正9年) この頃に父親が死去。絵に没頭するようになる。
1923年(大正12年) 関東大震災。関東地方南部を襲った大地震により、死者・行方不明14万2千8百名、全壊建物12万8千棟、全焼建物44万7千棟という未曾有の大災害がもたらされた。
1928年(昭和3年) 日本軍、張作霖を暗殺する。
1929年(昭和4年) ウォール街株式市場で大暴落。
1930年代〜
 強制連行:日帝(日本帝国)は、韓国人を強制徴用で連れて行き、徴兵制を実施して多くの青年たちを戦場に送り込んだ。(中学校「国史」)日帝は、戦線が拡大され兵力が不足するや、1937年には徴兵制を実施して、韓国の若者たちを強制的に連行した。さらに日帝は、徴兵制を発し、韓国人を戦争のための労働者として動員したが、徴用された人たちは炭坑、飛行場、軍需工場、鉄道などに強制的に収容され、賃金もまともにもらえないまま酷使された。日帝は、作業終了後、秘密を守られなければならないという理由から彼らを集団虐殺するなどした。日帝は、女子挺身隊勤労令を発して、韓国の女性たちまで強制的に動員した。(高校「韓国近現代史」)
 従軍慰安婦:日帝は、女性たちも勤労報国隊、女子勤労挺身隊などの名目で連れて行き、労働力を搾取した。その上、多数の女性を強制的に動員して日本軍が駐屯するアジア地域に送り、軍隊慰安婦として非人間的な生活をさせた。(中学校「国史」)従軍慰安婦とは、韓国、中国、フィリピンなど日本の植民地と占領地で日本軍により強制的に戦場に連れて行かれ、性の奴隷の生活を強要された女性たちを指す。1930年代はじめから行われたこうした蛮行は、45年に日帝が敗北する時まで続いた。(中学校「国史」)連行された慰安婦は、数十万人に上がると推定される。戦況が不利になると、日本の軍人たちは、慰安婦を捨てて自分たちだけ逃げたり、慰安婦を洞くつに閉じこめて爆弾を投げ込み皆殺しにしたりした。(高校「韓国近現代史」)
1931年(昭和6年) 美術と英語の教師として赴任してきたイム・ヨンリョウとその妻ベク・ナムスンに美術の才能を認められ、指導を受ける。満州事変起きる。日本軍、中国東北部で武力行使。
 九一八事変(満州事変):中国東北地方に駐留していた日本の関東軍は1931年9月18日夜、南満州鉄道の柳条湖(瀋陽の北効約7.5キロ)で軌道を爆発する一方、中国側に罪をなすりつけ、これを口実に北大営の東北軍駐屯地を砲撃。瀋陽を占領した。東北軍司令官の張学良は蒋介石から「日本軍がいかなる挑発をしてきても、我が方は抵抗せず、努めて衝突を避けるように」と命令を受け、10万人以上の東北軍は撤退した。そこへ日本軍が入城し、半年もたたないうちに、東北3省100万平方キロ以上の美しい国土は、すべて敵の手に落ち、3000万人の同胞は日本軍の蹂躙によって陵辱を受けた。翌年、日本は清の廃帝・溥儀を助け、長春に傀儡政権の偽満州国を建てた。東北3省は日本帝国主義の植民地に転落した。東北人たちは故郷を追われ、あちこちを流浪した。当時の流行歌「松花江上」が彼らの望郷の念を歌っている。「918 918、あの悲惨以来、家を追われ、数知れぬ宝物を投げ捨てた。流浪!流浪!いつになったらあの愛する故郷に帰れるのか?いつになったらたくさんの宝物を取り戻すことができるのか。お父さん、お母さん、いつになったらみんなが楽しく集えるのか!」(中学校「中国国史」)
1932年(昭和7年) 満州国の建国を宣言。
1936年(昭和11年) 帝国美術学校に入学。その後、与謝野晶子らが創設した、自由な校風で知られる文化学院美術科に入学する。ピカソやルオーに心酔する。先輩ムン・ハクスを通じて知り合った画家津田正周から週一回指導されたのが自分を作り上げたと回想していた。
1937年(昭和12年) 盧溝橋事件。北京郊外で日中両軍が衝突。日中戦争始まる。日本軍は暴支膺懲(ぐしようちょう。悪い中国を懲らしめるの意)と称して中国の領土を侵略し始める。
 南京大虐殺(南京事件):1937年12月、南京を攻め落とした日本軍は、中国の一般市民や武器を放棄した兵士たちを、射撃の的にしたり、生き埋めにしたり、悪行の限りを尽くした。極東国際軍事裁判(東京裁判)の記録によると、南京占領後6週間で30万人以上が犠牲となった。幕府山の老若男女5万7000人余りは、針金で手を縛られて一所に集められ、機関銃で掃射された上、血の海の中でなおうめき、もがき苦しむ者は日本刀で斬殺された。死体はすべて焼かれたが、幸運にも1人だけ生き延びることが出来た。漢中門外では武器を捨てた軍人、警察官3000人余りが、機関銃で掃射され、まだ生きている者も死体と一緒に焼き殺された。当時の日本の新聞によると、向井、野田の少尉2人が100人斬りを競い合い、野田が105人、向井が106人を斬り殺した。だが、どちらが先に100人を殺したかわからなくなったので、150人を目標にもう一度競争をした。(中学校「中学歴史」)
1938年(昭和13年) 自由美術家協会の第二回公募展に入選。
1940年(昭和15年) 日独伊3国同盟に調印。 第四回美術創作家協会の展覧会で最高賞を受賞。当時、日本洋画界期待の星と呼ばれた。山本方子に絵はがきを送り始めた。
1941年(昭和16年) 日本軍が南部仏印(今のベトナム)に進駐。 
1943年(昭和18年) 太平洋戦争が激しさを増したため、故郷・元山(ウォンサン)に帰る。
1945年(昭和20年) 山本方子が韓国に訪れ、そして結婚する。東京大空襲。広島に原爆投下。ソ連が対日宣戦を通告。長崎に原爆投下。終戦。
1946年(昭和21年) 長男が生まれるがまもなく死亡。
1947年(昭和22年) 次男泰賢誕生。
1949年(昭和24年) 三男泰成誕生。牛を一日中観察し、牛の飼い主から不審がられる。画家朴壽根と親しくなる。
1950年(昭和25年)6月〜53年(昭和28年)7月 韓国戦争が起きる。
1951年(昭和26年) 家族と済州島(チェジュトウ)に移り住む。避難民に出された配給、さつま芋、蟹を食料とした。
1952年(昭和27年) チェジュ島での苛酷な生活で結核に冒された妻と、栄養失調になってしまった子供たちを、日本行きの船に乗せた。ひとり韓国に残ったイ・ジュンソプは、貧しく、寂しい生活の中で、紙やベニヤ板、銀紙などへ、手当たり次第に作品を描き続けた
1953年(昭和28年) 妻が李仲燮のため、五山学校の後輩の船員に頼み日本の書籍を送るが、持ち逃げされた。妻は多額の借金を背負った。
1954年(昭和29年)  ソウルで開かれた大韓美術展に「月とからす」ほか二点を出品し、好評を得た。1954年末 この頃より精神障害が表れる。
1955年(昭和30年) ソウル美都波ギャラリーで個展開催。油絵及び銀紙画(煙草を包んでいた銀紙に傷をつけ、絵の具を塗り込め、拭き取り作製する。後にニューヨーク近代美術館にも収められた彼独特の作品)を出す。展示は好評だったが銀紙画が春画だと言って撤去される。酒に溺れるようになる。そしてその後、栄養不足と極度の衰弱で精神分裂病の症状を見せ聖歌病院に入院する。退院後、再度、首都陸軍病院に入院する。この時黄疸が強く出る。
1956年(昭和31年)41歳 食べることを拒む。清凉里脳病院に入院する。精神異常がないという診断を受けて退院したが、すぐ再び西大門赤十字病院に入院する。栄養失調と肝炎により死ぬ。
1978年(昭和53年) 勳章が授与される。


 参考文献

 「李仲燮のこと−徐知賢さんの研究より− 」(「一寸」第6号 書痴同人)
 「韓国・中国の教科書」





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 「ニセモノを競売へ・・・李仲燮画伯次男に4億賠償請求」(中央日報)

美術品競売企業ソウルオークションが故・李仲燮(イ・ジュンソプ)画伯の次男山本泰成氏(59)を相手に4億2千万ウォン(約4000万円)の賠償請求訴訟を起こした。

「李画伯の絵でないことを知りながら競売を委託し、損害を被った」という理由による。泰成氏は現在日本にいる。本紙は昨年8月3日、泰成氏所蔵の絵を含む李画伯の未公開作数千点がニセ物であり、一部はソウルオークションを通じて競売にかけられたという検察捜査結果を単独で報道している。

17日、ソウル中央地方裁判所によるとソウルオークションは訴状で「泰成氏は2005年父親の50周忌記念行事のための資金を用意すると絵4点の競売を委託してきた」と明らかにした。ソウルオークションは「しかし後に4点ともニセ物だということが明らかになり、顧客らに全額還付した」と述べた。

当時ソウルオークションが泰成氏から委託された絵は落札価格別に『子供たちと蛙』(3億1000万ウォン)『裸になった子供たち』(1億5000万ウォン)『枝』(5200万ウォン)『鹿』(4200万ウォン)だ。ソウルオークションはこのうちすでに泰成氏のエージェントに送金した4億2千万ウォンに対して訴訟を起こしている。

検察は昨年11月、泰成氏に絵を提供したキム某氏(69、韓国古書研究会名誉会長)を詐欺などの疑いで逮捕起訴した。キム容疑者は未公開の李画伯の絵1069点と朴寿根(パク・スグン)画伯の絵1760点を保有していると主張している。

検察はキム容疑者所蔵の絵から金属性の光沢を出すパール(pearl)絵の具が検出された点などからニセ物だと判断した。この絵の具は李画伯死後の1960年代末から国外で使われ始めたものだ。


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 作品「暗闇の牛」(仮題、gentousha取扱、屋根裏部屋の美術館蔵)



   

 靉光作品を研究して、作品に「顔」を描き込む画家がいることが分かった。
 最初の切り抜きの部分だけが、牛の頭と考える。
 この作品「暗闇の牛」を見ると、ここにはいくつもの「顔」があることが分かる。
 

 作品「思い出」(仮題、所有者不詳)



 

 この作品には、多重像で描かれた「顔」がある。


 作品「黄牛」(個人蔵)





 この作品には、多重像で描かれた「顔」がある。


 作品「花びらの舞い散るとき」(仮題、李仲燮美術館蔵)





 この作品には、多重像で描かれた「顔」がある。


 作品「牛」(仮題、李仲燮美術館蔵)



 

 この作品にも、「顔」が描かれている。


 作品「遊び」(仮題、素描、李仲燮美術館蔵





 この作品にも、「顔」が描かれている。


 作品「魚釣り」(仮題、古物美術商物故堂取扱、屋根裏部屋の美術館蔵)







 この作品にも、「顔」が描かれている。


 作品「牛」(仮題、4号、屋根裏部屋の美術館蔵)



  

 この作品にも、「顔」が描かれている。
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