高間惣七 鳥小屋で暮らして

 はじめに

 当美術館「屋根裏部屋の美術館」が所蔵する高間惣七「窓ぎわ」を紹介する。
 この絵画は、絵はがきにも採用されたものである。
 これは絵はがきからは美しい作品と思えるが、実際は薄暗いものである。そして、白いレースのカーテンに見えるものは鳥小屋の柵である。この鳥小屋には、インコが3匹以上いる。高間惣七は、この中で食事をしていたのだ。
 高間惣七は、晩年、非常に明るい色彩で鳥の絵を数多く描いている。それを好む者もいるが、それは一流画家が描いたものとは言えない。
 「画家には、初期によい作品を作り出すが、晩年には駄作を作り出すタイプの人がいる」と言われている。高間惣七は、このタイプの代表例である。

 ある時、靉光の作品および彼末宏の作品には、隠し絵があることに気づいた。もしかすると、高間惣七の作品にも隠し絵があるのではないかと思い調べてみると、新たな見方が分かった。


 高間惣七

 帝展(現日展)で6年連続特選受賞の最高記録を持ち、当時は「人気の梅原龍三郎」、「実力の高間惣七」と言われていた。
 夭折の女流画家である高間筆子は、高間惣七の妹である。


 作品「窓きわ」(50号、1928年第9回帝展出品作、絵画インターネット販売業hiromi取扱、屋根裏部屋の美術館蔵)



 

 ***出品者による作品紹介***

 高間惣七は、帝展(現日展)で6年連続特選受賞の最高記録を持ち、当時は「人気の梅原龍三郎」、「実力の高間惣七」と言われていた。
 日本の洋画文化を築いた巨匠のひとり「高間惣七」の最高傑作とも言える第9回帝展出品作「窓ぎわ(は)」を出品致します。
 本作品は1928年に制作され、第9回帝展に審査員に推挙され出品した傑作で、その後若干加筆され、1930年に完成しました。
 「高間惣七画集」P93(No.134)にもカラー掲載されており、さらには当時、絵葉書にもなっている代表作です。

 この頃は晩年の抽象的で鮮やかな色調の鳥を描いたものとは全く異なり、清廉幽遠で美しい色彩秩序を持った作品が多く、和田英作の影響が感じ取れる作風で、個人的にはこの作風を晩年まで貫いた方が良かったのでは?と思わせるほど完成度が高いです。
 流石に帝展6回連続特選を受賞しただけの実力が感じられます。
 個人的には、1920〜1930年頃の作品が一番良い時代だったと感じます。

 「窓ぎわ」というタイトルでも幾つか作品を制作しており、横浜美術館にも12号サイズの「窓ぎわ」が収蔵されております。

 ***作品解説***

 この作品の色彩は、実際はこれよりもっと薄暗いものである。右にあるレースのように見えるものは、木の柵である。そして、ここは鳥小屋の中である。
 また、帝展で特選を受賞した6作品はどことなく異様なものであるが、それらと比較すると比較的まともな方である。
 しかし、画家はインコが数匹飛び交う鳥小屋の中で食事をしていたという異様なものがある。
 

 作品「窓ぎわ」(一部切り抜き)
 
        

 ***作品解説***

 この作品には、馬の顔が描かれている。作品左上には、いくつかの顔が描かれている。視点を変えることにより、さまざまな顔が現れる。その顔の一つを切り抜いてみると、さらに別の顔が見える。また、椅子の背にも顔に見える。作品を90度反時計回りに回転してみると、椅子の背には二つの顔が見える。作品を90度時計回りに回転してみると、また顔が見える。


 高間惣七「花」(水彩、屋根裏部屋の美術館蔵)

 

 ***作品解説***

 この作品「花」(水彩)は、まともな配色で描かれている。
 この作品にも、いくつもの顔が描かれている。
 


 作品「牡丹」(1947年制作、所有者不詳)

 ***作品解説***

 高間惣七の作品を調べていると、このような異様といえるものが見つかった。
 この作品にも、多くの顔がある。花瓶の中にも、数個の顔がある。また、赤い花の中にも数個の顔がある。


 作品{鳥」(所有者不詳)



 ***作品解説***

 このような作品も、天才画家が描くひとつのパターンである。
 通常は何が描かれているか分からないはずである。しかし、類似の絵画から、この作品には何が描かれているか分かった。
 それは、3匹の鳥であり、そして、顔が描かれているはずである。


 作品{鳥」(所有者不詳)を色調補正



 ***作品解説***

 作品には、いくつかの顔が描かれている。


 幼少期における家庭環境

 作品「牡丹」のような凄すぎる作品を作り出す画家は、精神に問題があると考える。

 精神疾患には次のことが関係する。

@遺伝的要因
A幼少期の家庭環境に問題がある。
B非常に強いストレスを受けていた。

 高間惣七の妹高間筆子は精神に異常をきたし自殺している。当然、高間惣七には精神的疾患に関連する遺伝的要因がある可能性がある。
 しかし、このような絵画を作り出す画家の多くには、幼少期の家庭環境についてが問題がある。

 「惣七、筆子を先代惣七、たきの子とするには少々年齢的に無理が生じるといえるかもしれない。戸籍簿によると、惣七(庄太郎)が生まれた1889(明治22)年にはたきが48歳、筆子が生まれた1900(明治33)年にはたきが59歳という年齢に達している。常識的にみて、余程でないかぎりそんな高齢出産はありえないと考えるのがふつうだろう。」(「高間筆子 幻景」窪島誠一郎著、白水社)

 この辺に高間惣七が抱えていた問題があったと考える。


 終わりに

 高間惣七は帝展(現日展)で6年連続特選受賞の最高記録を持つという実力の持ち主である。
 しかし、晩年の作品は駄作と言えるものが多い。
 これは、彼の精神的な問題によるものと考える。
 そして、作品の中には多くの顔が見る者には分からないように描かれている。


 履歴

1889年 東京・京橋生まれ。白馬会洋画研究所に通う 。
1908年 東京美術学校に入学。
1913年 第7回文展(現日展)に「午前の日」を出品し初入選する。
1914年 第8回文展褒状。大正博覧会に「卓上静物」を出品し、一等賞を受賞する。
1915年 第9回文展褒状。
1916年 東京美術学校を卒業。その後、和田英作に師事する。
1918年 第12回文展(現日展)に「夏草」を出品し特選を受賞する
1919年 第1回帝展(現日展)に「初秋」「幽林の春」を出品し特選を受賞する。
1920年 第2回帝展(現日展)に「浜辺」「裏庭」を出品し特選を受賞する。
1921年 第3回帝展(現日展)に「鶏舎のほとり」「花園の鶏」を出品し特選を受賞する
1922年 第4回帝展(現日展)に「八月の海辺」「晴れ日」を出品し特選を受賞する。
     妹の高間筆子が自殺をする。

1924年 第5回帝展(現日展)に「南窓の一室」を出品し特選を受賞する。牧野虎雄らと槐樹社結成。
1928年 第9回帝展に「窓ぎは」を出品する。
        審査員となり以後、毎回審査員として嘱託出品する。
1933年 東光会創立に参加する。
1934年 七鳳会創立に参加する。
1936年 種線美術協会創立に参加する。
1939年 主線美術協会創立に参加する。
1940年 紀元2600年奉祝美術展に「陽光」を出品する。
1944年 戦時特別展覧に出品する。
1947年 第3回日展に招待出品する。
1948年 第4回日展に嘱託出品となる。
1949年 第5回日展に出品し審査員となる。
        以後日展審査員として嘱託出品する。
1955年 日展審査員を辞して独立美術協会に出品、独立美術協会会員となる。
        日本国際美術展、現代日本美術展に出品
1956年 神奈川県立近代美術館主催、高間惣七・小倉遊亀展が開催される。
1958年 国立近代美術館主催「現代の絵画の展望」に出品する。
1959年 日本国際美術展に「海風」を出品し、優秀賞を受賞する。
1960年 横浜文化賞を受賞する。
1961年 横浜文化賞受賞記念展が横浜高島屋にて開催される。
1962年 東京画廊で個展を開催する。
1964年 マイアミ近代美術館にて個展を開催する。
1973年 勲三等瑞宝章を受賞する。
1974年 横浜にて死去。享年84歳。


 主な収蔵美術館

国立近代美術館、
東京都現代美術館
神奈川県立近代美術館
横浜美術館
板橋区立美術館
横浜市民ギャラリー
新潟県立近代美術館
京都市美術館
福岡市美術館

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