屋根裏部屋の美術館

黒田重太郎 作品「滝」

 初めに

 当美術館「屋根裏部屋の美術館」が所蔵する黒田重太郎「滝」(1922年制作)を紹介致する。
 作品「滝」はアンドレ・ロートの教え受けたことが分かるものである。そして、黒田重太郎の作品の中では彼を知る上で重要なものである。


 黒田重太郎

 関西洋画壇の重鎮


 作品「滝」(1922年)



 この作品は1922年制作であるので、再渡欧時のものとなる。この時期は、アカデミー・モンパルナスでアンドレ・ロートに師事し、「写実的キュービズム」に共鳴した時期である。
 黒田重太郎について研究されたものとして、「日本人画家滞欧アルバム1922 ④ アンドレ・ロートとの出逢い –前-」(戸村知子)がある。

 通い始めて一月余りが過ぎた頃、黒田はようやくロートに認められるようになるのです。

 ・・・・「君も彫刻家のように描き出したこの彫刻するように描くと云う事を忘れぬようにしたまえ」と、始めて承認の言葉を与えられたのはものの一ヶ月も経ってからであった。

 私にルーヴルへ行ってグレコやリベラ、ズルバランあたりのスペインのものをよく見るように忠告され、そして私の作とそれ等のものとを比べて、至らぬ所を指摘されたが、週間の終わりになって、「いろいろの小言は云うけれど、君の今描いているものは此アカデミイ始まって以来のメイユールだよ。いいかい。どんな場合にも失望しないで仕事を続けたまえ」と囁くように云われた。


 黒田がアンドレ・ロートのアカデミーに通い制作した「一修道僧の像」、「エスカール(後の「港の女」)」および「水浴の女」は、彼の第二次滞欧作を代表するものである。
 しかし、「写実的キュービズム」というものは、この作品が一番明確である。


 制作年月および場所の特定

 「日本近代の洋画家 黒田重太郎」(「融合文化研究」 第2号 戸村知子)には、黒田重太郎の詳しい履歴が載っている。

1921年11月 パリ着。
1921年12月 テオドル・デュレに会う。
1922年1月 イタリア
1922年3月 スペインを見学した後パリに戻りアカデミィ・モンパルナスに入る。
1922年5月 アンドレ・ロートの教えを受ける。
1922年7月 郊外アカデミィが催され、アカデミィの有志とロト・エ・ガン州セナック村22ヶ月滞在。一ヶ月程ビッシェール氏の教えを受ける。
2003年1月 ロンドン、イタリアを見学して3月に帰国の途につく。

 この作品の「滝」はパリにはないので、1922年7月から9月に行われた郊外アカデミィでの作品で、場所はロト・エ・ガン州セナック村と考る。  


 終わりに

 黒田重太郎の作品には重厚なものが多くあるが、その重厚な色彩は明治時代の脂派から受け継がれたものと考える。そして、さらに、この作品は、アンドレ・ロートの影響を受けた描き方となったものである。


 履歴

1887年 滋賀県大津に生まれる。
1910年 土田麦僊らと黒猫会結成に参加。
1912年 文展「尾之道」入選。
1914年 雅と結婚する。
1915年 長男真之介が生まれる。
1916年 渡欧。 グランド・シュミエール等で学び、ピサロ風の印象主義に感化される。
1918年 帰国
1919年 第6回二科展に滞欧作14点を出品。二科賞受賞。「セザンヌ以後」著す。
1920年 第7回二科展作品「母子像」(現在、佐倉市美術館蔵)を出品。
1921年 京都高等工芸講師を辞し、麦僊、小野竹喬らと再渡欧。アカデミー・モンパルナスでアンドレ・ロートに師事し、またロジェ・ピシエールにも学ぶ。
1922年 作品「滝」(この頃はまだ極貧のさなかにいた。)
1923年 帰国。第10回二科展に「エスカール」等を出品。二科会会員に推薦される。
1924年 小出楢重等と信濃橋洋画研究所を開設。
1926年 妻雅死去。
      ほどなく長男真之介死去。
1943年 二科会退会、第二紀会結成に参加。
1947年 京都美術専門学校教授。
1963年 京都市立美術大学名誉教授。
1969年 日本芸術院恩寵賞。
1970年 京都で死去。


 代表作 

「港の女」(東京国立近代美術館)
「渚に座せる女」(京都市美術館)


 参考文献

「日本人画家滞欧アルバム1922 ④ アンドレ・ロートとの出逢い –前-」(日本大学大学院 文化情報専攻 3期生・修了 戸村知子)

「日本近代の洋画家 黒田重太郎」(「融合文化研究」 第2号 戸村知子)
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