屋根裏部屋の美術館

白瀧幾之助 ラファエル・コラン風作品


 はじめに
 

 当美術館「屋根裏部屋の美術館」が所蔵する外光派の白瀧幾之助「夜明け」(仮題)、「尾瀬沼の雨」、「志賀高原風景」を紹介する。 また、脂派の作品として、巨匠吉田博の作品「夕景の帰舟」(1907年制作、真贋不明)も紹介する。

 白瀧幾之助が留学時制作した「夜明け」(仮題)の作風は、留学前に制作した「尾瀬沼の雨」および留学後だいぶ経って制作された「志賀高原風景」の作風より、藤雅三「夕景」および黒田清輝「朝日」の作風に近い。これは、3人とも渡仏しラファエル・コランに師事したからである。
 このように西洋画の模倣に対し、後に、1930年協会が「西洋画の模倣、追隋を脱して自分たちの手によ る油彩画の創造を」という活動を起こした。

 白瀧幾之助

 兵庫県生。東美校卒。上京して山本芳翠を知り、画家を志し、芳翠の主宰する生巧館画塾に入る。のち天真道場で学び黒田清輝に師事、渡欧米ののち光風会・日本水彩画会の創立に参加する。文展・帝展・日展で活躍。




 外光派と脂派

 山本芳翠等が留学した当時、パリの美術界は、フランス国立美術学校を中心としたアカデミックな画風が絶対的な優位を誇っていた。そして、芳翠等が日本に導入したアカデミックで重い色調の画派を脂派(旧派)と言う。
 その後、黒田清輝、久米桂一郎等が、明治10年代後半からフランスへ留学し、 26年の帰国とともに、明るく清新な油絵を日本にもたらしたが、これらの画派を外光派(新派、紫派)と言う。
 

 白馬会

 1896年、黒田清輝、久米桂一郎らが明治美術会を退会し結成。明治美術会の官学的作風、官僚的組織に対立。外光派を主流とした作品を発表。白馬会葵橋研究所を設置し若手画家の指導もした。1911年解散。後身の光風会に引き継がれる。

 
 外光派白瀧幾之助「夜明け」(仮題)を留学前の作品および留学後だいぶ経っての作品、さらに、外光派藤雅三「夕景」および外光派黒田清輝「朝日」と比較してみる。また、脂派山本芳翠「浦島図」および脂派吉田博「夕景の帰舟」(1907年)とも比較してみる。 


 白瀧幾之助「尾瀬沼の雨」(東京美術倶楽部保証絵画、美術商ジールハウス取扱、屋根裏部屋の美術館蔵)
 

 白瀧幾之助の留学前に制作された作品である。彼が留学前に制作した作品には優れたものはない。しかし、「夜明け」(仮題)に見られる穏やかな色彩は同じである。(注:色彩はだいぶ異なって表示されているが、実物は似通ったものである。)


 白瀧幾之助「夜明け」(仮題、estel1965jp取扱、屋根裏部屋の美術館蔵)




 白瀧幾之助「稽古」(明治30年、東京藝術大学大学美術館所蔵)




 白瀧幾之助「志賀高原風景」(8号、1939年制作、日動画廊シール添付、インターネット絵画販売ギャラリー愛取扱、屋根裏部屋の美術館蔵)




 藤雅三「夕景」(1911年頃、「忘れられていた日本洋画」住友慎一著)



 藤雅三は明治18年に渡仏し、ラファエル・コランに師事した。翌年、久米桂一郎と黒田清輝をコランの門に誘った。この作品は1911年頃のものである。白瀧幾之助「夜明け」と同じような作風のものである。ただし、タッチは藤雅三「夕景」の方が細かい。1911年頃の白瀧幾之助の経歴を見ると、1906-1910年までラファエル・コランに師事していた。


 黒田清輝「朝日」(河村美術館所蔵)




 山本芳翠「浦島図」(1893-95年、岐阜県美術館蔵)




 吉田博「夕景の帰舟」(1907年、真贋不明、屋根裏部屋の美術館蔵)  



 吉田博:黒田清輝ひきいる新派・白馬会に抗して旧派・太平洋画会の雄としても活躍した実力作家


 作品比較

 外光派の白瀧幾之助「夜明け」(仮題)を、外光派巨匠の黒田清輝「朝日」及び脂派巨匠の吉田博「夕景の帰舟」(1907年)と見比べてみる。黒田清輝「朝日」は、美しい作品で、また、吉田博「夕景の帰舟」は重厚な作品である。しかし、どれも同じような作風である。


 終わりに

 黒田清輝、藤雅三および白瀧幾之助はラファエル・コランに師事した。白瀧幾之助「夜明け」は、留学前の作品「尾瀬沼の雨」および再渡欧の作品「志賀高原風景」より、藤雅三「夕景」および黒田清輝「朝日」の作風に類似している。
 これらは、ラファエル・コランの影響が強いもので、外光派の作品が西洋の物まねと言われたことがよく分かる。
 鑑賞者が風景画を観るとき、その人の心はその風景のなかに入り込みむ。そのとき感じる温度及び湿度が重要である。白瀧幾之助「夜明け」は、さわやかな空気を感じるものである。
 また、吉田博「夕景の帰舟」(真贋不明)も味のあるものである。


 履歴

1873年 兵庫県朝来郡に生まれる。
1890年頃 上京。山本芳翠の生巧館画学校に学び、天真道場で黒田清輝に学ぶ。内国勧業博覧会で褒状。
1996年 第1回白馬会展から出品。
1998年 東京美術学校卒。
1900年 パリ万博に出品。
1903年 内国勧業博覧会で3等賞。
1904年 渡米。 
1905年 渡英。
1906年 渡仏しラファエル・コランに師事する。
1910年 帰国。
1912年 光風会創立に参加。
1913年 日本水彩画会の創立に参加。
1919年 帝展に出品。以降新文展など出品。
1922年 再渡欧。
1952年 日本芸術院賞恩賜賞。
1960年 死去。

 参考文献

 「実力画家たちの忘れられていた日本洋画」 住友慎一著 里文出版
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