屋根裏部屋の美術館

作者不詳および中堅画家の作品

 はじめに

 「屋根裏部屋の美術館」所蔵の中堅画家達の絵画を紹介する。

 巨匠と呼ばれる国吉康雄、萬鉄五郎、村山槐多、林武、朝井閑右衛門、梅原龍三郎、佐伯米子、古沢岩美、村上肥出夫らは、初期よりインパクトのあるすばらしい作品を生み出してきた。
 彼等と比べ、小早川篤志朗、仙波均平、鱸利彦らの初期作品は穏やかで、インパクトといえるものはどこにもない。しかし、徐々にではあるが優れた作品へと変化していった。しかし、「穏やかさ」という共通した特徴がすべての作品にある。
 仙波均平「静物」および鱸利彦「風景」は、彼らの初期作品である。見ていて気になるような作品ではない。なかには、眠気さえ誘う作品もある。

 作者不詳「舞妓の図」、作者不詳「花鳥図」、作者不詳「裸婦」(サイン:T.K.. 1990年)および作者不詳「富士」なども良いものである。


 小早川篤四郎「裸婦」(屋根裏部屋の美術館蔵)



 小早川篤四郎は裸婦を多く描いていたが、美人はほとんどない。この作品は、美人を描いた数少ないものである。また、初期の絵画は中間色を用いた非常に穏やかな絵画で、悪く言えば風呂屋の壁面に飾ってある風景画のようなものであった。戦後、作風が変わった。

1893年  広島市生。幼少の頃台湾に移住。同地で石川欽一郎に水彩を学ぶ。岡田三郎助に師事。
1925年  帝展に初入選。
1937年  新文展無鑑査出品。日展会員。
戦後は日展会員として無鑑査出品。
1959年  逝去。 

 主な収蔵美術館

東京国立近代美術館
広島県立美術館
広島市現代美術館
東広島市立美術館


 仙波均平 「熱海」、「静物」(屋根裏部屋の美術館蔵)
        「清水港」、「裸婦」

 作品「熱海」(屋根裏部屋の美術館蔵)



 作品「静物」(屋根裏部屋の美術館蔵)



 作品「清水港」(所有者不詳)


 
 作品「裸婦」(所有者不詳)
     


 履歴

1885年  東京府荏原郡(現:品川区)大崎白金猿町に生れる。
1903年  頌栄小学校卒。慶応義塾普通部に学ぶ。三宅克己に鉛筆画、水彩画を学ぶ。
1905年  慶応義塾卒業。太平洋画会研究所で中村不折、満谷国四郎に師事。 同期に中村彜がいた。
1910年  美術工芸展(農商務主催)に出品。農商務大臣褒状。 太平洋画会展に出品。明治天皇行幸。「君子蘭」が宮内省買上となる。 東京美術工芸展(東京府主催)に出品。東京府知事賞。 文展に「静物」を出品。褒状。 静岡県榛原中学校に勤務。川崎に在住。
1913年  国民美術協会に「バナナ」を出品。
1915年  渡米。ニューヨークにて油絵を研究。
1921年  アメリカからパリへ。パリ・モンマルトルにアトリエを構える。 クリッシー油絵研究所に通う。その間、スペイン、イタリア、ベルギー、オランダ、イギリスを旅行。
1923年  パリ、サロン・ド・テュイルリーに入選。
1924年  帰国。日本橋・丸善、大阪・白木屋にて個展。
1928年  慶応義塾普通部で図画教師を担当。
1929年  台湾、沖縄を旅行。
1930年  銀座・資生堂で個展。
1945年  頌栄高等女学校で美術教師。
1955年  銀座・村松画廊で個展。
1960年  銀座・三越で個展。
1973年  中野画廊で個展。
1975年  油彩他14点が東京芸術大学資料館に収納。
1977年  死去。


 鱸利彦「巴里郊外 コント・・・?」(1931年?、屋根裏部屋の美術館蔵)



 作品解説等

 この作品は、作者不詳で出品されていたものである。作者について、サインには利彦とあるので、Google検索エンジンで「利彦 画家」で調べたが分からなかった。魚の落款があるため、「すずき としひこ 画家」で調べたところ、「鱸利彦」がヒットした。さらに、鱸利彦の落款には同じものが使われていることが分かった。

 鱸は昭和5年にフランスに留学しているが、その時のようすを「画壇では[ルノアール]、 [ボナール]、[ピカソ]、[ブラック]等[印象派]以後の新しい傾向の絵がもてはやされていたが、私はそれよりもむしろクラシックなものにひかれた。特に[コロー]の作品には自然観照に東洋的な風趣を感じ深く興味を覚え、ルーブルで三か月その模写に専念した。」と語っている。鱸の作品の中にも、自然をみつめる純粋でするどい観察眼が宿っている。(宮崎県立美術館 「鱸利彦」解説)

 履歴

 鱸利彦 すずき としひこ 1894-1993 明治31年−平成5年

 人物画、風景画を得意とし、一貫して穏健なる自然美を追求する。

1894年  千葉県に生まれる。
1896年  宮崎県宮崎市江平に移り住む。
上京、本郷洋画研究所で藤島武二師事。
1913年  東京美術学校西洋画科入学。
1918年  文展初入選。以後35年まで文展・帝展に出品。一時旺玄会に出品。
戦後は二科会の復興に参加、同会会員となる。
1930年  フランスに留学する。(-32年)
1949年  共立女子大学教授。(-77年)
1955年  野間仁根らと一陽会を創立。
1966年  無所属。日本橋高島屋を中心に毎年個展発表。

 主な収蔵美術館(ホームページ「All About」)

東京都現代美術館
府中市美術館
佐久市立近代美術館
北九州市立美術館
宮崎県美術館
鹿児島市立美術館

 鱸が興味を抱いたコローの作品には次のようなものがある。

 コロー「モルトフォンテーヌの想い出」(1864年、ルーヴル美術館蔵)



 コロー

 19世紀のフランス美術界の中で最も優れた風景画家のひとり


 鱸利彦「茶道具と菓子」(屋根裏部屋の美術館蔵)




 跡見泰「村はずれ」(1922-1924年頃制作、1967年跡見泰回顧展出品作、絵画インターネット販売業hiromi取扱、屋根裏部屋の美術館蔵)



 出品者作品紹介

 外光派巨匠「跡見泰」の作品です。黒田清輝に師事し、外光派の巨匠として活躍した実力作家です。
 本作品は、制作後80年経過しているとは思えない感性の作品です。
 通常、80年前に描かれている作品は、現在の感覚とは多少かけ離れており、
 古臭さを感じるのですが、「跡見泰」先生の作品は、現代の作品かとも思える
 感性で描かれております。
 過去、多数の物故作家を扱いましたが、これほどまでに現代の感覚と違和感のない作品は初めてです。
 それだけ、跡見先生の感性が優れていたことを証明しております。
 本作品は、1922から24年に掛けて渡仏した時の滞仏作で、非常に数少ない稀少な作品と言えるでしょう。
 佐伯祐三や荻須高徳らが渡仏する以前に渡仏し、本作品を描いた事は非常に驚かされますし、高く評価するに価するでしょう。
 また、没後10数年後に行われた回顧展に出品されている作品ですので、非常に稀少な傑作だと思います。


 跡見泰「人物のいる風景」(1930年制作、good8508art取扱、屋根裏部屋の美術館蔵)



 出品者(good8508art)による作品説明

 日本特有の高い壁の屋敷の庭に覆いかぶさるように茂った深緑の木々を背景とした構図。
 この色遣いと重厚感がこの作者の資質でありそれがぐっと胸に響いてきます。
 そして自然に我々の目線が中心を歩く稚拙な少女に向けられるような構成になっています。
 この人物がいなかったら、きっと物足りないものになると思います。
 さらに、この絵の暗さを助けているのが、少女の上部に横直線に太く延びた白壁と足元の地面の白です。
 良く見ると、少女を囲む中心部分に唯一どこからともない光を感じるように描いてあります。
 この何気ないようで、緻密に計算されているのが良い作品であり、いわゆる巨匠の証しではないでしょうか。

 作品解説

 この作品は、作品「村はずれ」(1922-1924年頃制作)と比較すると、だいぶ重厚で力強い作品となっていて、跡見泰の作品としてはあまり見られないものである。。
 作品「村はずれ」は、優れたものであるが、多くの画家が行っていた西洋の物まねが感じられる。

 跡見泰は、東京美術学校西洋画科選科では黒田清輝に師事し、その後、黒田清輝を中心とした発足した白馬会の会員になった。その後、白馬会の会員で、黒田清輝の弟子である中堅画家らと光風会を創った。いってみれば、外光派の中心人物であった。
 その彼が、「人物のいる風景」のような、外光派では見られない作品を作ったのは、1930年前後の画会の大きな変化があったからである。
 それは、1927年に木下孝則、小島善太郎、前田寛治、里見勝蔵、佐伯祐三の5名により発足された1930年協会の「西洋画の模倣、追隋を脱して自分たちの手による油彩画の創造を」というスローガンが大きく影響したと考える。
 この1930年協会およびそれに続く独立美術協会が画家達に与えた影響は非常に大きなものであった。

 しかし、確かに作品「人物のいる風景」は西洋画の模倣ではないが、「セーラー服の少女」と「日本特有の高い壁」という日本独特のおまけまで付いた。


 履歴

1884年 東京都神田に生まれる。
1896年 黒田清輝を中心とした白馬会発足。
1903年 東京美術学校西洋画科選科卒業。在学中は黒田清輝に師事する。
1906年 白馬会会員となる。
1907年 文展に「夕の岬」を出品し、受賞。
1908年 文展に「晩煙」を出品し、受賞。
1909年 文展に「砥石切」を出品し、受賞。
1911年 白馬会解散
1912年 光風会*の創立に参加し、会員となる。
1922年 渡仏。(-1924年) サロン・ドートンヌ、サロン・ド・ナショナルに出品する。
1932年 帝展無鑑査となる。のちに文展無鑑査となる。日展委嘱。
跡見学園理事を歴任。
1953年 浦和市で死去。
1967年 「跡見泰 回顧展」が開催される。(日動画廊)

 *光風会:1911年解散した白馬会の会員であった跡見泰、中沢弘光、山本森之助、三宅克己、杉浦非水、岡野栄、小林鐘吉の7名によって発起され、1912年6月第一回展を上野竹之台陳列館で開催。創立会員7人は黒田清輝の弟子で、その後も小林萬吾、南薫造、辻永など白馬会系の画家たちが会員となった。外光派風の穏健な作風が主流を占める。創立以来90年以上経過した現在も存続している歴史ある団体。

 主な収蔵美術館(ホームページ「All About」)

東京国立近代美術館
埼玉県立近代美術館
千葉市美術館
姫路市立美術館
玉川近代美術館


 梅崎渡「静物」



 日本橋アートギャラリー「環」の「環コレクションを含むグループ展」に出品していたことがある画家。


 山田キヨ「静物」(1977年)


 
 絵にはその人の性格が表れる。この画家の画集『みんな みんな 瞳が輝いていた』という題名からもその人の性格が分かる。 
 1958年社会福祉法人愛の泉勤務時に白炎会と出会い油絵を始めた。また、バングラデシュ人民共和国に井戸を贈る運動等を通して、貧困と疾病に悩む人々の救援活動をした。
 弱い人々のために働いたこの人の絵画にはある種の潔癖さが感じられる。
 
 履歴

1934年 埼玉県に生まれる。
1958年 社会福祉法人愛の泉勤務時に白炎会と出会い油絵を始める。
1980年 光陽会出品。
1988年 光陽会会員。
1989〜93年 サロン・ド・パリ正会員。
1994〜96年 世界芸術協会評議員。
1988年より バングラデシュとの絵による国際交流とボランティア活動。また「アース・ヒーリング」に参加。A.M.S.C.(スペイン)認定作家。この間、数多くの賞を受ける。1997年 「アートグラフ最優秀アート大賞」と「パリ市民大賞」を受賞。麻布美術館などで個展を7回開催。ホームページ・わたあめハウスのゲスト席に登場し油絵展開催。
1998年 画集『みんな みんな 瞳が輝いていた』(アートグラフ社)を出版。
1999年 死去。


 作者不詳「舞妓の図」



 我々の多くは舞妓さんとは話をしたことはない。我々とは違う世界に住んでいるようにも思えるのである。
 舞妓さんの目を見るとこちらに向いていない。それが、観るものに僅かな違和感を生じさせる、作者の遊び心のある技巧である。


 作者不詳「花鳥図」(小林和作の印章あり)



 小林和作の印章があるが、それは偽のようである。それが分かっていても収集したものだ。鳥が鮮やかに描かれ、また今にも虫を捕るために飛び立とうとしている。


 作者不詳「裸婦」(サイン:Nakagawa)



 裏面には、「習作」とある。女性は座っているようには見えない。
 美しい女性は、作者の方を向いていない。
 上記の「舞妓の図」に描かれた女性と作者には感情の交流はないが、この作品には、女性と作者の間になにか冷たい壁が感じられる。


 作者不詳「裸婦」(サイン:T.K.、1990年)



 優しそうな女性が、ややプリミティブに描かれている。
 男性が好む女性は、ファッションモデルのような女性や男性用雑誌にある巨乳の女性ばかりではない。この作品では、作者は好みの女性を思い浮かべ、好きなように描いている。画家はこの女性が大好きなのである。


 作者不詳「富士」(1939年)







 出品者による作品紹介

 作品右下に作家サインとキャンバス裏面にも漢字サインと印がありますが詳細を確認出来ませんでした。
 作品内容は力のある在銘作家と思われますが、特長あるサインですのでお分かりの方もいらっしゃると思います。
 制作年を特定出来ませんが裏面に「39」の記載があり昭和39年か1939年かは特定出来ません。所見では半世紀以上が経っていると思われるため1939年と推察できますが特定するものではありません。


 終わりに

 インターネットオークションでは、よい作品でも作者不詳となると非常に安価で購入することが出来る。
 「舞妓の図」が16,000円、「花鳥図」が5,250円、作者不詳「裸婦」(Nakagawa のサイン有り)が77,000円、そして作者不詳「裸婦」(T.K.. のサイン有り 1990年)が500円であった。
 



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 小玉光雄「ラバトの市場」(絵画インターネット販売業hiromi取扱、屋根裏部屋の美術館蔵→美術愛好家)
 
 

 履歴

1923年 東京都出身。
 二科展にて特選、二科賞、東郷青児賞、パリ賞、会員努力賞など多数の賞を受賞し、二科展の他にも国際芸術見本市や新鋭選抜展にも精力的に出品し、活躍した。
 代表作「古都復活」等。
1964年から1969年 新宿紀伊国屋ホールの初代支配人をした。
2003年12月 死去。享年80歳。


 白木正一「模写」(屋根裏部屋の美術館蔵→美術愛好家)



 1997年から2001年にわたって中部経済新聞に連載された「この画家知っているかい?」に掲載された画家である。

 履歴

1912年 名古屋市生まれ。
1937年 「独立展」初入選以後1938年、1939年と連年入選。福沢一郎の「美術文化協会」結成以後、「美術文化展」に出品。
戦争中は自発的に出品停止。
日本敗戦後、請われて米軍基地に絵を教えに通う。
1958年 渡米。リトグラフ作品を精力的に制作。その作品の代表作はニューヨーク「メトロポリタン美術館」「ブルックリン美術館」にパーマネントコレクションされる。
1989年 約30年のニューヨーク生活を打ち切り、帰国。
1995年 死去。


 大沼博暉「パテオの花」(屋根裏部屋の美術館蔵→美術愛好家)



 履歴

 1969年に渡西し、現在までスペイン・トレド 在住の画家。
 スペイン各地の美術コンクール等で多数の賞を授与。
 日本には大体2年毎に『文芸春秋画廊』にて個展開催。

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