屋根裏部屋の美術館
仮想美術館  村山槐多 小説、随筆、そして絵画

                               

         2004.12           
2006.10 改訂       
                                         中村正明          
                                          masaaki.nakamura.01@gmail.com

 はじめに

 当美術館「屋根裏部屋の美術館」が所蔵する村山槐多「冬景色」(仮題)と「冬枯れの木」(仮題)並びに所有者不詳の「房州風景」と「大屋風景」を紹介する。
 この4作品は、ヤフーインターネットオークションに出品されたものである。「冬景色」および「房州風景」の出品者は信頼できる古物美術商物故堂である。「房州風景」は入手することは出来なかったが、「冬景色」は入手した。その後、他の出品者より「冬枯れの木」(仮題)を入手した。そして約2年後に「大場風景」が出品された。
 これらの作品に見られる心情は、彼の小説などに同じものが書かれている。


 村山槐多 むらやまかいた (1896- 1919)

 明治時代から大正時代の画家には短命な者が多く、村山槐多22歳、青木繁28歳、萬鉄五郎41歳、岸田劉生38歳、中村彝37歳、関根正二20歳に亡くなった。槐多は、中学時代より多数の詩や小説(探偵小説・幻想文学)、戯曲などを創作した。

 「タウン誌 深川 クリオ・プロジェクト」には、次の様な記述がある。

 槐多はその尋常でない集中力をもって、デッサン、油絵と描きまくっているが、その生活ぶりはデカダンスに彩られ、滅茶苦茶と云ってよかった。赤貧に喘ぎながらも、浴びるように酒を飲み、数々の奇行、失態を演じている。発病してからも健康を取り戻すべく改心するのは一時で、長くは続かず、度々血を吐いてはまた酒を飲む。帯などとっくに質に入れ、代わりの荒縄にドロだらけの足と、擦り減って歯がなくなってしまった下駄でスケッチに歩き回った。
 



 作品「房州風景」(古物美術商物故堂取扱、個人蔵)
 


 出品者(古物美術商物故堂)による作品紹介

 本作品は地元の企業の会長の贓品。今から約三十年程前に地元の画商から面白い作品がある、との事で15万円で購入されたとの事。来歴は京都の旧家から出てきたものとかで当時は未だそんなに高額では無く夭折の画家だが評価は高くなかった。無論当時は鑑定書なども存在しなかった時代。暗い絵だが力が在るという理由で購入されたらしいです。今では非常に評価が高く夭折の天才画家などと言われております。私がこの家に訪れた時に目を付けた作品で私は槐多が好きで今までにも何点か新発見をしている関係上、興味は尽きなかった。今手にしてみてじっくりと眺めて見ると非常に良く描けている。槐多独特の色彩、特に空の描き方などは正しく槐多その物でしょう。筆致も円を描くような太い線。構図の取り方、房州は他にも描いている。かなり良い線いく絵でしょう。しかし、鑑定書が取れるかどうかが微妙と判断しています。はっきり言って鑑定書を取るという作業自体に嫌気がさしてきているのが現状です。次から次へと本当に良い作品までもバツにされる。本当に鑑定機関には、もう期待は出来ないというのが真実か・・・鑑定費用も馬鹿にならない。東京まで行って諸経費だけでも相当な費用がかかるのです。無論鑑定書が付けばこの絵はかるく千万は超えるでしょう。****この作品は4号・支持体はキャンバス・技法は油彩。表面にはサイン「槐」裏面には「房州」と張り紙あり。木枠に漢字で墨で署名「村山槐多」画像で確認してください。この字は間違い無く槐多の直筆でしょう。表面の状態は非常に良く丁寧に保管されていました。無論キャンバスや木枠は経年の傷みは御座います。その他は画像で確認ください。額は金枠で当時画商が納めた時の額の状態です。少なくとも私は非常に良い作品と思います。新発見の可能性は大きいと考えます。

 作品紹介

 中学在籍中につくった小説「殺人行者」の初めの一節の書き出しには次の様な記載がある。
 「自分は画家であるが自分の最も好む事は絵を描く事でなくて『夜の散歩である』。彼の都を当てどもなくあちこちとうろつき廻る事である。殊に自分は燈火すくなき場末の小路の探偵小説を連想せしめる様な怪しき暗を潜る事が無上に好きである。」
 
 この絵には、彼の好きな風景が描かれている。


 作品「大屋風景」(個人蔵)



 出品者による作品紹介

 この作品は山梨県の美術品コレクターの愛贓品でした。先月亡くなられて、ご遺族の方からの売却依頼品です。村山槐多というと玄人の愛好する作家であり、余り素人にはその絵の凄さや力強さ、その背景等非常に難しいとは存じます。かく言う私も素人に毛が生えた程度ですので、出品に際しての文章も知り合いの目利きの美術商(絵画研究家)の方にお世話になっております。その方の所見では様々な角度から検討した結果、この作品は非常に良く出来た作品だと判断されました。まず最初にサインに力がある。次に色彩や筆の勢いにも槐多独特の雰囲気を感じると判断されました。しかし、タッチに若干の違和感を感じる。裏面の張り紙もご参考までに。

 作品解説

 この作品は、作品「冬景色」および作品「冬枯れの木」を入手してから約2年後に見つけたものである。しかし、入手は出来なかった。
 サインは後から付けられたものである。そして、それが乾かぬうちに拭いたのはその作品を購入した人である。


 作品「冬景色」(仮題、古物美術商物故堂取扱、屋根裏部屋の美術館蔵)




 出品者(古物美術商物故堂)による作品紹介

 本作品は東京の知人の紹介で、山梨県の旧家へ御邪魔しての蔵出しです。現在の主人はこの絵の存在と言うよりも蔵の中に何があるのかもご存じなかった。とりあえず私はこの絵を大変気に入り、興味が湧いたので買い取りました。槐多が信州より足を伸ばして山梨まで写生旅行にでも来ていたのかなどと考えると面白いですよ。この風景は多分、葡萄の木の様な感じがするからです。画面全体から槐多の短命で懸命に燃えた人生を感じさせる哀愁が漂っている。板の時代・筆の勢い・色彩・空の色調・力の有るサイン等、私は少なくとも「間違い無い作品」と判断して居ります。絵の支持体は板・技法は油彩・サイズは4号です。

 作品解説

 出品者は、葡萄畑より山梨と考えたようである。しかし、作品「大場風景」より長野と分かる。ちなみに、日本の葡萄生産量の1位は山梨県、2位が長野県、3位が山形県である。また、インターネット地図検索ソフトで大屋付近の地形を調べると、非常に近くに山々があるのが分かる。
 また、作品の質の高さより単なる贋作ではないことが分かる。作者の心情というものがこれほど分かる作品は他にはない。

 彼の詩「遺書」である。 

 第一の遺書

 自分は、自分の心と、肉体との傾向が著しくデカダンスの色を帯びて居る事を十五、六歳から気付いて居ました。
 私は落ちていく事がその命でありました。
 是は恐ろしい血統の宿命です。
 肺病は最後の段階です。
 宿命的に、下へ下へと行く者を、引き上げよう、引き上げようとして下すつた小杉さん、鼎さん其の他の知人友人に私は感謝します。
 たとへ此の生が、小生の罪でないにしろ、私は地獄へ陥ちるでせう。最低の地獄にまで。さらば。
一九一八年末

 第二の遺書

 「神さま、私はもうこのみにくさにつかれました。」
 涙はかれました。私をこのみにくさから離して下さいまし。地獄の暗に私を投げ入れて下さいまし。死を心からお願いするのです。
 神さま、ほんとです。いつまでも私をおめし下さいまし。愛のない生がいまの私のすべてです。私には愛の泉が涸れてしまひました、ああ私の心は愛の廃園です。何といふさびしさ。
 こんなさびしい生がありませうか。私はこの血に根ざしたさびしさに殺されます。私はもう影です。生きた屍です。神よ、一刻も早く私をめして下さいまし。私を死の黒布でかくして下さいまし。そして地獄の暗の中に、かくして置て下さいまし。どんな苦も受けます。ただ愛のない血族の一人としての私を決してふたたび、ふたたびこの世へお出しにならない様に。
 私はもう決心しました。明日から先はもう冥土の旅だと考へました。
 神よ私は死を恐れません。恐れぬばかりか慕ふのです。ただ神さまのみ心を逆らつて自殺する事はいたしません。
 神よ、み心のままに私を、このみにくき者を、この世の苦しい涙からすくひ玉はんことを。くらいくらい他界へ。」

 第三の遺書

 神よ、神よ
 この夜を平安にすごさしたまへ
 われをしてこのまま
 この腕のままこの心のまま
 この夜を越させてください
 あす一日このままに置いて下さい
 描きかけの画をあすもつづけることの出来ますやうに。
 神よ
 いましばらく私を生かしておいて下さい
 私は一日の生の為めに女に生涯ふれるなと言はれればその言葉にもしたがひませう
 いかなるクレオパトラにもまさります
 生きて居れば空が見られ木がみられ
 画が描ける
 あすもあの写生をつづけられる。
 村山槐多 (1919/02/20)

 村山槐多は結核という当時は不治の病に冒されていました。当時は、よい治療法がなくただ死を待つのみでした。
 「・・・ 生きて居れば空が見られ木がみられ画が描ける あすもあの写生をつづけられる。」


 作品「冬枯れの木」(仮題、屋根裏部屋の美術館蔵)



 作品解説

 作品「房州風景」は、槐多の好きな色彩が使われている。そして、「大場風景」には「房州風景」と同じ感覚で描かれた樹木がある。また、「大場風景」、「冬景色」および「冬枯れの木」には同じ風景が描かれている。
 これら4作品には槐多独特のあくの強さがある。

 さらに悲しい詩があった。

 血が出る
 肺から
 こはれたふいごから、心から  (「村山槐多全集」)
 
 絵画における精神的背景

 成績優秀。悪童。放浪。恋、小説、そして絵画に没頭
 「自分は、自分の心と、肉体との傾向が著しくデカダンスの色を帯びて居る事を十五、六歳から気付いて居ました。」(村山槐多)
 これから、彼は統合失調症(精神分裂病)の傾向があった可能性が考えられる。
 あくまでも、「傾向」である。
 また、3作品は同一の場所を描いたものであるが、作風が大幅に異なる。特に色彩が異なる。これは、「屋根裏部屋の美術館」で何回も繰り返されて述べられていることのひとつである、「精神(心理)状態が色彩に表れる」ということである。詩「遺書」には、短期間に揺れ動く槐多の心情が示されている。作品「冬景色」および作品「冬枯れの木」はまるで冥土の景色だ。


 終わりに

 「・・・ 生きて居れば空が見られ木がみられ画が描ける あすもあの写生をつづけられる。」 当時、村山槐多はこのように心情を述べている。しかし、作品「冬景色」は非常に荒れたタッチで描かれている。この絵は、ほかの絵の上に描き加えられている。下の絵は描けなかったのだろうか。この絵には彼が死を前にしての悲しみがあふれている。


 履歴 (参考資料:「村山槐多全集」彌生書房)

1896年(明治29年) 長男として横浜市に生まれる。
1903年(明治36年8歳) 木屋町春日小学校に入学後、京都府立師範学校付属小学校へ転入。教員達も驚くほどの早熟ぶりで成績は常にトップだった。しかし学業外では悪童ぶりを発揮。
1905年(明治38年10歳) 水練伊勢観海流奥伝五里免許を取得。
1909年(明治42年14歳) 外国文学を読むようになった槐多は次第に文学に耽溺し始める。エドガー・ランポーに影響されたグロテスクな自作のマスクをかぶって、オカリナを吹きながらウロウロしたりしていたらしい。この奇行は成人になってからも続く。
1910年(明治43年15歳) 従兄の山本鼎に出会う。山本はパリに渡った後も、絵描きになりたいという槐多の味方になってくれた。パリに送られてきた槐多の絵や葉書には、幼いながらも絵描きになるという夢に向かって一途な槐多の熱意が込められている。この時一緒にパリにいた小杉未醒がのちに、上京した槐多に絵を教えることになる。
1911年(明治44年16歳) 自宅の土蔵に自分の部屋を構えた槐多。家具らしきものはひとつもなく、書物や紙切れ、ノートなどが山積みになった中で槐多は夢中で創作に没頭していた。この生活様式は成人後も変わらない。「強盗」「銅貨」「孔雀石」「アルカロイド」「青色廃邑」「新生」などの回覧雑誌を作り、意欲的に詩や小説、戯曲を書いていた頃。
1912年(明治45年17歳) 稲生青年に恋をする。この頃、すでに槐多はプラトンを言語で読破するほどの秀才だったという。
1914年(大正3年19歳)
 キュービズム、未来派等に影響を受けた作風で水彩画+版画の展覧会を開き絶賛される。 京都府立第一中学校卒業。 山本鼎の両親宅(長野県上田市)により滞在。 上京。 田端の小杉未醒氏宅へ下宿。 第一回二科展 「植物園の木」「庭園の少女」他2点を出品。
1915年(大正4年20歳) 美術院第一回秀作展 「六本の手のある女」他油絵数点を出品。 「尿する裸像」を制作。  第二回美術院展 「カンナと少女」出品。院賞受賞。 この頃から生活苦が本格的になる。博多にいた両親が東京へ越してきたことで、父との諍いがますます槐多を退廃的な生活へ落としていく。信州に行き自然を写しとる。
1916年(大正5年21歳)
 田端の小杉邸を離れ自活生活に入る。美術院第二回習作展に「素描」4点出品。 モデル「お玉さん」に熱烈な恋をする。失恋後、槐多は東京を離れ放浪する。 帰京。 山崎と根津八重垣町に下宿しはじめる。
1917年(大正6年22歳) 美術院第三回習作展に油絵「湖水と女」素描「コスチュームの娘」を出品し、美術院金賞を受ける。 山崎と共に再び大島へ行く。 帰京後、四谷に引っ越す。 根津の下宿先の「をばさん」に恋をする。 別れた後、九十九里へ旅立つ。 美術院展第四回 「乞食と女」出品し、院賞を受賞する。 生活は貧困を極めていた。
1918年(大正7年23歳) 美術院第四回習作展「樹木」「自画像」「九十九里の浜」他3点出品し、奨励賞を受賞する。 根津六角堂の中で山崎と生活を始める。 栄養失調と深酒がたたったのか、突然結核性肺炎で倒れる。 千葉九十九里浜へ転地療養。 勝浦東条村「東条病院」に入院。槐多は日々快復する健康を過信し、九十九里から脱出することを決意、毎日10キロ前後を歩いて帰京しようとする。一週間後に旅宿で倒れ喀血する。
1919年(大正8年23歳) 代々木のあばら屋「鐘下山房」で絵を描く。酒もやめ、徐々に健康を回復させていった。美術院習作展に「松と榎」「雪の次の日」「松の群」「自画像」他を出品。美術院賞乙賞を受賞する。風邪をひいたが家を飛び出し、雪混じりの嵐の中、草むらの中で倒れているのを発見される。「白いコスモス」「飛行船のものうき光」と次に描こうとしていたモチーフを数語残して永眠。
 槐多には弟・桂次、妹・アリがいたがともに早くに病没している。槐多は独身だったため後継者はいない。


 

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村山塊多 作品「自画像」(1917年)

 はじめに

 インターネットオークションでサインのない人物像が出品された。
 この作品に描かれた人物は「異様」である。じっと何かを見つめている。
 ふと、村山槐多の名前が浮かんだ。
 そう、彼は「異様な絵画」を描く。
 
 インターネット検索エンジンGoogleを用いて、村山槐多の作品を調べた。
 しかし、多くの自画像とは異なっていた。


 村山槐多「自画像」(1917年?、真贋不明)




 自画像(1914年)  




 自画像(1915年)






 自画像(1917年)




 自画像(1918年)



 調べた自画像と比較すると、近いものに1914年制作の自画像がある。
 しかし、1915年、1917年及び1918年の自画像と大幅に異なる。
 また、1917年の自画像と1918年の自画像を比較すると、1918年の自画像は、やや落ち着いた顔つきになっている。
 眉間にしわがないのである。そして、瞳は異様に輝いている。
 

 作品「バラと少女」(1917年)

  

 作品「自画像」(1917年?、真贋不明)と村山塊多「バラと少女」(1917年)とを比較すると同じ作風だということが分かる。

 @ ともに、花が背景にある。
 A ともに、人物は背景の色に染められている。
 B 男の表情も、少女の表情にも不思議なものが漂う。

 しかし、口は1914年の自画像と同じである。また、鼻穴の形状が異なっている。

 そして、あることに気付いた。
 槐多の瞳には、島の少女が映っているのではないのか。

 作品を調べると、瞳は黒色ではなく茶色に染まっていた。


 眉間のしわ

 性格が変われば、書、絵、顔は変わる。

 眉間のしわからは苦悩を抱えていることが分かる。
 槐多は結核という当時死の病を患っていた。
 
 作品「バラと少女」が1917年の作品なら、この自画像も1917年の作品である。
 1915年の自画像には既に眉間にしわがある。
 そうすると、この少女を見ている槐多は幸せであったということである。

 槐多は、少年を愛し、おばさんを愛し、そして少女も愛した。

 そして、この少女を愛していたときも「異様な世界」に迷い込んでいたときである。


 終わりに

 あることを前提に物事を考えると、間違った結論に至ることがある。
 別な可能性も考える必要がある。
 例えば、美大生が村山塊多「バラと少女」を見て、それを描いた槐多を想像して描いたならこのような作品が出来上がる。

 しかし、このような発想をする人が槐多の鼻の特徴を変えるのだろうか。
 
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