屋根裏部屋の美術館

岩佐又兵衛  

大津絵の開祖そして浮世絵の開祖   

中村正明
masaaki.nakamura.01@gmail.com

 初めに

 当美術館「屋根裏部屋の美術館」の所蔵絵画神仏画5点と岩佐勝重浮世絵「美人図」を紹介する。

 神仏画を集めていたところ、同じ画家または同じ工房のものと考えられるものが5点集まった。もちろん、縁起物の絵は各時代で、色々売られていたことは確かであるが、この5点は異色である。そして、これらはすべて庶民を対象に売られていたものである。大津絵および浮世絵とは別な絵画群があったと考えられる。
 これらの絵画群は何なのか?
 ひとつの手がかりは、そのうちの1枚の神仏画にある岩佐又兵衛の落款である。岩佐又兵衛は大津絵の元祖と言われていた。また、初期の大津絵は神仏画である。それなら、大津絵の元祖と言われた岩佐又兵衛は神仏画を描いていたはずである。
 これらの神仏画は、岩佐又兵衛と関係があるのだろうか? 

 そして、岩佐勝重浮世絵「美人図」は国宝「彦根屏風」(井伊家 彦根城博物館蔵)に描かれている美人図と同じ図柄の岩佐勝重浮世絵「美人図」を入手した。

 これらの絵画は、「岩佐又兵衛は大津絵の開祖および浮世絵の開祖」と言われたことと関係があるのだろうか?

 とにかく、すばらしいものなので紹介する。


 岩佐又兵衛 いわさまたべえ (1578-1650)

@ 「父は信長に叛いた荒木村重。大虐殺をからくも逃れた運命の子は、武士を捨て絵師になった。権威を笑い、血に執し、エロスに酔った絵師」(2004年10月号芸術新潮)
A 「1615年(元和1)ころに越前北ノ庄(現,福井市)へ下り,松平忠直,忠昌の恩顧を受け,工房を擁して本格的な絵画制作を行ったと思われる。1637年(寛永14)に江戸へ下り,そこで没した。」(平凡社世界大百科事典)
B 作品には、古典や故事の題材での絵および復讐劇の長編大作絵巻ならびに風俗画がる。
  三十六歌仙
  山中常磐物語絵巻
  堀江物語
  洛中洛外図屏風
  花見遊楽図
C 岩佐又兵衛は浮世絵を始めた人で、大津絵の元祖ともいわている。(18世紀末 「浮世絵類考」)

 近年評価は高まる一方で、世上、又兵衛作とされて売買される作品は数多いが、子息勝重の手になる無落款有印のものを除くと、その大多数が一種の工房作か、模倣作であり、確たるものに滅多に出会わない。(「名画の値段―もう一つの日本美術史―」瀬木慎一著、新潮選書)


 神仏画と大津絵の関係を述べるため、まず大津絵について記載する。

 大津絵 

 大津絵とは、江戸時代の初期、寛永年間(1624-1644)に東海道大津の追分宿で、仏画を土産物として売ったのが始まりである。次第に風俗的なもの、教訓的な戯画が加わっていった。
 それは、初期浮世絵とちょうど同じ頃であった。また、大津絵は浮世絵とともに大衆絵画である。
 大津絵には画題に対してのその効用がある。寿老人:長寿を保ち百事如意、鬼の寒念仏:小児の夜泣きを止め悪魔を払う、釣鐘弁慶:身体剛健にして大金を持つ等である。


 岩佐又兵衛は大津絵の元祖であり、また初期の大津絵は神仏をテーマとしていたなら、岩佐又兵衛は神仏画を描いていた可能性が高い。また、工房を持っていて多くのの職人(画家)が働いていた。それでは、多くの神仏画を作り出せる可能性がある。
 そして、以下に掲載する神仏画は大津絵と同じように大衆を対象にしたものです。

 
 神仏画 「守護神」、「七福神」、「布袋様」、「大黒(三面大黒)」、「小仏」

  








 この神仏画5作品は、比較的短期間で収集できたことから非常に多く出回っていたことが分かる。そして、作品の内容からすると大津絵と同様庶民が厄よけまたは縁起物として用いられてきたものである。芸術性と言う点では大津絵などと比較できないほどグレードが高いものである。

 そして、5作品は、
 @ 「守護神」、「小仏」:邪気などより家族を守るもの。護符
 A 「七福神」、「布袋様」、「大黒」:縁起物
として売られていたものと考える。
 「小仏」の大きさは縦約4.8cm、横約4.6cmと非常に小さく、また四つ折りの跡あるためお守りとして持ち歩いたものと考える。しかし、最初から小さいものか、あるいは十三仏などを描いたものから切り抜いたものかは分からない。仏の素朴さよりお寺に飾ってあったものとは思われない。
 
 この神仏画5作品の共通した特色は次のとおりである。
・ 庶民が用いたと思われる神仏画である。
・ 紙本である。
・ 泥絵の具を用いている。背景色は茶系統である。
・ 制作時代がほぼ同一と考えられる。
・ 作品の芸術性が非常に高く、またすべてに遊び心が見られる。
 これらの作品は、同一画家によるものか、同一工房の作品であることは確かと考える。

 そして、「七福神」には岩佐又兵衛の落款と印章がある。落款・印象集で調べた。岩佐又兵衛の落款は非常に力強い独特のものであるため模倣することは非常に難しいものである。「七福神」にある落款は模倣ではないように見え、真筆と考えられるものである。しかし、印章がやや異なっている。しかし、僅かな異なりは紙の伸び縮みによるものかもしれない。もし、落款・印章が偽物なら、この落款・印章を書き加えた人は、この作品を岩佐又兵衛のものと考えたため書き加えたものである。
 岩佐又兵衛は、工房を持っていたと言われているで、この工房より多く作り出されたものである可能性も高い。
 この5作品の絵のうち、この「七福神」と「守護神」を比較すると、同じような縦書きの重複した描き方であるが、岩佐又兵衛の落款・印章がある「七福神」は背景の顔料に雲母を用い重厚な仕上げになっている。同じような絵であるが、岩佐又兵衛の落款・印章が入った「七福神」は「守護神」と比べ高級品として売られていたものという可能性がある。


 神仏画「七福神」、「布袋」および岩佐又兵衛「布袋と寿老の酒宴図」(福井県立美術館蔵)との比較

 岩佐又兵衛は体毛にこだわる作者である。この3種の布袋にも独特の体毛が描かれている。他の作者の布袋にはこのようなものはあまりない。
 「七福神」:口髭、顎髭、肩の毛、腹の上の毛、へそ周りの毛
 「布袋」:口髭、顎髭、肩の毛、足の下部の毛、耳毛
 岩佐又兵衛「布袋と寿老の酒宴図」:口髭、顎髭、腹の上の毛、腹の毛、手足の毛
 また、「布袋」の足の親指は、岩佐又兵衛の他の作品に見られる描き方である。
 非常に類似した描き方である。これらからも、これらの神仏画が岩佐又兵衛と関連があることが分かる。

 岩佐又兵衛 「布袋と寿老の酒宴図」 (福井県立美術館蔵)



 以上より、これらの神仏画は岩佐又兵衛の工房で作られ、大衆に効用をうたいながら売られていて、その後大津絵が同じように売られたので、岩佐又兵衛は大津絵の開祖と言われるようになったと考える。

 なお、「大黒(三面大黒)」は見方により正面を向いている一人の大黒に見えたり、横向きの二人の大黒に見えたりする。
 この「大黒(三面大黒)」は歌川国芳の作品と同じような遊び感覚があるが、「大黒(三面大黒)」は江戸時代初期のものと考えるので、遊び絵のルーツでもあるようにさえ思える。
 また、「大日如来」はプリミティブアートと言ってもよいものである。

 歌川国芳 寛政9年〜文久元年(1797〜1861) (1850年頃作)


 

 つぎに岩佐又兵衛が浮世絵の開祖と言われる理由について入手した岩佐勝重浮世絵「美人図」より考えます。
 はじめに、浮世絵、岩佐又兵衛とは別に浮世絵の開祖と言われた菱川師宣および彦根屏風について記載します。


 浮世絵について

 浮世絵とはどのようなものなのでしょうか。
 「江戸時代に盛行した庶民的な絵画。江戸を中心に発達し、江戸絵ともいう。絵画様式の源流は遠く大和絵につながり、直接的には近世初期風俗画を母胎としている。町人の絵画として、武家の支持した漢画系の狩野派とは対立するが、様式の創造的な展開のために,その狩野派をはじめ土佐派、洋画派、写生画派など他派の絵画傾向を積極的に吸収消化し、総合していった。」(平凡社世界大百科事典)とあります。

 浮世絵の開祖は菱川師宣という説もありますので、菱川師宣について記載します。

 菱川師宣 ひしかわもろのぶ (1618年から1694または1631年〜1694年)

 菱川師宣は、「土佐流の画風を好み、浮世絵又兵衛の筆意を倣て一家をなせり」(龍田舎秋錦改撰 『新増補浮世絵類考』(1865年))とあります。
 「肉筆浮世絵から木版による浮世絵版画を考案したのも、師宣の大きな功績です。それまで、武士や豪商など一部の特権階級のものでしかなかった絵図は、以来一般庶民にも広く親しめるものとなり普及し、江戸の文化に大きな影響を与えました。」
 どちらかといいますと、菱川師宣は木版による浮世絵版画の開祖ではないでしょうか。


 菱川師宣の有名な浮世絵には、国宝「見返り美人」があります。

 国宝 「見返り美人」 



 国宝 「彦根屏風(一部)」 (滋賀県彦根城博物館蔵) 



 国宝「彦根屏風」(滋賀県彦根城博物館蔵)は、江戸時代の寛永年間(1624〜44)に制作された風俗図で、当時の京の遊里六条三筋町の様子と推定されています。
 作者は、岩佐又兵衛という説と八木岡春山画伯の狩野派説があります。
 八木岡春山画伯は「寛永年間の狩野派の正系に出た抜群の画家の手になったもので、その図柄は、中国の琴棋(将棋・双六)書画を象り、画中の山水の屏風の筆致は、北宋画の長所をとり、人物は土佐派の流れも加味して、風俗画としては、稀に見る気品を具えている」と言っています。
 また、洋犬を連れた女性の髪型は唐輪髷(からわまげ)で、遊女や女歌舞伎役者のものです。

 岩佐又兵衛 「寛文美人図」 (遠山記念館蔵)



 「筆者不詳で寛文期(1661-1673)を中心に描かれたこのような一人立ちの美人図もまた多く又兵衛の伝承がある。本図には幕府御用絵師の狩野伊川院栄信による正式な極書が付属している。」(「岩佐又兵衛」千葉市美術館)
 

 岩佐勝重 浮世絵 「美人図」



 「彦根屏風」に描かれている美人図とほぼ同じ図柄の浮世絵美人図を入手した。
 この絵画は、「彦根屏風」と「寛文美人図」の間に作られた作品と考える。
 着物は、「彦根屏風」に描かれたものよりさらに大胆な色彩の組み合わせとなっている。そして、「寛文美人図」に描かれた着物の柄は、非常に細かいものである。
 この浮世絵には、勝重の落款があが、この落款は落款印象集に記載されているものとわずかに異なる。わずかに異なるということは、それは偽物ということである。
 これは、この浮世絵を岩佐勝重が描いたと考えた人がこのを後から付け加えたものかもしれない。
 この浮世絵美人図と彦根屏風美人図とを比較しると、この入手した浮世絵美人図の方は細やかな点では劣るが、色彩のバランスはより素晴らしいものである。この浮世絵美人図は贋作者が彦根屏風美人図を真似て制作したものではない。犬および着物の模様が明らかに異なるこの浮世絵美人図は同一作者あるいは同一工房での別バージョンの可能性がある。
 勝重の印章があるが、これは岩佐勝重のことである。この岩佐勝重は、一時岩佐又兵衛ではないかと言われた人である。

 今までの諸説を列記すると、
@ 岩佐勝重は、岩佐又兵衛本人説と岩佐又兵衛の息子である説がある。
A 浮世絵の開祖は、岩佐又兵衛説と菱川師宣説がある。
B 彦根屏風の作者は、岩佐又兵衛説と狩野派説がある。
 等がある。

 「岩佐勝以は岩佐又兵衛である」と言うことが判明した時点で、「岩佐勝重は岩佐又兵衛の息子である」ということも分かった。
 また、岩佐又兵衛の浮世絵が一枚も出てきていないのに、岩佐又兵衛が浮世絵の開祖とはならない。当然、「浮世絵の開祖は、菱川師宣である」となる。
 彦根屏風が狩野派の作品であるというという説は、一人の研究者が言ったものであり、これは信憑性が高いとは言えない。
 しかし、岩佐勝重により彦根屏風美人図の別バージョンが売られたなら、彦根屏風は狩野派の作品ではない。岩佐勝重が狩野派の作品をアレンジして、浮世絵として売ることは考えられない。これは、彦根屏風が岩佐又兵衛により制作され、岩佐勝重が岩佐又兵衛の工房にいたからこそ出来たことである。
 そして、岩佐勝重によりこの浮世絵美人図が作られ、あるいは菱川師宣により岩佐又兵衛の彦根屏風美人図を参考とした「見返り美人」が作られたなら、岩佐又兵衛は浮世絵の開祖と言っても問題はないのではないと考える。
 見返り美人図は、彦根屏風美人図に描かれている女性の「振り返る」という動きがある美人図の模倣のような気がする。岩佐又兵衛の作品には、在原業平図、柿本人麿および寛永美人図等に振り返る姿が描かれている。それは、それまでの絵画には見られない、また、浮世絵には多くの振り返る姿がある。
 これは、龍田舎秋錦が改撰した『新増補浮世絵類考』(1865年)なある、菱川師宣について「土佐流の画風を好み、浮世絵又兵衛の筆意を倣て一家をなせり」と記述されていることことと一致する。

 「晩年は息子勝重に工房を任せた」とあるが、その工房では神仏画およびこの浮世絵美人図が制作された可能性がある。
 この浮世絵美人図の印章は他の者が後から入れた可能性が高いが、これはとにかく面白いものである。


 終わりに

 神仏画5作品は明らかに大津絵の芸術性を大幅に上回るものであり、そして、その内容から神社仏閣に飾られたものではないことは確かである。
 非常に短期間にこれらを入手できたことを考えると、非常に社会に多く出回っていたものと分かる。
 それは、流派があり、その流派で作られたか、工房で作られた可能性が高いものである。私は、神仏画5作品は大津絵と同じように厄よけまたは縁起物として用いていたものであるため、岩佐又兵衛の工房で作られた可能性が高いと考える。そして、大津絵はこれらの神仏画の後に出てきたものであり、岩佐又兵衛が大津絵の開祖と言われる理由と考えてよいと思う。

 なお、岩佐勝重浮世絵「美人図」についてはどのようなものかは分からない。
 しかし、この浮世絵が岩佐勝重のものなら、この浮世絵と類似のものが岩佐又兵衛工房で創られた可能性も高く、それは、彦根屏風は岩佐又兵衛の作品ということでもある。もし、この浮世絵が岩佐派のものなら、岩佐又兵衛が浮世絵の開祖と云われる理由とななる。






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 資料保管室

 不明絵画 この2作品には非常に共通した描き方がある。2枚目の作品は、大量に生産するために簡素化しているような気がする。ただし、簡素化されてはいるが、非常にすばらしい作品である。

 観音様1(所有者不詳)



 観音様2


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