屋根裏部屋の美術館




        
 はじめに

、当美術館「屋根裏部屋の美術館」が所蔵する雪舟等楊「馬上寿老図」、曾我簫白「葡萄図」および林信敬「猿」を紹介する。
 
この3作品は同じ方より入手したものである。
 雪舟「馬上寿老図」(水墨画)は、真贋不明ながら、もし、雪舟作なら彼の最高傑作となるものである。。
 また、同様に簫白「葡萄図」も真贋不明ながら、もし、簫白作なら彼の最高作品となるものである。
 林信敬(錦峯)「猿」は、森祖仙の作品と同じ程度の質のものである。絵にある落款「錦峯」は「大学頭林信敬」の画家ではありません。画ことであり、画家でない人がこのような絵画を描いたのである。学問の傍ら描いたのだろうか。
 
 これらの絵画は忍者屋敷の屋根裏部屋のように外部より分からない部屋に保管されていたものであった。


 3枚の絵画の所有者と保管場所

 この3枚の絵画の元所有者は、戦前難波の眼鏡商で、その所得額は業界第1位でした。しかし、戦前の眼鏡業界第1位の所得でも、これらの絵画を入手することは不可能のはずである。調べると、その方は金貸し業も営んでいて、別荘(2戸)と蔵を持っていて、大変裕福であった。その蔵の中は高額な美術品だらけであったが、戦後、その所有者が亡くなられた後、それらの美術品は古物商に売り払われた。
 一つの別荘はすでに売り払われ、今回、自宅近くの別荘(別宅)を取り壊すので、そこに保管されていたものが売りに出されたわけである。この別荘の秘密の屋根裏部屋にあった絵画である。
 昔、この方の丁稚さんを務め、現在は大阪で大手眼鏡店を経営されている方が、その旦那さんの奥様より頼まれての販売品であった。
 

 時代背景

 おそらくこれらの絵画は、大名家の先祖伝来の家宝であった可能性があります。元所有者の旦那さんと出品者の丁稚さん(現眼鏡店社長)は、よく美術品を買いに出かけていたそうですが、これらの絵画3種は、そうやすやす入手できるものではありません。この元所有者がこれらを収集した時代は大正時代から戦前です。経済変動が非常に大きい時代であり、大名家等は凋落により家宝を手放さなければならない状況下にあった時代でもあります。 


 雪舟「馬上寿老図」



 落款には「眞雪」とある。「眞雪」は、「日本書画落款印譜集成」(編著者:杉原夷山、柏書房)には「雪舟」とある。我々が目にする雪舟の作品には「眞雪」と描かれたものはない。

 雪舟等楊 せっしゅうとうよう (1420~1506)

 15世紀後半に活躍した水墨画家・禅僧で、画聖ともたたえられる。諱(いみな)は等楊、若くは拙宗(せっしゅう)を称した。 備中国に生まれ、京都・相国寺に入ってから周防に移る。その後遣明使に随行して中国に渡って中国の水墨画を学んだ。作品は数多く、中国風の山水画だけでなく人物画や花鳥画もよくした。大胆で力強い筆線は非常に個性的な画風をつくりだしている。

 非常にすぐれた作品ですが、作風および落款は現存する雪舟の作品のものと大幅に異なる。図案は、「杜子美図」(伝 足利義持)のものに近く、余白の取り方は、非常に自然なものである。
 馬の描き方は、雪舟風と言われた雪村「百馬図」(茨城鹿島神社蔵)に非常に近いもので、また、雪村「百馬図」よりすぐれている。
 また人物は、力に満ちあふれた描き方の多い従来の雪舟のものとは異なっているが、雪舟「倣梁楷黄初平図」のものに近いものである。人物の描き方は、馬の描き方の延長線上にあるものである。そしてそれは、雪舟「倣梁楷黄初平図」の人物の描き方の上をいくものです。そして、雪村が描いた人物像たとえば「竹林七賢図」(ニューヨーク・バーク・コレクション)より一回りすぐれたものである。
 従来の力に満ちあふれた雪舟の作品を「剛」とするなら、この作品は「柔」である。また、「剛」の最高作品を「梅潜寿老図」とするなら「柔」の最高作品は、この「馬上寿老図」と言ってもよい。

 雪村「百馬図」(茨城県鹿島神社蔵)




 雪舟「馬上寿老図」は、この雪村「百馬図」と比較すると、筆の使われ方は勢いがあり、単調でないことが分かる。

 雪舟は禅僧画家である。禅僧は悟りを求め修行する。
 「底深き淵の澄みて、静かなるがごとく  心あるものは、道を聴きて、心 安らかなり」(釈迦)
 雪舟の多くの力強い絵画からは、「悟り」を感じない。
 この絵画には、「悟り」が描かれてい。この馬と寿老人は、ともにのんびりのんびりしている。この絵を描いたときは、ゆったりした気持ちで描いたと考える。

 雪舟が晩年、茶道を楽しみながらのんびり暮らした形跡がある。
 京都市東山区には、東福寺塔頭の一つの芬陀院(ふんだいん、通称雪舟寺)という寺がある。その寺は、関白一条内経が父の菩提を弔うために元亨年間(1321~1324)に創建された。
 芬陀院は雪舟寺の通称名で知られており、雪舟の作と伝えられる名庭がある。鶴亀石が配された優美な枯山水庭園で、亀石が夜毎動いたという伝説も残っている。
 雪舟は、晩年茶道を楽しむことが出来るのんびりとした暮らしが出来たからこそ、茶室および庭園の設計に関与できたのではないだろうか。そして、この絵画は茶室に飾るようなものである。

 悟り

 人の生き方には色々ある。
① 善良、几帳面、責任感が強い、仕事熱心、模範的人物、他人への配慮も忘れない
② 雨にも負けず 風にも負けず 雪にも夏の暑さにも負けぬ 丈夫なからだをもち 慾はなく 決して怒らず いつも静かに笑っている
 ・・・・・・・・・・
 日照りの時は涙を流し 寒さの夏はおろおろ歩き 
 ・・・・・・・・・・
 (宮沢賢治「雨ニモマケズ」)
③ この人物のように徳を持ち、穏やかに生きる。欲得がない生き方をしている。・・・
 馬も人も急がず のんびりのんびり
 幸せそうな人の顔と馬の顔
 

 ①の生き方は、他の人から見れば頼りになる人である。しかし、これはストレスを受けやすくなる。感情障害(鬱病)の患者に見られる性格を抜き出したものである。
 ②にある「日照りの時は涙を流し 寒さの夏はおろおろ歩き」は感情を表に出しストレスを発散するものです。しかし、心には原因が依然大きく存在し続ける。「慾はなく 決して怒らず いつも静かに笑っている」とあるが、「日照りの時は涙を流し 寒さの夏はおろおろ歩き」とやや矛盾した記載があります。そして、この詩には各所に①の生き方も書かれている。
 ③これが「悟り」を得た人の生き方である。悟りには「段階的な悟り(漸悟)」(中国説)と「突然の悟り(頓悟)」(日本説)の二種類がある。ここに描かれている「悟り」は、知識を身につけ、徳を得て物事を判断する「段階的な悟り(漸悟)」である。
 たとえば死を目前にした場合、涙を流して何になるのだろうか。死は防げれば防ぐべきであるが、防げないときは静かに死を受け入れるのが「悟り」である。
 
 雪舟「梅潜寿老図」(東京国立博物館蔵)



 この作品「梅潜寿老図」に描かれている寿老は、ちょうど作品「馬上寿老図」と正反対のものである。厳しい顔は、物事を極めるために修行した人のものであり、その生き様は、雪舟そのものである。


 曽我簫白「葡萄図」




 曾我簫白 そがしょうはく (1730-1781)

 京都(?)の商家に、享保15年(1730)に生まれた。二十代後半から曽我派(室町における有力な漢画)にちなんで、曾我名を名乗り、「蛇足十世孫」ともいった。当時京都では、狩野永納らの京狩野を中心とした、一風変わった画家、山口雪渓、高田敬輔らが、活躍していた。簫白はこれらの画家の影響を受けた。簫白は30歳そこそこでスケールの大きな個性表現に達した。


 曽我簫白に関して二つの面白い話がある。
1.「画を望むなら私の所に来なさい。単なる絵図を求めるなら円山応挙が良いでしょう。」(曽我漂白)
2.「曽我簫白は画体卑しく、若沖は未熟の所があり、応挙は甘美で骨がない。簫白は才能のまかせて邪道に陥っている。」(幕末の文人画家 中村竹洞)

 曽我簫白の絵画と円山応挙の絵画とを比較するとでは、応挙「朝顔狗子図杉戸」に見られるぬり絵的絵画と簫白の漫画的絵画とでは、同程度の力量である。また、簫白の作品は中村竹洞が言うとおり、「画体卑しく」であり、長い間あまり良い評価が得られなかった。また、簫白の作品を蕪村および池大雅等の作品と比較すると、簫白は劣ることが分かる。

 しかし、簫白の作品のなかには、本当に素晴らしいものがある。簫白の自信に満ちた発言「画を望むなら私の所に来なさい。単なる絵図を求めるなら円山応挙が良いでしょう」が分かる作品がある。

1.「石橋」:簫白の最高作品であり、また世界に通用する素晴らし作品である。「石橋」の内容は中国の話に基づくものだが、作品はシュルレアリスムそのものである。シュルレアリスムは、ブルトンにより1924年に「シュルレアリスム宣言」より始まったものである。それより約2世紀前に「石橋」が作られたことは、簫白が何事にも束縛されない自由な精神の持ち主であったからである。自由奔放に生きたから、感じたことをそのまま描けたのである。「感じたことをそのまま描けた」、それは、彼の絵を描くときの心が、「夢の世界」か、「無意識の世界」か、あるいは「意識と無意識の境の世界」にあるからである。シュルレアリスムの作品は、人を不安にするようなものが多いなか、「石橋」の作風は天真爛漫なものである。シュルレアリズムの絵画を描いた画家の中では、簫白はトップクラスの人である。
 しかし別の見方をすると、絵も落款も漫画である。
2.「葡萄図」:簫白の渾身の作品である。この「葡萄図」の特色は二つある。一つは、筆裁きの凄さである。そして二つ目は、「石橋」と同様、伝統的な日本画の枠より完全にはみ出ていることである。それは構図の取り方と遠近の出し方である。この時代においては、大胆すぎる構図であり、現代にも通用するものである。「石橋」に見られる遠近法(透視図法)を用いたたものではないが、巧みな陰影を用いてまるで西洋絵画のようである。それは、洋画風の技法を伝えた平賀源内(1726-1779)、また覗機械(のぞきからくり)用の眼鏡絵制作を通じて、西洋画の空間再現を作成していた円山応挙(1733-95)とほぼ同じ時代に生きた簫白も西洋画の影響を受けていたからである。また、「画と落款は一体」ということは絵画の基本的原則ですが、この画と落款はともに伝統的日本画の描き方より外れているが、完全に一体である。この落款はなかなか書けるものではない。また見方を変えると、絵も落款も現代ポップアートそのものである。
 この落款を円山応挙のものと比較してみる。
 円山応挙は、毎日、毎日繰り返し落款の練習を重ねた人である。繰り返し練習を重ねると誰でもそれに比例して上手になる。しかし、応挙の落款には豊かな芸術性というものではない。
 この「葡萄図」の落款は、遊び心に満ちているが完全に画とバランスがとれている。
 また、この絵も愚庵「葡萄図」と比較すると、繊細さに欠け、簫白の特徴の「気品のなさ」が感じられ、中村竹洞の「曽我簫白は画体卑しく・・・」の評論のとおりであるが、誰がこのような完璧な絵画を描くことが出来るのか。
 この絵画と比較すると、応挙の絵はまるで子供の塗り絵である。
 
 この「葡萄図」についてさらに述べる。
 1.この絵画は、前所有者が戦前に所有していたものである。戦前の日本ではこのようなグラフィックアート様絵画は尾形光琳及び京狩野派等の一部画家の作品を除いては存在しない。しかし、彼らのものとは異なる。
 2.この絵画は、愚庵「葡萄図」と比較すると、繊細さに欠ける。日本絵画の最高作品の一つである愚庵「葡萄図」と比較すると簫白の特徴の「画体卑しく(気品のなさ」が感じられる。しかし、遠近感では愚庵「葡萄図」より明らかに上である。これは、先に述べたとおり西洋画の影響を受けたからである。そして、墨一つで非常に重厚な絵画となっている。この絵画に繊細さに欠けると言ったが、これは好みの問題である。音楽にたとえれば、愚庵「葡萄図」はバッハのブランデンブルグ協奏曲第5番のチェンバロ独奏の部分であり、この「葡萄図」は、ベートーベンの交響曲第5番「田園」のようなものである。これは、名曲「田園」は繊細さと言う点ではブランデンブルグ協奏曲第5番のチェンバロ独奏の部分と比較して多少少ないと言っていることと同じである。
 3.この作品は「簫白の渾身の作品」と言ったが、これは「雪山童子図」(三重県継松寺蔵)と比較すると分かる。「雪山童子図」に描かれている葡萄の葉は、この「葡萄図」に描かれているものと比較すると二回りも劣ることからも分かる。また、落款を「石橋」および「雪山童子図」と比較すると、「石橋」および「雪山童子図」のものはバランスがとれていないが、この「葡萄図」は完全にバランスがとれている。また、「葡萄図」の落款の一字一字がグラフィックアート的ではあるが、非常にバランスがとれ、また「字」を楽しんでいる。ただし、質は書家の次元ではなく画家としての次元であるが。

 曽我簫白「石橋」(バークコレクション)

   

 作品解説:絵も書も、漫画のようである。

 応挙「朝顔狗子図杉戸」(京都国立博物館蔵)

    

 作品解説:塗り絵的な絵画である。

 愚庵「葡萄図」(バークコレクション)



 作品解説:繊細な感覚で描かれている。 

 曽我簫白「雪山童子図」(三重県松坂市継松寺蔵)



 作品解説:葡萄の葉は、曾我簫白「葡萄図」と比べ質の劣るものである。

 錦峯(きんぽう)「猿」

 

 森狙仙「猿」



 玩具で遊んでいる猿が描かれている。落款・印象には錦峯とある。錦峯とは大学頭林信敬(だいがくのかみはやしのぶたか)(  -1793)である。江戸時代、徳川幕府の学制担当ともいうべき役職が大学頭(だいがくのかみ)である。林信敬は、寛政異学の禁(1790:建議(柴野栗山))を発令した。この作品は、動物画で有名な森狙仙 (1747–1821)の作品に引けをとっていない。


 目垢

 日本経済のバブル期の1990年に、クリスティーズのニューヨーク・オフィスが主催したオークションで、ゴッホの作品「ガシェ医師の肖像」が日本人に落札された。その落札価額は、8250万ドル(約124億円)という史上最高のものであった。
 その落札者は、当時日本の製紙会社で第2位の規模であった大昭和製紙の名誉会長斉藤了英氏で、1990年版高額納税者番付全国第1位の高額所得者である。
 また、彼はルノワールの「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」を約119億円で購入、ゴッホの「アイリス」を83億円で購入した。
 その後、大昭和製紙もバブル崩壊に巻き込まれ、業績は急に悪化し、絵画はすべて金融機関に担保として押さえられた。
 彼は、1996年脳梗塞のため死去した。その間、絵画は倉庫に入れられていたままで、展示は一度もされなかった。これは、衆人の目に晒され、目垢がつくことを嫌い、一度観ただけで倉庫に保管したのである。
 彼は、所有している絵画について「自分が死んだ時には絵を棺に入れて燃やしてくれ」と発言し、世界中のメディアや美術愛好家達から顰蹙を買った。

 日本には、高級美術品に関して、秘蔵するという楽しみ方があった。人目に晒されることは目垢がつくと言い、嫌った。目垢のついていないものだけが最高級美術品なのである。高価な美術品は所有者が秘蔵し、当人だけが密かに楽しむという考え方もあった。


 終わりに

 晩年の雪舟は悟りを得た寿老人を描いた。この「馬上寿老人」にはなんの力みもなければ、また大作というものではない。ただ楽しんで描いたようなものである。雪舟の絵画を「剛」と「柔」に分けるなら、雪舟の「柔」での最高の絵画である。
 しかし、「馬上寿老人」は、雪舟のものと断言することは出来ない。しかし、作品の質は雪舟作品の多くを超えていることは確かである。
 また、禅僧雪舟の作品には「禅の精神」が描かれているものはない。雪舟でないとしたら、禅の精神である「悟り」を一枚の絵画に描いたのは誰なのか。この作者は、「悟り」を一枚の絵画で表現した人であることは確かである。それも、中国の悟りである「段階的な悟り(漸悟)」である。

 また、「画を望むなら私の所に来なさい。単なる絵図を求めるなら円山応挙が良いでしょう」と簫白は言ったが、それを言えるだけの実力を示したのが、この「葡萄図」とも言える。最高のグラフィックアートであることには間違いない。
 そして、歴史的人物である大学頭林信敬が描いた「猿」は、歴史的な絵画と言ってよいものである。


 参考文献

 「雪村の山水画 特に雪舟との関連から(赤沢英二)」(「在外日本の至宝3 水墨画」(毎日新聞社))




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