長谷川利行 酒におぼれて

 はじめに

 当美術館「屋根裏部屋の美術館」が所蔵する長谷川利行「女」(東京美術倶楽部鑑定証書付き)を紹介する。
 この時代、フォービズムが開花されたときである。1930年協会は”西洋画の模倣、追隋を脱して自分たちの手による油彩画の創造を”が方針であった。
 そうすると、模倣でないものはその画家の個性が強烈に表れるものが出てくるはずである。
 長谷川利行の作品は、誰の模倣でもない強烈な個性を帯びているものである。
 この作品「女」は、作者のサインがないが東京美術倶楽部の鑑定書を取れたものであり、作者の強烈な個性が表れているものである。


 長谷川利行

 日本のゴッホ、ドブ板の画家と言われた異端の画家。
 簡易宿泊所などを転々としながら東京の下町を描き続け、困窮と孤独のうちに死んでいった無頼の画家。
 貧しかったが酒好きで、夜な夜な酒場に現れては、マッチ箱に絵を描いて客に売りつけ、酒代を工面した。そのため、段ボールの切れ端などに描いた小さな絵も数多く残っている。
 彼の日常は、窮民街にある簡易宿泊所に寝泊まりし、酒場やカフェ、演芸場に立ち寄って描き、作品はすぐに換金して酒を飲むといった状態であった。そのような中で彼は下町の情景やそこで生活する人々の姿を、奔放ななかに詩情をたたえる作風で表現し続け、しだいに純化された世界をつくりあげていった。やがて健康を害し東京市養育院に収容された年の10月に亡くなった。

 「生きることは絵を描くことに値するか」(長谷川利行)



(20歳代半ば頃/「長谷川利行年譜」東俊郎編)


 長谷川利行の性格

 「長谷川君は全くの高踏派で、俗人はハナも引つかけないと云ふ風で、当時若山牧水ばりの短歌をつくつてる(い)た小生ぐらいが、辛うじて話してもらえる位でした」(薗悌次郎「思ひの記」/)

 利行との交流があった画家田中陽は次のようなことを語っている。(画家田中陽/「アウトローと呼ばれた画家 評伝長谷川利行」吉田和正著、小学館)

 「(略)そのアトリエをぼくらは研究所といっていた。長谷川利行を中心にして、ほんとうにまじめな絵も研究していたのである。ところで長谷川も例にもれず、金がなくなって木賃宿を引き揚げて研究所の住人になったのだ。彼は誰にも好かれた。いわば人生の苦しみを超えた、気楽につきあえる神様のような存在だった。もし悩みのある者は黙って彼に対座しているだけで結構救われた気になるのであった。これは長谷川の押しも押されもせぬ徳だった。変な言い方であるが、いい作品には必ず衆生済度の要素があるものだ。主義だとか流派とかいう表看板にわざわいされぬ芸術の本質が、そのまま長谷川の身体からにじみ出てくるような、そんな印象を彼は会う人々に与えるのだった。(略)」
 「利行の本質は繊細で少し気弱、シャイなのである。」


 作品「女」(東京美術倶楽部鑑定証書付き、artmaxstage取扱、屋根裏部屋の美術館蔵)

 出品者による作品紹介

 長谷川利行先生は、1891年(明治24年)京都府に生れました。和歌山県湯浅町の耐久学舎に学び、同人誌を発行して詩歌や小説などを発表しました。 1919年には歌集「木葦集」を自費出版し、1921年に上京すると絵を描き始め、1923年の新光洋画会で入選を果たしました。1924年に京都に戻り画業に専念しましたが、二科展や帝展に出品するも落選が続き、1926年に再び上京し絵画制作に精進したところ、帝展と二科展で入選となりました。その後は徐々に評価が高まり、1927年の二科展で樗牛賞、1928年には1930年協会展で奨励賞を受賞しました。'31年から浅草・山谷の木賃宿などに住み、浅草や千住あたりを放浪し、泥酔徘徊する生活の中で、激烈な作品を描きながら二科展などに発表を続け、1933年には浅草6区に集まる芸能人、画家、詩人の集団「超々会」に参加しました。1937年の出品を最後に二科会を去り、1938年には一水会に出品しましたが、1939年に三河島駅付近の路上で行き倒れとなり、翌年、板橋養育院にて胃ガンのため49年の生涯を閉じました。没後は、多くの遺作展や回顧展が開催され、作品集が刊行されるなど、その人気が衰えることはありません。作品は、東京国立近代美術館、京都国立近代美術館、和歌山県立近代美術館、愛知県美術館など、各地の美術館に所蔵されています。作品コンディションですが、放浪中に描かれた貴重な作品と思われますので、紙のオレ、シミ等ありますが、オリジナルの現象とご理解ください。長谷川利行の作品では多く見られる現象です。

 作品解説

 この作品には、サインがない。また、この作品のオークション出品が平成23年1月14日であり、また、東京美術倶楽部の鑑定証書に記載されている発行日付は平成22年6月25日である。
 これは、画家が用いる特殊な色彩とデッサンがあるため、サインがないにもかかわらず鑑定を受け、鑑定証書が取れたものである。

 なお、artmaxstageの出品作品を見ると、良いコレクターということが分かる。また、この作品は別のコレクターのものがオークションにたくさん出されたうちの一つを購入したとのことである。
  
 作品中央には、折り曲げられ保存された跡がある。
 作品は、非常に短時間で描かれたものである。酒代のために描いたものは、このようにシンプルなものが多い。しかし、良いものに仕上がっている。
 左には、家が描かれているのだろうか。人物は、椅子に腰掛けている。この人物は天使のようである。
 この作品を見ていると、ポール・クレーの「忘れっぽい天使」が思い浮かぶ。


 「キヤツフヱを讃う」

 作品「女」に描かれた女性が着ているものは、白いエプロンなのだろか。長谷川利行の詩に「キヤツフヱを讃う」(「長谷川利行全文集」長谷川利行著、矢野文夫編、五月書房)というものがある。そこには、「エプロンの白さ」について書かれている。

 オリエンタルの女給

オリエンタルの女給美くし
青年の夢に対する
アダバナだ――

 三橋亭のウエトレス

三橋亭のウエトレスは
蛇にみえない伸びやかさだ


 エプロンの白さ

彼女の感情のブルモサだ
なんと云ふ感情のよさだ
間違つたら御免なさい

 ブルモサの意味が分からないが、白いエプロンの人に良い感情を抱いているようだ。


 作品「カフェパウリスタ」(1928年、1930年協会展覧会受賞作品、東京国立近代美術館蔵)



 幻の油彩画「カフェ・パウリスタ」(昭和3年)が、東京都台東区の谷中霊園近くの個人宅から発見された。かつて下宿屋を営んでおり、泊まっていた利行が家賃代わりに置いていったという。
 なお、「カフェパウリスタ」は大正10年に銀座に生まれた喫茶店である。


 1930年協会

 大正15年(1926年) フランスに留学し、近代絵画の精神を体得し、在仏中に友情を結んだ木下孝則、小島善太郎、前田寛治、里見勝蔵、佐伯祐三の5名により組織された。”西洋画の模倣、追隋を脱して自分たちの手による油彩画の創造を”―――が合言葉だった。第一回展を京橋区(現在の中央区)の日米信託ビル階上に開き、滞欧作180点を陳列した。会の名のいわれは来るべき1930年を意義あらしめん、という気持ちとコロー、ミレー、ドーミエ等を1830年派として、彼らの純真質朴を慕う気持ちとから、付けられた。外光派風の写実主義に反対し、フォーヴィズムを基調とした。昭和5年(1930)独立美術協会創立に伴い大部分の会員が同会に加わり、解散された。


 作品「靉光像」(1928年)



 「その晩は靉光の下宿に泊まり、翌日、昼前に起きた利行はしばらくボーッとしていたが、突然、目をギラギラさせて靉光を凝視し、部屋にあった靉光の消し残りのある古キャンバスを立て、絵具もパレットも鉛筆も靉光のものを使って一気に描きあげた。ものの三十分ほどだった。利行の顔から荒々しさが消え羅漢のようになった。よれよれのシャツに黒のチョッキを着た靉光の顔や首筋、背景に三原色を強調させ、利行は仕上がりによほど満足したのか、『この絵は靉光氏に献呈しよう』と笑って言い井上には『今度ルバシカをあげよう』と約束した。」(「アウトローと呼ばれた画家 評伝長谷川利行」吉田和正著、小学館)


 作品「裸婦」(個人蔵)





 履歴

1891年 京都府に生まれる。
      和歌山県湯浅町の耐久学舎に学ぶ。
1919年 歌集「木葦集」自費出版。
1921年 和歌山県耐久中学校を中退して上京。
1923年 『田端変電所』で新光洋画会入選。
1924年 京都に戻り画業に専念。
      二科展や帝展に出品するが落選が続く。
1926年 再上京。
      『廃道』で帝展入選。
      『田端電信所』で二科展入選。
1927年 二科展樗牛賞受賞。
1928年 1930年協会展で奨励賞受賞
1931年 この頃より浅草山谷の木賃宿などに住む。
1933年 「超々会」に参加。
1936-37年 新宿の天城画廊で集中的に作品を発表。
1937年 二科会退会。
1938年 一水会展出品。
1939年 胃癌の兆候漸く顕著になる。
1940年 胃癌の末期にて誰ひとり看取る者なく逝く。享年49歳。
2009年 一九三〇年協会展に出展していたうちの一つの絵画、「カフェ・パウリスタ」が発見され、開運!なんでも鑑定団で紹介された。鑑定額は1800万円。


 主な収蔵美術館

東京国立近代美術館
京都国立近代美術館
茨城県近代美術館
群馬県立近代美術館
福島県立美術館
神奈川県立近代美術館
和歌山県立近代美術館
新潟県立近代美術館
愛知県美術館
北九州市立美術館
名古屋市美術館
府中市美術館
玉川近代美術館
石橋美術館



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