正宗得三郎 「生の充実」

 はじめに

 当美術館「屋根裏部屋の美術館」が所蔵する正宗得三郎「薔薇」(1953年)を紹介する。
 
 運動選手の実力は、遺伝、環境、トレーニングなどにより決まり、そして若い時にピークを迎える。
 これは、運動選手には筋力(持続性、瞬発性、柔軟性)、視力、反射神経などの年齢に関係がある要素があるからである。
 しかし、芸術家などのピークは運動選手のそれとは異なり、特に若い時にピークを迎えることはなく、年と共に技術は向上する。

 正宗得三郎は、比較的若いうちによい作品を作り出し、その実力は徐々にではあるが努力と共に高齢まで伸びていった。これが、画家の本来あるべき成長パターンである。
 ここで紹介する作品「薔薇」(1953年)は、正宗の晩年のもので、内に秘める力強さがある。これは、彼が唱えた「生の充実」というものである。そして、それは独自の画風を保ちながらも、近代日本画に独自の地位を築いた富岡鉄斎に影響を受けたのである。

 しかし、それは異様に力強い。
 

 正宗得三郎

 「正宗は、日本における色彩画家の重要な一人として評価されるべきでしょう。何故なら、明治43年若干27歳の正宗は、東京美術学校において、明治の天才洋画家青木繁を慕って坂本繁二郎や森田恒友らとグループをなした後、新聞誌上で正宗独自の絵画理論『色彩の音楽』を発表しているからです。自らの絵は自由な色彩で音楽のように奏でてみたい。この青春期の強い思いは、フランスの印象派やフォービスムを直接モネやマチスから学んでも、さらに文人画の巨匠、富岡鐵斎に心酔してもなお、正宗の独自の絵画を生涯貫く原動力となっていたのです。」(ホームページ「正宗得三郎「素園小景」、府中市美術館文化スポーツ部美術館)

 「むかし岡山のお母さんが『得は子どものとき紐でくくりつけておぶわれるのが嫌いじゃった』とおっしゃっていましたが、三ツ子の魂と申しましょうか、実に一生束縛をきらって自由を通しつづけました。日常生活にも素朴、純粋、質素という岡山育ちが身について、一生そのきりかえのできなかった人でしたから、文化的な都会人とはうまが会わなかったようです。しかし芸術的な面ではすこぶる微妙な鋭い感覚がいつもピリピリしているようで、洋の東西を問わず、絵画、骨董、書など、ありとあらゆるものを愛好、鑑賞して、ひとり悦に入っていました。」(「亡夫の思い出」正宗千代子著/ 「正宗得三郎畫集」坂本繁二郎著、平凡社)




 作風

 「彼(正宗)の生涯の作画行路にはほとんど起伏がない。したがって、多くの作品の中から、生涯の代表作などといっても特別に何点かを選び出すことも比較的困難であるが、だからといって、彼の作品はつまらないというものではない。その全体が彼のペースの上に十分のった作品なのである。つまり、どれを選んでも、よく正宗得三郎があらわれているのであり、多くの人に明るく温かく親しまれる楽しさに溢れているのである。」(「正宗得三郎のこと」嘉門安雄著/「正宗得三郎畫集」坂本繁二郎著、平凡社)
 

 作品「薔薇」(1953年、屋根裏部屋の美術館蔵)

 

  

 この作品の色彩は、「正宗得三郎畫集」(坂本繁二郎著、平凡社)にある作品には見られない濃厚ものである。

 1949年、正宗は肉腫に侵され2度の手術を受けた。そして、1951年、健康を回復して再び制作活動をはじめた。この作品「薔薇」は、それから2年後、1953年のものである。

 正宗は、「色彩の音楽」、「生の充実」という言葉を用いたが、これについては初期作品には「色彩の音楽」というものが感じられるが、「生の充実」というものは不足しているようである。しかし、晩年の作品には「生の充実」というものがある。
 初期の作品に自然と人を描いたものがあるが、晩年の作品「武蔵野の早春」(1951年)、「大平峠の藤」(1852年)、「西府村」(1954年)には、人が自然の中にとけ込み、生活している風景には「生の充実」というものがよりある。ただし、それは主に色彩、構図、タッチから感じるものである。

 正宗の作風に影響を及ぼした画家に、モネ、アンリ・マティス、富岡鉄斎がいる。
 彼らから学んだものは、作風の模倣というものではなく、その作品にある「色彩の音楽」、「生の充実」というものである。 

 絵画に重要なこの二つの要素を正宗が得たのは、彼の本来の性格によるところが大きい。

 「日常は無頓着に、喜怒哀楽をほしいままに現していましたところなど、ユーモラスでもあり、また大きな子どものようでもあり、いつも元気いっぱいで明るい感じでしたが、ある意味ではニュアンスに富んだ多感な性格だったともいえましょうか。」(「亡夫の思い出」正宗千代子著/ 「正宗得三郎畫集」坂本繁二郎著、平凡社)

 1949年、正宗は肉腫に侵され2度の手術を受けた。そして、1951年、健康を回復して再び制作活動をはじめた。この作品「薔薇」は、それから2年後、1953年のものである。

 彼は、非常に強いストレスを受けた。この作品は、それから立ち直ったときに描いたものである。
 強い絶望から立ち直り、みなぎる力に溢れるとき、そこには別の問題が生じる。

 この作品に何か問題はないかを調べた。
 よく観ると、ここには多くの生き物が描かれていた。それは、まるで幻覚のように・・・。
 赤い薔薇の花一つにも、三つ四つの顔がある。青い花瓶にもいくつもの顔がある。
 この作品は、トリックアートである。


 作品「カリン」(1935年)



  

 ***作品解説***

 1953年に制作された作品「薔薇」には多くの生き物の顔が描かれていた。
 それでは、別の絵画はどうだろうかと調べた。
 そうすると、 「正宗得三郎畫集」(坂本繁二郎著、平凡社)にある風景画、人物画、静物画等のすべての作品に顔が描き込まれていた。
 ここでは、1935年に制作された作品「カリン」について述べる。
 この作品には、人の顔以外にも何匹かの生き物が描かれている。


 作品「カリン」(反時計回り90度回転)



 

 ***作品解説***

 作品を反時計回りに90度回転してみると、また別の顔が現れた。


 作品「カリン」(時計回り90度回転、一部)



 

 ***作品解説***

 作品を反時計回りに90度回転してみると、また別の顔が現れた。


 作品「風景」(ギャルリー ル・シエルー GLC取扱、所有者不詳)





 ***作品解説***

 この作品には、多重像としていくつともの顔が描かれている。


 作品「薔薇」(180度回転)

 

 ***作品解説***

 作品「薔薇」を180度回転してみると、風景が現れた。
 薔薇が手前に咲いている。左おくに家がある。そして、何人もの人の顔がある。
 中には涙を流しているものもいる。
 この作品もトリックアートである。

 正宗得三郎は、幼少期、悲しい出来事があったのだろうか。


 作品「素園小景」(1960年、府中市美術館蔵)、(180度回転)

 

 ***府中市美術館学芸員による作品紹介***

 「展示室で、ひときわ明るく伸びやかにそして愉快な輝きを見せる正宗 得三郎の油彩画たち。なかでも強烈な色使いで異彩を放つこの「素園小景」(画家の小庭を指す)。この絵の独特の赤には、どこか心掻きむしられるような色彩の表情があります。画家の庭先で、この上なく深紅に紅葉するナナカマド。その赤色をかりて正宗は一体何を語ろうとしたのでしょうか。この絵を制作して一年後に正宗は病を得、その半年後、79歳の生涯を静かにとじ、府中に永眠しました。」(ホームページ「正宗得三郎「素園小景」、府中市美術館文化スポーツ部美術館)

 ***作品解説***

 鳩は動物の口の中にいる。そして、その動物は、他の動物の口の中にいる。
 そして、ここには何匹もの動物がいる。
 180度回転して作品をみると、またいくつもの顔が現れた。


 正宗得三郎の性格

 「五十二年の長い結婚生活でしたが、いま思い返してみましても、亡夫の一生は絵筆を持って終始したと申せましょう。結婚した時、『自分は芸術に生きるので家庭生活の全責任はお前にまかせるから、その覚悟でやってくれ』と堅く言われました。私もそれを守り、終始一貫したつもりでございます。 若い時から、囲碁、将棋その他、遊ぶことはせずに、自然の風物を好んでよく写生に出かけ、家庭ではほとんど画室に籠もりがちで制作に寸暇を惜しむありさまでした。それに相当気性の激しい人で、自分の意に満たないことはあくまで追求しなければ承知できないという性質で、自分の芸術に対しては特に厳しく追及しつづけていました。」(「亡夫の思い出」正宗千代子著/「正宗得三郎畫集」坂本繁二郎著)

 正宗得三郎の性格には、下田型執着性格(几帳面、凝り性、仕事熱心、強い義務責任感、模範青年、模範社員、思い込みが激しく、頭の切かえが難しい等の執着性格)というものがあると考える。
 なお、下田型執着性格というものは、下田光造によって提唱された躁うつ病患者の病前性格である。


 終わりに

 作品「薔薇」(1953年)には、正宗が求めていた「生の充実」というものがある。
 しかし、この作品には数多くの生き物が描かれている。
 また、彼の作品を調べると、風景画、人物画、静物画すべての絵画に顔が描き込まれている。
 これは、幻覚によるものと考える。
 

 履歴

1883年 岡山県和気郡伊里村に、正宗浦二の三男として生れる。母は讃岐の人、岡田真治の二女美禰。正宗家は200余年続いた旧家で、屋号を亀屋といった。兄弟妹9人。そのうち2人は夭折したが、長兄忠夫(白鳥)は文学者、次兄敦夫は国文学者、六弟巖敬は植物学者として、それぞれ名をなした。
1902年 上京して寺崎広業の天籟画塾に通い、日本画を学ぶ。東京美術学校西洋画科選科に入学。青木繁と親交をもつ。
1910年 結婚する。
1914年 渡仏する。アンリ・マティスに会う。「渡欧前から印象派に傾倒していた正宗は、フランスではマティスを訪ねて最新の絵画表現を摂取し、帰国の際に日本へ初めてマティス作品を持ち帰った。」
1915年 前年に創立したばかりの二科会会員となる。第二次世界大戦前は二科会の重鎮として活躍した。
1916年 ヨーロッパ大戦のため帰国。
1917年 文化学院で教鞭をとる(-1921年)。
1921年 渡欧。
1924年 帰国。
1926年 成城学園で教鞭をとる(-1932年)。
1947年 熊谷守一、栗原信、黒田重太郎、田村孝之介、中川紀元、鍋井克之、宮本三郎、横井礼市と共に「第二紀会」(後、二紀会と改称)を結成した。
1949年 肉腫に侵されて手術2回、レントゲン治療を続け奇跡的に回復。
1951年 健康を回復。各地に写生旅行。毎年、二紀会展に出品、同時に鉄斎研究に没頭。
1953年 作品「薔薇」
1962年 死去。享年79歳。


 主な収蔵美術館

東京国立近代美術館
東京藝術大学大学美術館
府中市美術館
ル・ヴァン美術館
福岡市美術館


 参考文献

「正宗得三郎畫集」(坂本繁二郎著、平凡社)

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