屋根裏部屋の美術館



 はじめに

 かって、南画は狩野派、土佐派等の作品と比較してひとまわり下に見られていたものである。
 しかし、呉東槐「多福多壽多男子」の作品を観ると、逆にそれらの作品はチマチマしたものに見える。
 この作品を江戸時代の三大家の一人に数えられた谷文晁「着色山水図」と比較してみる。


 谷文晁「着色山水図」(1763年〜1840年宝暦13年〜天保11年、色調補正有り、破損多、屋根裏部屋の美術館蔵)

 谷文晁は、狩野探幽円山応挙とともに、江戸時代の三大家の一人に数えられた。そして、江戸南画の開拓者と言われた人である。作品「着色山水図」は、保存状態が非常に悪いものだが、大成された文人画であることがよく分かる作品である。

 日本の近世画壇では、江戸時代を通じて狩野派土佐派といった名門が主要な地位を占め続けていた。しかし江戸時代も中期以降になると、町人文化の隆盛とともに、琳派や四条派といった新しい絵画が登場した。もとは知識人による余技的な絵画である「文人画」もそのなかの一つである。
 中国で明・清時代に生まれ、祇園南海彭城百川等が基礎を確立し、池大雅与謝蕪村等が大成した文人画は、主に関西を中心として江戸中期〜後期絵画の一大潮流となった。
 18世紀末、江戸に谷文晁が登場すると、関東においても文人画は非常な広がりを見せることとなり、また彼の開いた画塾「写山楼」からは竹田,立原杏所,渡辺崋山,高久靄苑(たかくあいがい)等の画家を出した。なお妻の林氏(幹々(かんかん)),その妹の秋香,紅藍等も女流画家も出した。







 呉東槐「多福多壽多男子」

 画家呉東槐を調べたが、分からなかった。 
 南画の良さは、この作品に見られるような大胆なタッチにある。絵も書もおおらかなものである。この作品は南画を代表する作品の一つと言ってもよいものである。
 丙辰は、・・・1796年、1856年、1916年・・・である。明治以降の作品と思われるので、1916年(大正5年)の作品と考える。



 終わりに

 江戸時代には、形式を重んじる狩野派、土佐派とは別に曽我簫白、伊藤若冲、葛飾北斎等の自由奔放な絵画が生まれた。この「多福多壽多男子」の作者呉東槐は明治時代の人と考える。作者のおおらかな性格がこの作品から感じ取れる。
inserted by FC2 system