はじめに
美術館「屋根裏部屋の美術館」が所蔵する小林寿永の作品「道化師」、作品「椿」、「悲しき女(ひと)」および「裸婦」(1998年)を紹介する。
これらの作品は、美術評論家瀬木慎一氏がこの無名の画家を「日本の作家100人展」に紹介したことに相応しいと言えることが分かるものである。
小林寿永 こばやしじゅえい (1937年- )
「19歳のとき、殺人放火容疑で調べられた。朝6時から夜10時までの正座は拷問であった。」(小林寿永)
それが、数ヶ月にも及んだ。
自画像 作品「悲しきピエロ」(個人蔵)
出品者(小林寿永)作品説明
「悲しきピエロ」と裏書してありますが、8年ほど前に、突然死んだ愛犬「チビ」を抱いて、泣きながら一気に描いた、いわば自画像です。」(小林寿永)
作品「隔絶の民」(個人蔵)
「私は美術年鑑などには出ていない。しかし、私の絵は命を削って画いたものです。個展に終止符を打ってこの方、グループ展の仲間に誘われ、参加はしても面白くも可笑しくもないので今は一切お断りしている。」(小林寿永)
「離絶の民」は、自画像である。
画家のサイン
書はその人の性格が表れる。この書には画家の自由奔放さが表れている。
作品「道化師」(1995年頃、屋根裏部屋の美術館蔵)
作者による作品紹介
今から10年ほど前の作品で。当時7点だけピエロを画いたその内の1点です。
作品「白磁」(屋根裏部屋の美術館蔵)
作品解説
作者に聞くと、この時期、金がなくて、一番安い絵の具である白色を多用したとのこと。
命を削って 作品「悲しき女(ひと)」(1963年、屋根裏部屋の美術館蔵)
メールの返事を戴いた後、この作品が出品された。
この絵は確かに凄い作品である。画家が「私の絵は命を削って画いたものです」と言うことが感じられるものである。
画家が描く絵すべてに、「私の絵は命を削って画いたものです」と言って1枚幾らで何枚も売られていたならそれは画家の命の値段はあまりにも安いものである。命のバーゲンセールである。バーゲンセールで売られていた命の値段に相当する絵なのである。
この絵画は描かれてから40年以上も画家の手元に大切に保管されていたものである。それは、命を削って描いた大切な絵だからである。
「ずっと忘れていた(敢えてそうしてきた)遠い昔のことが蘇り、今は何故か悲しい時を過ごしています」・・・まさにこの絵には封印されていた遠い昔の悲しみが描かれているのである。
作者による作品紹介
昭和38年、作者26歳の作。三年の間生活を伴にした女性との別離の冬、一晩で画き上げた記憶がある。額は25年ほど前に亡くなられた、北荘画材店ご主人の手造りで特製品です。
作品解説
作者は自己紹介のなかで、「画家は、たとえ命を削って描いた・・・」と言っている。画家が言うように、命を削りながら描いた作品なのか?すべてよい作品ではあるのだが・・・。
小林寿永の作品の特徴は、深く美しい色彩と画家の優しさである。
小林寿永の履歴および絵の題材を見ると画家は対人恐怖症を患っていることが分かる。また、社会を拒絶していたときもあったと考える。ストレスに対して極度に弱いことも分かる。
しかし、絵そのものより感じることは、画家が言うほどの深刻さは感じられない。作品の色彩はすべて深く美しく、また、画家の心の豊かさを感じてしまう。
彼が受けたストレスは、一種の事故のようなものである。
幼少期は明るく楽しい生活を過ごし、中学時代は画家になることを夢見ていた。兄との絆も深いことも分かる。ひとと調和して生きていく人であり、ひとに対する感謝の念も持つ人でもある。
画家の言葉
・明るく、楽しい少年期を過ごす。
・ヴァイオリン奏者、デイエゴ長山さん夫妻に助けられた。
・美術評論家瀬木慎一氏の計らいで《日本の作家100人展》に入れて貰い、岡本太郎、池田満寿夫、難波田龍起、平山郁夫他の作家とともに作品陳列されたことも思い出の一つ。大分の幸米二さんのコレクションの中から、リトグラフ「野人足」を日本の版画歴史展に飾らせて欲しいと大分県立美術館から依頼を貰ったことも、先のことと同様、忘れられない。
・タクラマカン沙漠で出合った少年は元気でいるだろうか。トウモロコシの葉を、山と積んだ牛車を曳いて、四十キロ先のバザールへ売りに行くと言っていた。もう一度会いたいと思っている。
私は、これらの作品は穏やかな心を持った画家によるものと考える。
また、作品「隔絶の民」は孤独を描いたものでうあるが、絵を描いた後、好きな音楽でも聴きながら、ひとり静かに孤独というほろ苦さを楽しんでいたような気が少し感じられる。
そこで、次のようなメールを作者に出した。
描かれています内容は、「孤独」、「道化師(画家)の悲しみ」そして「心に問題があるような赤と緑の『椿の図』」です。 これらの内容を描く画家の多くは心に深い傷を負っている人の特徴ですが、小林画伯の絵からはこの心の傷はあまり感じられません。心の傷は過去のことに思われます。・・・片目を失明された時は、狂ったように描いていたと思われますが。
返事は次のとおりである。
中村様の絵画に対する研究の深さに敬服します、内面を見透かされた感じです。ずっと忘れていた(敢えてそうしてきた)遠い昔のことが蘇り、今は何故か悲しい時を過ごしています。
血を売って絵具を買った時代、芝浦港の沖仕事の頃、手配師に拾われず幾度と無く池袋まで歩いたこと、胸を通り過ぎていった女たちの姿、親しい人々との永遠の別れ、それらが一挙に記憶の底を駆け回っています。
生きるってどのような意味があるんだろうか?言葉での真実なんて沙漠の砂埃より軽い、天から授かった自己の道程をまっすぐ歩く以外に説く事は出来ない。と思います、日本のように凡ての世界がピラミット型で、上と下の関係で成り立っているところではモヤシのような贋作しか生むことが出来ない、他人がなんと言おうと、バカ呼ばわりされようと、これしか生きられない、人間の仲間に入れてもらって、生きた証としての作品を、今後も描き続けたいと思います。
インターネットオークションでの落札者評価欄に書かれていたこと
空いた壁をポカンと眺めています。・・・・・
昭和38年は、高度成長時代のまっただなかであった。しかし、東京にもまだその恩恵を受けていない人びとがいた。この画家が住んでいた椎名町付近にも非常に小さい家が建ち並び、飲み屋の二階へは階段ではなく梯子を用いて上がるようなところもあり、そこで生活している人もいた。3畳ぐらいの部屋は天井が低く、まっすぐ立ち上がると頭がぶつかるようなところもあった。
ちょうど、この絵画に描かれているような部屋である。
何も置かれていない部屋で女性はうなだれている。
貧しかった時代、画家は食べることさえ事欠くような時を過ごしたのである。生きることは、まず食べることであり、優しさだけでは生きていけなかったのだ。画家はこの女性に何もしてあげられなかった。絵は比較的値段の高い額に納まっている。画家がせめて出来ることは、この絵を大切にすることぐらいだったのではないか。
「悲しき女(ひと)」を描いた画家も「悲しきひと」だった。
作品「賽の河原(さいのかわら )」(1978年発表、個人蔵)
作者による作品紹介
1978年、銀座文芸春秋画廊、個 展「葬送の譜」で発表した作品の内の一点です。
この作品のテーマ「賽の河原(さいのかわら )」は、架空の世界のものではなく、作者自身 の現実世界を描いたものです。
作品解説
私の説には、「精神疾患を患っている人は『感じた≒見た』ということがある」というものがある。私は、私の説に従うなら、作者の言葉をそのまま肯定するしかない。
そして、画家の精神に問題があることがわかるという絵はまさにこの色彩である。
作品「ある詩(うた)」(1988年頃、屋根裏部屋の美術館蔵)
作品解説
母との別れを描いたものである。
絵から画家の心が伝わる作品である。
相手の心は、言葉だけでなく、表情、仕草からも伝わる。
そして、音楽、絵画からも伝わる。これは、それを如実に示すものである。
メールに記載されていたこと
間もなく一月も終わります、故郷も今でこそ雪が少ないようですが、昔は来る年も来る年も豪雪で深い雪道を取り調べに通ったものです。他の事は思い出したくないのですが、この季節になると「寿永をかやしてくんないね<返してくれませんか>」と駐在の玄関で叫ぶ母の声が幾重にも幾重にもなって聞こえてきます。
作品「丸うんぱんとバラ」(1990年 屋根裏部屋の美術館蔵)
作品解説
花瓶とテーブル上面との構図があきらかにおかしい。画家はそのことに気づいていないようである。画家は、「私の絵は写実であり、見た通りを描いている」と言ってはいるが、心に感じたものしか描いていない。
作品「椿」(1990年、屋根裏部屋の美術館蔵)
作品解説
この作品も、作品「丸うんぱんとバラ」と同様に、なにか幻想的な雰囲気がある。
作品「りんご」(個人蔵)
作品解説
この画家がリンゴを描くと、とんでもないものになる。まるで、熟しすぎた柿のようだ。自由奔放さがよく出ている。あるいは、自由奔放さが出過ぎかも知れない。
作品「裸婦」(1998年、屋根裏部屋美術館蔵)
その後に出品された作品をご紹介する。
作品解説
「現在(注:2007年)は片目失明。辛うじて見えてる方も0.03です。絵は目で画くものではないから、なんて威張っていたのですが年とともに疲れやすく閉口しています」と作者は言っている。この作品は、ほかのものと比べるとタッチが異なっている。作者の視力が低下したためだろうか。しかし、作者の不便さとは関わりなくまた違った趣が生じている。
画家が、「私は普通よりチョット下のところで物を考え生きているつもりです」、自己を「隔絶の民」とか「悲しきピエロ」と言っているが、弱音を吐きながらしっかり生きている気がする。
それは、力強いタッチ、深く美しい色彩、裏面にあるダイナミックなサイン、そして電話口より聞こえた非常に力強い声から分かる。
この絵画は、画家の心の底に秘めた力強さそのものである。
作品「ピエロ 出番前」(個人蔵)
作品解説
作品「悲しきピエロ」に見られる表情とまったく異なり、この作品には、画家の本質にある意志の強さというものが顔に出ている。
この顔の画家が、作品「裸婦」(1998年)を描き、作品「隔絶の民」に描かれた顔の画家が、作品「賽の河原(さいのかわら )」を描くのである。
この画家の作品は、濃厚な色彩が特徴であり、また、画家には強い意志がある。それは、涙を流しながら、人災の悲しみを味わいながらも、この「出番」を待ち望んでいたのである。
平凡な人生なら、平凡な絵しか描けないのではないだろうか。波乱に満ちた人生であったから、多くの種類の作品が生み出されたのである。
終わりに
購入した絵画は、小林寿永画伯がよく使われる運送屋のおじさんから受け取った。おじさんから画伯のことを伺ったところ、画伯は変わった人でありまた優しい人とのことであった。
彼の心の傷は、殺人放火事件の厳しい取り調べから受けたのである。それは、今でも続いていることは確かである。
彼の絵には深みと優しさがあるのは、絵を描くことに打ち込まなければ耐えることの出来ない心の傷と少年期にはぐくまれた豊かな心から生まれたものである。
自画像「悲しきピエロ」を描いた画家は、「優しきピエロ」でもある。
そして、画家は、「優しきひと」でもある。
履歴
1937年 12年6月13日、新潟県糸魚川に生まれる。 10人兄弟の四男。父は市会議員。母は寺(現在はない)の娘。小作農であった大家族の中で、明るく、楽しい少年期を過ごす。
中学生のとき、トルストイの(人生論)北村透谷の(楚囚の詩)を読んで強烈な影響を受けた。新聞配達と、農業手伝いの傍ら画家になることを夢見る。
夜間の高校途中退学、地元で土工、飯場を回り詩作やスケッチを楽しむ。
1956年 村で《赤野タイ、殺人放火事件》が発生、現場で「寿永」の縫込みがされたタオルがあったことから重要参考人として厳しい取調べを受ける。拷問と誘導尋問の幾日かを過ごし、人間の表裏、真実と虚偽、現実と夢想、生と死の幾つかをこのときに学ぶ。寿永の生き方の土台がこの体験で大きな基礎となったことは事実である。決め手になる供述が取れず、無罪放免となったが、この事件は結局、迷宮入りとなる。
この年、既に上京、ガラス職人であった二つ年上の兄、澄雄を頼って上京、「たった一度の人生、好きなことをやって死ぬ」、画家になることを宣言、椎名町長崎2丁目、鈴木伝三宅の二畳間に居を構えた、画く時間が欲しく、クリーニング店、米屋、氷屋、新聞配達、築地、芝浦港、牛乳配達など朝の早い職を転々とし、制作にのめりこむ。滅茶苦茶な生活で栄養失調、右目失明する。
1963年 三年の間生活を伴にしたした女性と別れる。
1968年 最大の援助者であった兄がタクシーにはねられ死亡する。
1974年 打ちのめされた思いを断ち切るためスペインへ単身向かう。マドリード、トレド、セゴヴィア等飛び歩く。スケッチ約30点は池袋パルコ、トックギャラリーで展示全部売れる。
1975年 再びスペインへ行き、アビラ、セヴィリア、グラナダと巡るも、折悪しく当時政状不安定、セヴィリアにおいてデモに巻き込まれ、教会へ逃げ込んだが、軍によってカメラ、フイルム,スケッチブックなど押収され、目の前で壊され、破かれ廃棄される。ショックを受け、この夜ひどい腹痛と高熱を発生し、生死をさ迷ったが、旅先で知り合ったジプシー、ヴァイオリン奏者、デイエゴ長山さん夫妻に助けられた。
抽象画集団《新象作家協会》会員となる。その年に退会。日本テレビ《あなたの知らない世界》出演、疲れる。制作中突然倒れ自律神経失調症と診断されたのは43歳の暮(一人電車に乗れず、人に会うのが怖かった。)
大分の幸米二さんのコレクションの中から、リトグラフ「野人足」を日本の版画歴史展に飾らせて欲しいと大分県立美術館から依頼を受ける。
1982年 美術評論家瀬木慎一氏の計らいで《日本の作家100人展》(セントラル美術館)に入れて貰い、岡本太郎、池田満寿夫、難波田龍起、平山郁夫他の作家とともに作品陳列される。
2001年 シルクロードを旅する。
個展やその他で発表した作品の殆どは15〜6年前、故郷の横川昭登志さん(二歳下の実弟だが、子供の頃養子に出された)が引き取ってくれた。 出品の作品をアクセスしていただき有難う御座いました。この商品は(絵のこと)出品者自身の作品です、画家は、たとえ命を削って画いたのだ、とわめいて見たところで、死んでしまえば只の絵だ、(ゴミと言う人もいるが)画いたものが残ります。
個展 会場とテーマ
銀座ミヤマ画廊 《仏》
地球堂ギャラリー 《寿永作品展》
文芸春秋画廊 《葬送の譜》
クヌギ画廊 《リトグラフ》
クヌギ画廊 《野人足》
日本橋日本画廊 《隔絶の民》
フマギャラリー 《寿永異作展》
望月画廊 《自選二人展》
備考
売血:1950年代から1960年代半ばまで輸血用血液の大部分は売血が用いられていた。
失明:失明の原因は栄養不足によるもので、主としてビタミンAの不足によるものと考える。世界では毎年25〜50万人の児童がビタミンA欠乏によって失明している。
小林寿永 その他の絵画
作品「裸婦」(10F、個人蔵)
作品「大谷口風景」(個人蔵)
作者による作品紹介
この作品は、道路拡張のため今は消えてしまった町並みの一角です。板橋大谷口(おおやぐち)上町です。
作品「古里之柿」(個人蔵)
「父母も兄もいなくなったのに、優しい兄嫁が今年も、里芋やまん丸の茄子と一緒に柿を送ってきてくれた。今年は酷暑のため、実際実った物が少なくて、そのうちの貴重な数個だとのことだ。この柿の木の根元には体を弱めた母が、産むことができなかった11番目の弟が埋葬されている、戦後間もない頃、霙の降る夕暮れ、父と二人で葬った。何10年経た今でも柿の実を見るとその時間に戻ってしまう。」(小林寿永)