屋根裏部屋の美術館

林武 嘘?

 はじめに

 当美術館「屋根裏部屋の美術館」が所蔵する林武「気仙沼湾風景」、「東京郊外」および「青と赤の背景の裸婦」を紹介する。

 はじめにヤフーインターネットオークションで林武「気仙沼湾風景」(昭和40年4月)を入手した。この作品は作品「十和田湖」と同じような描き方であるが、あまりにも質が悪い作品である。
 この絵画は、木、海および島の境界線がはっきりしていて、色彩は濃淡のない単調なものである。絵の具のダマが至る所に見られる。また、描き直しそこないの汚い箇所もある。これはまるで素人がペンキで描いた絵のようである。当然贋作と考えた。贋作を作るにしても、もう少しましなものが出来ないのかともいえる作品である。

 出品者(古物美術商物故堂)とはこれまでの付き合いより、その作品紹介は信頼できるものと考えている。この作品について調べるため、「東京郊外」(「武の会」鑑定証書付き)を入手し比較検討等を行い、また、林武に関する資料も集め調べた。

 「美に生きる 私の体験的絵画論」(林武 講談社)を読み、彼は精神疾患を抱えていたのではないかと考えていたところ、ヤフーインターネットオークションで何ともいえない作品「青と赤の背景の裸婦」(仮題)が出品され、入手した。何ともいえない?・・・しかし、すごい作品である。この作品もペンキ絵風にも見えるものである。

 そして、作品「気仙沼湾風景」および作品「青と赤の背景の裸婦」に見られる色調の基は、彼の精神的な問題よりきたものと考えた。そのようにして画集等にある彼の作品を見ると、その多くは、異常な色彩を感じ取れた。


 林武 はやしたけし (1896〜1975)

 「僕は絵を描く以外に、なんにもできない。趣味と呼ぶようなものは、一つもない。やがて七十年に近い生涯において、ついに僕には絵を描く以外になにかする余裕はなかった。」(林武)

 近代洋画界を代表する重鎮。文化勲章受賞作家。父は国学者。日本美術学校でデッサンなどを学ぶが中退。二科展、1930年協会展などへの出品を経て独立美術協会を創立。以後同会で活躍した。ドランやマチスの影響を受け、フォーヴィスムを基調としながら独特の構図を創造し、強い印象を与える色彩を大胆に使いこなした作品を多く制作した。その重厚な筆触で具象絵画を描いた作品の数々は、日本を代表する作品として今なお高い支持を得ている。

 


 作品「気仙沼湾風景」(1965年、古物美術商物故堂取扱、屋根裏部屋の美術館蔵)

 

 出品者(古物美術商物故堂)による作品紹介

 本作品は東京渋谷松涛の旧家の秘贓品で初出し。全くの初品です。今回、親類の叔母の紹介で初めて蔵整理をさせて頂きました。非常に興味深い作品が出ております。今回出品しますのは林武の油彩画で晩年の作品です。裏の年期によりますと、鉛筆書きで昭和40年4月・気仙沼湾風景・林武と有ります。色彩及び筆全て林の絵ですが、問題は真筆かどうかです。私は完全と判断して居りますが、わざわざ東京美術倶楽部に鑑定を回す事は止めました。理由はこの絵を死なせたくないからです。出所来歴から考えても間違いが無いが、その様な作品でも今までには何点も殺されている事実がある。以上が鑑定に回さない理由です。一応形は出品依頼ですが事実上、任されている立場ですので売りきりです。物故堂の出品作品は全て売り切りが原則。この絵を自分の目で見て判断して気に入った方のご入札をお待ちしております。少なくとも私は完璧に真筆と判断しております。無論、真贋の保証(鑑定書が取得できる事)は一切保証しませんが、後は私の意見を参考にされ、慎重にご入札ください。絵は素晴らしいです。サイズは3号で支持体はボード。額は元額で立派な手彫りです。絵の状態は非常に良く大切にされていた事が良く分かります。無論、経年の傷みは有るかも知れませんが、現状蔵出しですのでご理解ください。

 作品解説

 この作品「気仙沼湾風景」(昭和40年4月)は「十和田湖」の絵画を簡素化したようなものである。そしてこの絵の木々の幹は「十和田湖」と同様に異様に描かれている。また、この絵はまるでペンキ絵のようである。さらに、林武の作品「十和田湖」(1953年)に描かれている木々の幹はまるでミミズのようである。東京芸術大学教授である林武先生が描いたので、誰も異様とは言わなかったのだろうか。
 
 作品「十和田期」(1953年制作、国立公園協会蔵)
 



 作品「東京郊外」(1920年、「武の会」鑑定証書付き、美術商(株)オークランド取扱、屋根裏部屋の美術館蔵)



 出品者による作品紹介

 歯科医や文士を志した後、画家を目指した林武は、24歳になって日本美術学校へ入学しましたが、わずか一年で退学を決意しました。描くことを一度捨てることで得たものは、それまで抱いたことのなかった、絵画表現に対する自然の欲求であり、以降は描くことだけに邁進しました。そのように苦悶していた時代、正に創作の出発点となった1920年(大正9年)に制作されたこの作品は、繊細にして力強さのある画風に、後の栄達を偲ぶことが出来ます。この当時、東京府松沢村(現在の松原から上北沢の辺り)に、小さなアトリエを構えた画伯は、岸田劉生やセザンヌに傾倒していました。その周辺を描いたと推察されるこの作品は、畑の向こう側に閑散とした家屋が連なる、当時の東京郊外の風景がありのままに写し取られています。(この年の松沢村の人口は3,000人弱) 部分的に重厚感のある絵肌と、軽妙な描線を使い分けた筆致は、対象を簡略化して捉えているにも関わらず、長閑な寒村の雰囲気を的確に表現しています。青年期に描かれたこの絵には、画伯が傾倒した巨匠画家たちの影響が感じられ、フォービズムを基調とした円熟期とは全く異なる魅力があります。そして、時間の経過と共に古色を帯びた色彩は、一段とその味わいを深め、鑑賞者の心の奥底に優しく溶け込んでいきます。この年代の林武の油彩画が市場に出てくることは非常に珍しく、洋画ファンの方にとって大変希少なコレクションになるに違いありません。日本洋画史を語る上でも貴重な逸品ですので、この機会をお見逃しないようご注目下さい。

 作品解説

 林武「東京郊外」(「武の会」保証証書付き)は1920年に制作されたものである。
 1920年、この年の林武の心情が「美に生きる 私の体験的絵画論」(林武 講談社)に記載されている。

 それは一種の解脱というものであった。絵に対するあのすごい執着を見事にふり落としたのだ。僕には、若さのもつ理想と野心があった。自負と妻に対する責任から、どうしても絵描きにならなければならなかった。だからほんとうに絵というものをめざして、どろんこになっていた。そのような執着から離れたのであった。

 外界に不思議な変化が起こった。外界のすべてがひじょうに素直になったのである。そこに立つ木が、真の生きた木に見えてきたのである。ありのままの実在の木として見えてきた。
 僕のそれまでは、道一つ見ても、絵描きになりたいと執着した人間の目でしか見ていなかった。また、まがいなりにも一年間学校に通って、ものを明暗で見ることを学んだ。だから、ものは明暗で見えた。空の雲は、ひじょうに不思議な形をして飛んでいる。それは哲学的でもあり、詩的であった。しかしそれすらも、明暗で見るなら、ただ団子のように陰影で描くだけのことになる。だからおもしろくない。あのおもしろい雲を、雲そのものでなく、明暗によって描くということはくだらなく思えた。
 学校で教えた樹木もまた明暗であった。そして塊であった。それは現象であって、本質ではなかった。本質とは、学校ではおそらく教えることのできないものであろう。本質は、僕たちが自分で力をつくしてつかまねばならない。それは教科書にも書いてはない。
 僕は率直になって、そのものを見ることにより、明暗を超え、現象を超えて、そこのはほんとうの木が生えているのを見、ほんとうに飛ぶ雲を見た。
 絵を捨てて、もう村役場の書記でもいい、という気持ちになったとき、そこには、ほんとうの木が生え、ほんとうの空があった。それは、全く無限に深い空であった。

 同時に、地上いっさいのものが、実在のすぺてが、賛嘆と畏怖をともなって僕に語りかけた。きのうにかわるこの自然の姿それは天国のような真の美しさとともに、不思議な悪魔のような生命力をみなぎらせて迫る。僕は思わず目を閉じた。それはあらそうことのできない自然の壮美であり、恐ろしさであった。

 以上が、この絵が描かれた当時における、林武の心情である。


 「美に生きる 私の体験的絵画論」には、林武の特殊な体験も記載されていた。

 林武の光体験

 林武の父甕臣は代々続いた国語学者の家に生まれ、華族女学校で国語国文学を講じていた。研究に熱中して家庭を全く顧みなかったため、家は赤貧洗うがごとしという状態だったらしい。そのため、五男の末子だった林武は、子供の頃から兄たちと牛乳配達をしていた。凍傷で崩れた手足の痛みに耐えながら、雪の日も牛乳を積んだ重い荷車を引いたのである。ある朝、泣きながら車を引いているときに、彼は不思議な霊感に襲われる。

 そのときである。不意に、僕のひたいのあたりがぱっと光り輝いた。それは何か遠くの高いところで輝いている感じであった。それは神秘の光明だった。あれは、一種の霊感のようなものであったろうか。そのとたんに、僕は、全身から力がわくのを感じた。

 ……僕は自分が年もいかない子供であることも考えず、一家を支えるために、家族みんなのために、自分が先に立ってやらなけれぱならないと思い、倒れそうなからだで根かぎりやった。そして、あのつらい雪のなかで天の啓示のように光り輝くものを見た。それはなにであったかはわからない。僕はそれをだれにも語らなかった。けれどもこのとき感じた不思誕な輝きは、その後、苦境に立ったびによみがえって僕を元気づけた。


 その光体験については、「生きがいについて」(神谷美恵子 みすず書房)にも記載されている。

 神谷美恵子の光体験

 神谷美枝子は、キリスト者であり、ハンセン病医、精神科医そして文学者である。
 前田多門・房子の第二子(長女)として、岡山市で誕生。父・前田多門は終戦直後東久邇宮内閣文部大臣をつ とめた。小中学校時代をジュネーブで過ごす。

 1935年津田英学塾卒、コロンビア大学に留学。1944年東京女子医専卒 東京大学医学部精神科。 大阪大学医学部精神科勤務をへて、1960年神戸女学院大学教授。1958-72年長島愛生園精神科勤務。1963-76年津田塾大学教授。医学博士。

 「何日も何日も悲しみと絶望にうちひしがれ、前途はどこまで行っても真暗な袋小路としかみえず、発狂か自殺か、この二つしか私の行きつく道はないと思いつづけていたときでした。突然、ひとりうなだれている私の視野を、ななめ右上がらさっといなずまのようなまぶしい光が横切りました。と同時に私の心は、根底から烈しいよろこびにつきあげられ、自分でもふしぎな凱歌のことばを口走っているのでした。「いったい何が、だれが、私にこんなことを言わせるのだろう」という疑問が、すぐそのあとがら頭に浮かびました。それほどこの出来事は自分にも唐突で、わけのわからないことでした。ただたしかなのは、その時はじめて私は長かった悩みの泥沼の中から、しゃんと頭をあげる力と希望を得たのでした。それが次第に新しい生へと立ち直って行く出発点となったのでした。」

 「発狂するか自殺か」。
 私は、光体験は発狂に類似した現象と考える。この光体験は神経伝達物質の伝達系等の異常から起きたものである。神経伝達物質の一時的な異常放出である。この神経伝達物質の伝達系での異常は、精神疾患と非常に関連がある。

 林武は幼少期に非常に問題のある家庭で過ごしている。
 神谷美枝子は、幼少期、非常に寂しい時を過ごした。また、死に至る病、結核を患っていた。若い日に恋人(もっとも交際したわけでもなく、恋人同志として会ったこともない)を亡くし、その死に痛手を受け、その影を何十年も引きずった。神谷はその経験によって生きがいを喪失した。

 光体験は、これらのストレスの積み重ねがあったから起きる。


 林武の幻聴及び幻覚

 林武について調べていくうちに次のようなことが分かった。

1.「美に生きる 私の体験的絵画論」には、林武が数々の不思議な体験を経験したことが記載されている。光体験以外に絶えず呼びかける声を聞いている。
 「峠を越えて、室蘭へ急いだ。急ぎながら、僕は絶えず呼びかける声を聞いた。『おまえは絵描きになれ。』」
 これは、統合失調症にみられる幻聴である。
2.子供時代の家庭環境は、あまりよいものではなかった。
3.林武の絵画で理解出来ない絵画がある。それは、***に描かれている一筋の赤い線である。青いペンキのような色彩に太い一筋の赤い線は、色彩感覚に問題があるものだ。フォービスムという絵画でも、一本の線にも理由がある。この赤い線ははたして夕日に照らされた雲なのだろうか。確かにフォービズムと言ってもよい大胆な色彩対比の絵画であるが。

 さらに調べると『美と教養・心の対話』(昭和43年9月、日本ソノサービスセンター)には、当時の癌研究所長、医学博士であった吉田富三氏との対話のなかで、林武は自信の精神について述べていた。

林:ゴッホは気違ひだったでせう。事實気違ひであり、同時に天才だ。僕の出發は、セザンヌやゴーガンが日本に輸入された時代です。それで岸田劉生が出て、僕は劉生の林檎の繪に涙を流した。そしてそれ以後、劉生が見てゐる林檎を僕も見ることができるやうになった。つまり、永遠の林檎を見たといふことで、一つの悟りです。これで僕は本當の繪描きになったといふ信念を得たんですが、その翌年から神經症になってしまった。ある日、繪を畫いてゐたら、ふっと見ると天に黒點が見えるんですよ。普通の人に見えない、をかしな、黒いしるしが見える。俺は気違ひになるんじゃないか、といふ恐れがしたんですよね。その前に僕の親戚に気違ひが出た。それで俺もいよいよ気違ひになるぞと、なにか怖ろしくてね。ゴッホのやうな気違ひになっては悲惨だ。あんな悲惨な繪描きになりたくないなと、日頃思ってゐたんでせうね。その後、展覽會を見に行った歸り、電車に乗った。さうしたら、電車の客が全部僕を見てゐるやうな気がするんです。いよいよ気違ひになったと思って、あはてて電車をとび降りたんですよ。町の騒音が全部僕に集まってくるんです。怖くて、怖くて眞青になった。虎の門に神經科の醫者があったのでとび込んで、かういふ状態だと言ったんですよ。僕がタバコを吸はうとすると、醫者がマッチをつけてくれた。その光が普通の十倍か二十倍に感ずるんですよ。その醫者は診斷をしなかった。家へ歸ったら、女房もゐない。壁から、馬の嘶くやうな聲が聞えてくるんだ。いよいよ気違ひだと思った。
吉田:お幾つ位のときですか。
林:二十六位です。表へ出ると大聲をあげたくなる。なんとか言ひたくなる。それから高い所へ登ると必ず飛び降りたくなる。それから、その翌日、青山脳病院へ行ったら齋藤茂吉さんが出てきて、藝術家にはよくあることだといって、気違ひの患者と一緒に、赤い電気の下に僕を坐らせるぢゃないの。あの人は歌人だけれども精神病の醫者としては、少しどうかなあ――。それから根岸病院へ行った。さうしたら、十萬円取られた。その言種(いいぐさ)がいい。神經衰弱の患者は卑怯だっていふんです。なおったらもう金は取れないのだ。俺は直ぐなおすから先に取るって――。
吉田:確かに今のお話は精神病の状態ですね。状態としては。しかし完全な精神病にはなってゐないといふのは、俺は気違ひになるんぢゃないかとか、怖いとか、いはば自分で自分を見る理性が殘ってゐる。しかし全體の状態は危險な状態だったやうですね。一歩手前といひませうか。それとも神經が疲れ果てたといふ状態の異常――つまり健康な枠の中の異常であって、病気ではないといふのかな。藝術家など神經の鋭敏な人は、その鋭い神經を酷使するから、疲れ果てる。それに鋭敏といふことは一面脆いといふことだから、疲勞からそのまま向ふ側へ移ってしまって、本物となるかも知れない。危いなあ。

1.「親戚に気違いが出た」
  →統合失調症は遺伝が重要な要因である。
2.「ある日、繪を畫いてゐたら、ふっと見ると天に黒點が見えるんですよ。普通の人に見えない、をかしな、黒いしるしが見える」
  →統合失調症に特有な幻視である。
3.「壁から、馬の嘶くやうな聲が聞えてくる」
  →統合失調症に特有な幻聴である。


 以前は、統合失調症は「人格崩壊」を目安にしていたが、現在は統合失調症と人格崩壊は別に扱われている。幻覚および幻聴は統合失調症の重要な症状である。そして、統合失調症は治りにくいものである
 以前の分類では、統合失調症と双極性障害(躁鬱病)を二大精神病として取り扱われていた。また、双極性障害(躁鬱病)と性格(特質)について関連があり、また、統合失調症にも独特の性格(特質)がある。
 

 林武の性格(特質)
 
 林武の性格(特質)を現したものがある。
@ 「・・・・・父は絵一筋の人でしたから、いわゆる家庭の父親のイメージとは少し違っていました。ときたま、父と二人きりで食事をすることがあっても、父の話することは難解な宇宙論や抽象論ばかり。現実的な話はほとんどしませんでした。もちろん私にはさっぱりわかりませんでした。『おやじさんは芸術家なんだから』と、小さいころから父の言動をそうやって解釈してきました。何か別世界の人といった感じでした。・・・・・」(「主婦の友」昭和50年8月号“画壇の巨星林武氏逝く”「父を振り返る」林滋)
A 「林先生はスケッチブックに四角に三角を乗せた家のようなものを描いて、閑先生にいろいろ説明をしておられたが、さっぱりわからなかった。閑先生は時々私を見て「わかるか?」というような眼つきをした。林先生には独特の哲学的な理論があるのだそうで、それは絵描きの中でもかなり知られているとか。・・・」(「朝井閑右衛門 思い出すことなど」門倉芳枝著)

 統合失調症患者の性格(特質)というのは次のようなものがある。(「天才と分裂病の進化論」(ディヴィッド・ホロビン著、金子泰子訳 新潮社)より)
@ 社会的、感情的引きこもり
 孤独への要求の高まりが強い。感情的反応がなかったりする。
A 思考の解体
B 妄想・偏執
 何かに、あるいは誰かにコントロールされていると思う。
C 幻視・幻聴
D 宗教、哲学、信仰への強い興味
 宗教、哲学、信仰への興味がすべてを投げ出すほど極端になる。
E 敵意
 一部の妄想型統合失調症の患者には、激しい敵意を持つ場合がある。往々にして対象は家族に向かれれる。母親殺しの殺人者は統合失調症の患者に多い。

 林武は、感情的反応が乏しく、また、幻視・幻聴があった。そして林武の父親は、熱狂的な国学者だった。また林武自身も、「僕は絵を描く以外に、なんにもできない。趣味と呼ぶようなものは、一つもない。やがて七十年に近い生涯において、ついに僕には絵を描く以外になにかする余裕はなかった」と言っている。つまり、上記の宗教、哲学、信仰ではないが、絵画に対しての興味はすべてを投げ出すほど極端である。 


 作品「青と赤の背景の裸婦」(1924年、真贋不明、屋根裏部屋の美術館蔵)



 そして、ヤフーインターネットオークションで「青と赤の背景の裸婦」(大正13年)が出品されたのを見つた。
 絵画には林武のサインはない。多分最初の所有者が記載したと思われる「林武 大正13年」及び「林武先生 大正13年」等の記載がある。所有者は画家の名前を計3度書いている。消えかかっては書き加え、また消えかかっては書き加えている。
 この絵画の背景色「青と赤」の組み合わせは林武が好んで用いるものである。また、人物の描き方には後の各種婦人像と共通するデフォルメがある。この絵画の左側には、流れ落ちる血のような赤いものが描かれている。この絵画を描いた時の精神状態は普通ではないように思われる。この絵画は、まさに幻覚に近いものが描かれている。
 「青と赤の背景の裸婦」に見られる青い背景に赤い血。これと同じ色調が「気仙沼湾風景」および「十和田湖」に見られる。

 なお、フォービスム様式で描かれているが、1924年という年はフォービスムとしては非常に早い時期に該当する。
 この絵は、画家に起きた色彩感覚の異常とペンキ絵様式からのものと考える。


 嘘 ペンキ絵

 はじめに作品「気仙沼湾風景」をペンキ絵と言ったが、この作品は作品「東京郊外」と共通した特徴がある。それは絵の具のダマの割合である。また、「東京郊外」および「青と赤の背景の裸婦」は「気仙沼湾風景」ほどではないが、絵の具の塗り方がやや単調である。ペンキ絵のような作品と言ってもよいかもしれない。「気仙沼湾風景」は「東京郊外」と同一作者のものであり、また、「気仙沼湾風景」は「青と赤の背景の裸婦」と同一の作者である。つまり、「気仙沼湾風景」および「青と赤の背景の裸婦」は、林武の作品に間違いない。

 また、ペンキ絵で思い出したことがある。
「美に生きる 私の体験的絵画論」には、彼はペンキ絵を売っていたとある。55銭で仕入れたペンキ絵が時には3倍ぐらいで飛ぶように売れたとる。
 このペンキ絵は、すべて仕入れて売り歩いたのだろうか。彼は1枚もペンキ絵を描かなかったのだろうか。文中ではペンキ絵と油絵は違う記載となっている。しかし、彼は仕入れたペンキ絵を自分が画家として描いたように見せるため絵の具箱を肩に掛けていたのである。
 「日本が対独宣戦を布告(1914年8月)し、青島攻略戦(1914年10,11月)がはじまって、陸軍が行った教育招集のための身体検査で『おまえは右肩が下がっている。職業は?絵描き?よほど絵がうまいんだろう。』」とある。1914年はまだ絵をほとんど描いていないとなっている。この教育招集を1915年とすると、ペンキ絵を売り始めた時期の可能性がある。林武は、油絵を初めて描いた時は北海道でペンキ絵を売っていた時代で1918年と言っている。
 彼は、画家と偽ってペンキ絵を売っていた。つまり彼は、嘘をつきながら絵を売っていた。また、身体検査での話では、右肩が下がっている理由として、絵を描いているためと答えている。この時期、絵を描いていたならペンキ絵となる。

 彼は、ペンキ絵を描いたはずである。 
 そして、「気仙沼風景」および「青と赤の背景の裸婦」がペンキ絵に見えるのは私だけだろうか? 


 嘘 初めての妊娠

 「生誕百年記念 林武展」(毎日新聞社)には写真「大正10年(1921年)ころ、世田谷の松沢村時代、幹子夫人と」が掲載されている。林武の眉間には深いしわ、そして幹子夫人は大きな人形を抱いている。二十歳過ぎの女性が大きな人形を抱いているのである。 「青と赤の背景の裸婦」は、1924年の作品である。このころの林武はモデルを雇うほどのゆとりはなかったはずで、この絵のモデルは幹子夫人と考る。また、モデルの腹の形状、絵画の色彩から「流産」を暗示しているようにも思える。写真「大正10年ころ、世田谷の松沢村時代、幹子夫人と」の写真と関連があるはずだ。人形を抱く理由の説明がつく。
 「美に生きる 私の体験的絵画論」には、「結婚して二十年(別の箇所では、結婚二十一年目との記載)もたつ妻が初めて妊娠したことも不思議だった」という記載には嘘がある。
 



 天才画家の絵 林武「裸婦」(「武の会」保証証書付き、所有者不詳)


 作品解説

 この作品は、「武の会」の保証証書付きであるが、この配色は、どう見てもおかしなものである。ときには、天才画家は我々には理解できない作品を作る。


 原風景

 林武が初めて油絵を描いたのは1918年頃である。北海道西紋別より室蘭へ向かう途中、絶えず幻聴が現れた。そのさなか、初めての油絵を描いた。それが林武の原風景となった。(補足:原風景とは心象風景のなかで、原体験を想起させるイメージ。原体験とは人の思想形成に大きな影響を及ぼす幼少時の体験)

 「道は下り坂で日に照らされて白く光って遠くまで続いていた。左の方に赤黒い断崖が海につき出ていた。荒波が、白い牙をむき出して噛みついていた。僕は描きたい衝動にかられて絵の具箱をひろげ、生まれて初めて油絵というものを描いた。僕はなにもかも忘れて夢中で描いた。悠久な自然にとけ入ったような平安が、僕を支配した。それは真に、初めて知る絵を描くことのよろこびそのものであった。」
 「生まれて初めて描いた油絵は、もちろん、どこにどうなったかわからない。しかしときどき僕は、それをひどく見たいような気がする。」

 作品「気仙沼湾風景」(1965年)は、このとき見た風景が再現され、そして、当時の作品と比較し穏やかなものとなった。   


 終わりに

 林武は統合失調症を患っていたと考える。統合失調症は一時的なものではない。
 林武の絵画に見られる強烈な色彩の対比は、「美に生きる」に記載されている「相反する両性の結合を求めた強調」のためか。それとも、精神に異常を来したゴッホの絵画に見られるような感性より来たものなのか。
 彼は「青と赤」の色彩に異常に取り憑かれたと考える。その原点はこの「青と赤の背景の裸婦」であり、そしてその感覚は「十和田湖」(1958)、「気仙沼湾風景」と続いたと考える。
 しかし、彼がペンキ絵を描いたのは日本美術学校に入学する前である。私がペンキ絵のように感じられる作品「気仙沼湾風景」が描かれたのは57歳の時である。このペンキ絵も精神的問題に起因していると考える。


 履歴 (主として「美に生きる」より。年代の記載されていない箇所もあるため、前後1年程度のずれがある可能性がある。)

1896年 東京に生まれる。
1908年 余丁町小学校尋常科六年生の時、将来絵描きになることを志す。
1910年 牛込高等小学校二年生(14歳)の時、T子に初恋をする。
1913年 東京歯科医学校に入学するが、翌年には中退する。
1914年? 牛乳配達の途中でT子に会う。  
 約1年間心臓衰弱と胃潰瘍で病床につく。
1915年 新聞配達をしながら歯科医になるための勉強をするが、途中より文士になろうと考えた。
 「日本が対独宣戦を布告(1914年8月)し、青島攻略戦(1914年10,11月)がはじまって、陸軍が行った教育招集のための身体検査で『おまえは右肩が下がっている。職業は?絵描き?よほど絵がうまいんだろう。』」(1914年、1915年?)
 新聞配達の仲間より「裸体画」を褒められる。
 ペンキ絵を売り歩く。(〜18年)
1918年 北海道に行きペンキ絵を売る。
 妄想?:「僕はひどくがっかりした。兄は誘拐されて北海道へ渡ったのではないか、という疑いが真実に近いものになったことを知った。兄は誘拐されたと知り、逃げ出して殺されたのではないか−−−そんな悲しい運命が想像された。」
 西紋別より室蘭に向かう途中で、初めての油絵「赤黒い断崖と海」(仮題)を描く。
 幻聴が現れる。:「僕は絶えず呼びかける声を聞いた。『おまえは絵描きになれ。』」
 約1年間油絵を売り歩く。(〜19年)
1919年 絵を売って貯めたお金が三千円になる。
1920年 日本美術学校に入学したが、同年中退。
 特異な思考:「突然僕は、一種のひらめきを感じた。それは、一切のものは明暗の二つだ、ということであった。・・・・僕はある宇宙的な思考に達した。僕の画家としての精神の門出がそこにあった。」
 結婚する。
 幻視が現れる。:「いつも見なれていた杉林の樹幹が、大地を貫く大円柱となって僕に迫ってきた。それは畏怖を誘う実在の威厳であった。形容もしがたい宇宙の柱であった。僕は雷にうたれたように、ハアッと大地にひれ伏した。感動の涙が湯のようにあふれた。」
 作品「東京郊外」
1921年 二科展に「婦人像」が初入選。樗牛賞受賞。
1922年 第9回二科展において二科賞を受賞。
 幻視、幻聴が現れる。: 「二十台の後半に、僕は恐怖的な神経症に見舞われた。極度の不安と恐怖の発作、高いところに登れば飛び降りようとし、往来へ出ると大声で叫びたくなる−−−まるで、自分の脳組織がいまにも消滅し去るかのように思われた。僕は、西洋医学的な立場の有名な脳病院にかかったけれども直らなかった。」(注:統合失調症の自殺率は10%位である。)
解脱する。
1924年 作品「青と赤の背景の裸婦」(仮題)
1926年 1930年協会会員となり佐伯祐三・里見勝蔵らと合流。
1930年 二科会を脱退して独立美術協会創立に参画。
1934年 パリを拠点とし欧州各地を訪れる。(〜35年)
1938年 四十二歳か三歳のころ、幻聴が現れる。:「思いわずらうな。」というキリストのことばが聞こえた。
1949年 第1回毎日美術賞を受賞。
1952年 東京芸術大学教授に就任。(〜63年)
1953年 作品「十和田湖」
1959年 日本芸術院賞受賞
1965年 作品「気仙沼湾風景」
1967年 朝日文化賞受賞。文化勲章受章。
1975年 肝臓ガンのため死去する。(享年81歳)



 参考作品 モディリアーニ「アリスの肖像」


inserted by FC2 system