屋根裏部屋の美術館

荻須高徳 「ヴェラン通り」(贋作)

  2010.5.25 改訂
中村正明
masaaki.nakamura.01@gmail.com

 はじめに

 当美術館「屋根裏部屋の美術館」所蔵絵画の荻須高徳「リュ・ド・ヴァンプ5」(仮題)を紹介する。
 この作品は、「贋作」と判定されたものである。荻須作品の鑑定を行う方は、ひとりの美術商である。この方は、数多くの荻須の作品を鑑定してきて、荻須の作品鑑定では第一人者である。
 この作品については、明らかに荻須の作品と異なる箇所が多くあることが分かる。サインの文字の角度、空の荒れたタッチ、そして影のような人物。これらは荻須の作品には見られない。
 しかし、ある美術商は、「作品としては、荻須の真筆であると言っても不思議ではない雰囲気を持っています。真贋は半々で、駄目かもしれないと思う半分の理由は、来歴だけ」と言っている。
 また、私は、この作品は戦後制作されたものと比較して、質の大変高いものと考えている。
 この作品には、戦後のものには見られない強い心情が隠されている。それは、画中の黒い人物が示す「孤独」である。

 そして、この作品を調べていくと、あることが分かった。
 それは、荻須高徳は佐伯祐三の妻米子と浮気していたということである。


 荻須高徳 おぎすたかのり (1901-1986)

 藤田嗣治に次ぐ国際的画家。
 戦前・戦後を通じ、フランスを中心とするヨーロッパで支持され、人生のほとんどをパリで過ごした。戦後はじめて日本人画家としてフランス滞在を許された。モナコ大賞受賞。フランス国立造幣局は荻須画伯の肖像を浮き彫りにしたメダイユを発行。レジオン・ドヌール勲章受章。文化勲章受章。

 「荻須さんというと、私はいつも穏やかな中にもキッとして姿勢正しい作者のすがたを思い浮かべる。荻須さんが愛知県稲沢市井堀高見町の出身であることは知られているが、幼児病身だったのが旧制中学時代には8粁の道を自転車で通い、5年間を無欠席で通すほど健康になったという。しかも在学中に剣道も強くなり、対抗試合にも出たそうで、この方は美術学校に進んでからも続けていた。同期の山口長男氏の思い出によると、美校時代には几帳面な絵をかいて、いかにも学生らしい学生だったといわれている。「田舎の模範青年団員」という愛称さえもあったというから、若き日の作者のほほえましい風格が忍ばれよう。」(河北倫明)

 作品「自画像」(1931年)




 作品「リュ・ド・ヴァンプ5」(仮題、推定制作年:1928年、屋根裏部屋の美術館蔵)
 


 ある美術商の意見

 「Oguiss」のサインのある作品は、正直に申し上げて分かりません。作品は多くの真筆を見てきましたが、鑑定を通ったものばかりで、自分で入手した作品はなく、注意力がなくなったようです。はっきりサインがありますので、諸先輩方も意見を述べ難いようで、「これはギャルリーためながさんに見せた方が確実」という意見でした。なお、荻須高徳の鑑定は、東美と異なり実施する相手が分かっている上、ためながさんであれば、あらゆる時代の荻須作品をこれまでに数百点扱っていますので、相当に正確だと思います。恐れ多くも、私の個人的な感想を述べさせていただきますと、真贋は半々で、駄目かもしれないと思う半分の理由は、来歴だけになります。この作品ははっきりと作者を示していますので、前所有者または前所有者に譲った者が、鑑定にも出さずに処分してしまうのは少しおかしい、一度鑑定に回ったものではないか、という疑いだけです。ただし、作品としましては、荻須の真筆であると言っても不思議ではない雰囲気を持っていますので、調べる価値は十分あると思います。

 そして、鑑定結果は、「すでに、鑑定を行ったものであり贋作である」ということであった。

 私の意見

 この作品を鑑定に出す前に、すでに私なりの鑑定結果の予測があった。

@ 美術商の意見と同様、「前所有者または前所有者に譲った者が、鑑定にも出さずに処分してしまうのは少しおかしい、一度鑑定に回ったものではないか」ということ。
A 「Oguiss」の各文字の角度は、荻須のサインと異なっている。
B この作品に見られるような人物の描き方はない。
C 戦前に描かれた荻須の作品には暗い色彩のものが多いが、この作品はそれでもやや暗い方に寄りすぎている。
 これらを総合すると、贋作と判定される可能性はあると考えていた。
 しかし、私はこの作品は荻須高徳のものと考えている。それは美術商も言われるように、「作品としましては、荻須の真筆であると言っても不思議ではない雰囲気を持っている」ということである。これほど荻須の雰囲気を描くことの出来る贋作者があえて冒険を犯し、この特殊ともいえる 「Oguiss」のサインを書くのかということである。また、あえて他の作品に見られないような人物を描くのかということである。人物を入れず、また、サインの各文字も問題のない角度にすれば、さらに問題のない作品となるわけであるから。


 「天才画家『佐伯祐三』真贋事件の真実」

 荻須の著書「私のパリ、パリの私 荻須高徳の回想」(東京新聞出版局)には充実したパリでの生活が書かれている。
 しかし、荻須のこの作品は、戦後の作品群と比較すると非常に暗いものがある。

 戦前のパリの風景を描いた画家に佐伯祐三がいる。
 「天才画家『佐伯祐三』真贋事件の真実」(落合莞爾著、時事通信社)には、荻須高徳、佐伯祐三そして佐伯米子の接点が記述されている。

 「当時の佐伯は、米子の加筆に対抗して自分の画風を模索中で、それに伴って加筆に固執する米子との夫婦仲も険悪になっていた。周蔵(吉園周蔵)氏が訪れた当時、米子は幼い娘を佐伯に任せて若い荻須高徳の所に入り浸りとなっていた。」

 「米子は、周蔵が帰国の旅に就いてから、えらく荒れ始めた。独自の画風を確立していく佐伯と、米子が進めてきた加筆路線が両立しなくなり、やがて破綻につながる予感である。米子は、佐伯の唯一のパトロンで本格画のコレクターとなった吉薗夫妻の存在が気に掛かり、佐伯が周蔵にどこまで加筆の件をもらしたかを探ろうとした。吐き気などの症状はツワリかも知れず、その場合、相手は荻須(高徳)しかない。荻須も腹を固めたので、佐伯夫妻は一挙に離婚・別居の方へ進む。これを証する手紙とメモがある。」

 「解毒措置を受けられなかった弥智子は、佐伯の死の一ヶ月後に後を追う。従来の佐伯評伝家はこぞって弥智子の死因を小児結核とするが、米子の言に惑わされたのである。死ぬ直前「天使が見える」などとあらぬことを口走ったことを、文学的に美化する評伝家の態度は医学無視の非科学性に過ぎず、実体はヒ素中毒による精神異常である。安易に腹こわしや風邪や結核と言うが、周蔵はそんなもの信じていない。死因は明らかにヒ素による衰弱であった。」

 落合氏の著書によると、荻須は、米子と関係を持っていた、そして、米子は夫祐三および娘弥智子(血液型より佐伯祐三の兄との間に出来た子供と分かる)をヒ素で毒殺したとある。


 もし、それが事実なら、荻須は佐伯祐三および娘弥智子の死をどのように感じたのだろうか。

 荻須高徳の心情 推測

 このような状況下で、荻須はどのような心境でパリにいたのか。

 「私が日本を捨てたのではない。日本に捨てられたのだ」と言った藤田嗣治(1986-1968)のように、戦争協力者として日本にいられなくなった特殊な事情の人を除くと、荻須のように長期間パリにいた画家はほとんどいない。

 また、戦前西洋人が日本人を見る目について、「美に生きる 私の体験的絵画論」(林武著、講談社)に記載されている。

 「白人間にはまだ東洋人を軽蔑する風習は露骨であった。オランダのハーグでは、やはりわれわれ画家四、五人が停車場で汽車を待っていると、大勢オランダの若者が取り巻いて、ピノ(支那)、ピノと唾をコンクリートの床へ吐いた。われわれは日本人だとだれかが言うとよけい悪かった。やがて汽車が来て彼らは乗った。我々の汽車はまだ来ない。彼等は汽車に乗っても窓から顔を突き出して、大声でヤパナ!ヤパナ!と憎々しく怒鳴った。」

 このような状況下でも荻須は帰国しなかった。帰国は戦争が始まってからである。また、結婚も43歳までしなかった。戦後パリに移ることが出来るようになるとすぐにパリに発った。まるで日本から逃げるようである。
 
 これらは、米子とのことがあったためと考える。

 「吐き気などの症状はツワリかも知れず、その場合、相手は荻須(高徳)しかない。荻須も腹を固めたので、佐伯夫妻は一挙に離婚・別居の方へ進む。これを証する手紙とメモがある。」(「天才佐伯祐三の真相」落合莞爾)

 推測で物事を書くことは問題を生じる可能性があるが、しかし、当時の荻須の心情を推測すると次のようになる。

 「自分の子供を宿した米子が佐伯祐三と娘弥智子にヒ素を飲まして殺したのか。いやそんなことはない。私の好きな米子さんは気だてのよいすてきな人だ。しかし、佐伯祐三は気が狂ったと世間で言われているが、それは信じられない。肺結核がこうじて亡くなったのだ。」

 このように考える荻須であったが、朝、目が覚めると背筋に寒いものを感じた。

 町を歩くと、人々の目は冷たい。しかし、私はこの無機質なパリで暮らす。
 
 このように考えた上で、荻須の心情がもっとも暗かった時期を推定すると、佐伯祐三が死んだ1928年である。この絵画は、画家の非常に暗い心情が描かれているので制作年は1928年と考える。
 また、サインについて調べると作品「セレクト・ガレージ」(1928)のものはこの作品「ヴィラン通り?」(仮題、推定制作年1928)のサインと同様に右に傾いたものである。ただし、字体が異なる。そして、この作品のタッチはおよび色彩は作品「菓子屋」(1929)に近いものである。


 1928年から1929年に制作された作品3点にみられる心情

 「画集 荻須高徳」(講談社)には1928年から1978年に描かれた荻須の作品127点が収載されている。これらの作品のうち多くが建物を描いたものである。
 しかし、1928年から1931年にかけては例外とも言える4作品がある。それは、作品「人形」(1929年)、「顔」(1929年)、「裸婦」(1930年)そして「自画像」(1931年)である。なぜ例外とも言えるのか。それは、建物ではないからである。
 また、荻須の作品には無機質なものが多いなか、心情が込められているような作品が2作品ある。それは、作品「人形」(1928年)および「顔」(1929年)である。
 そして、その例外的な4作品のうち、1928年から1929年に描かれた3作品について私の意見を述べる。

 作品「顔」(1929年)



 この作品「顔」(1929年)に描かれた人物は誰だか分からないから題名は「顔」となっている。
 しかし、この人物は荻須高徳である。
 荻須と交流していた画家山口長男、横手貞美、大橋了介等は、このようにダンディではなく、また、この顔の骨格でもない。
 先に紹介した作品「自画像」の人物と異なると言われるかもしれない。その違いは、次の3点である。
 @ 口が左右非対称である。
 A 荻須の目は真っ直ぐか、つり上がっているが、この作品の人物は目が垂れ下がっている。
 B 荻須と比べ顎が長い。

 この顔から何が分かるのだろうか。
 それは、この人物が強いストレスを受けたことが分かる。
 人は、ストレスを受けると顔は非対称になる。この人物の口は左右非対称である。また、悲しみの感情を抱くと目尻は下がる。また、放心状態で力が抜けてると下顎が落ちてくる。さらに力が抜けると、口は開き放しになり、よだれも垂れ下がる。

 荻須は、悩み、悲しみ、そして疲れ切ったのである。

 それでは、何が荻須をそのようにさせたのか?

 荻須は、パリの建物を多く描いた。そして、その絵には人物がほとんど描かれていない。

 作品「モンパルナスの歩道橋」(1928年)



 この作品「モンパルナスの歩道橋」は、風景に人物がはっきり描かれている数少ない作品である。
 
 「私のパリ、パリの私 荻須高徳の回想」(東京新聞出版局)には、次のようなことが書かれている。

 @ 「ぼくは佐伯さんに狂気を感じたことは一回だってありません。」
 A 「奥さんの米子夫人はブルジョワ娘のいく虎の門女学院の出身で、お里は象牙を取引する大きい貿易商です。気だてのよい、大変な美人で、ぼくも好きな人でした。」

 これは、次の問いに答えたようなものである。

 @ 通説にある、佐伯は気が狂い、弱り切った体で外に出て、それがもとで死んだ。
 A 佐伯が言うように、妻米子が娘弥智子を虐待している。あるいは吉園周蔵が言うように、米子が佐伯を殺害した。
  
 つまり、荻須はこの絵に描かれているように、米子と娘弥智子は仲が良く、画家佐伯祐三に問題があると考えたのである。これが荻須の結論である。この作品「モンパルナスの歩道橋」が描かれたときは、画家佐伯の家族のことを考えていたのである。
 そして、「私のパリ、パリの私 荻須高徳の回想」にも佐伯の家族のことが書かれ、その人達のことを考えていたのである。
 この作品に描かれている女性を見ると、当時は、女性がパンタロンをはくことはなかったので、洋服ではなく着物を着ていると考える。また、右手には杖のようなものを持っている。
 米子は足が悪く常に杖をついていたし、また、パリでも常に着物を着ていた。私は、この女性を米子と考える。そして、左にいるサングラスをかけた悪そうな男が佐伯である。

 なお、この題名にあるモンパルナスは佐伯が住んでいたところであり、いろいろ問題が起きたところである。
 
 佐伯祐三の履歴
1927年10月 ヴールヴァール・デュ・モンパルナス162番地の新築直後のアパート3階に移る。なお、2階には薩摩千代子が住んでいる。
1927年12月 ガス事故が起きる。6日間入院する。(落合莞爾)
1928年3月15日 ついに離婚が決まる。(落合莞爾)
1928年3月中旬 「春の初め、モンパルナスの駅の裏のレスト街にある、荒れた小さな三室のアパートに転居したが、ここでは、もう佐伯は一度も筆をとることはできなかった。」(里見勝蔵)


 作品「人形」(1929年)



 これは荻須の作品では最悪のものである。絵がしっかり描かれていない。また、Oguissというサインはない。
 人形が泣いている。右上の白い部分を見ると手と足のようなものが描かれている。白い部分はベッドシーツだろう。
 泣いているのは、人形なのか?私は人形とは思わない。女の子だ。フランスで荻須の知っている女の子は佐伯の娘弥智子ぐらいである。
 女の子を弥智子とすると、なぜ泣いているのか?
 ベッドにいるのは誰なのか。それは、佐伯祐三、祐三の妻米子、あるいは荻須である。
 荻須が描いた絵で、ベッドのそばで弥智子が泣いているなら、その人物は荻須である。そう考えるなら、ひとりではない。相手は画家佐伯の妻米子である。

 学生時代「田舎の模範青年団員」と言われたまじめな画家荻須は、佐伯の娘弥智子に対して罪悪感があり、いたたまれなかったのである。

 これは、考えすぎだろうか。作品の題名のように、これは人形であり、人形が泣いているだけなのか?


 作品「リュ・ド・ヴァンプ5」 画中の人物

 この作品「リュ・ド・ヴァンプ5」には、黒い影のような人物が描かれている。この作品には、暗い気持ちが非常に表現されている。

   私は影になりパリの町をさまよう。
   人々は私に気付かない。
   そして、私も彼らを見ることはない。




 「ヴィラン通り」(1982 リトグラフ)



 戦後の作品「ヴィラン通り」(1982)にも、人物が影のように黒く描かれている。 
 1981年(昭和56年 80歳)に、荻須は文化功労者に顕賞されパリより10年ぶりに帰国した。また、1982年(昭和57年 81歳)には、フランス国立造幣局が、荻須高徳の肖像を浮彫にしたメダイユを発行した。つまり、荻須高徳が「ヴィラン通り」(1982)を描いた時期は非常に充実していた。
 ではなぜこのように暗い人物を描いたのか。
 それは戦前、このような場所で一人淋しくさまよい歩いたときの心情を再現したからである。
 「淋しくさまよい歩いた」・・・この言葉は不正確である。「感情をなくし、歩いていた」が正しい。
 しかし、この戦後の絵画では、画家は暗い景色から抜け出し、明るい景色の中をゆっくり歩いている。


 荻須の涙は

 美術評論家朝日晃氏が4度目のモラン行きのことを「佐伯祐三のパリ」に書いてある。

 荻須さんとモランへ同行した夜食事を共にした。「一九二八年二月、朝日さんはどうしていた……。」「実はモランで仕事をされていた頃私は生まれたんです」荻須さんの顔は笑い顔にはならなかった。村の入り口で車から降りた荻須、佐伯との時代を想起し、私へ涙を隠していた。荻須さんは、必ず佐伯さん――と表現した。


 離人症

 作品「リュ・ド・ヴァンプ5」(仮題、推定制作年1928)は、離人症という精神疾患を患っている画家が描いたものである。

 離人症の症状に、「自己に関する知覚あるいは体験の変容、その結果自分自身の現実についての感じが一時的に失われるか変化する。自分の手足の大きさが違って感じられたり、自分が機械仕掛けのように感じられたり、まるで闇の中にいるように感じたりする」というものがある。(精神疾患の診断基準DSM−V)
 また、離人症にの症状には、「なかには、ものが大きく見える(大視症)、小さく見える(小視症)、ゆがんで見える、遠くに見える、生々しく見える、かすんで見える、など多彩である。患者の陳述によっては幻視に近いものもあります」というものがある。
 また、この絵に描かれた人物のように「影のような存在に感じる」こともある。

 それでは、荻須の作品にそのようなものがあるかと言うと、ない。しかし、彼の作品には陰鬱なものが多くある。

 作品「顔」(1929年)に描かれた人物、つまり1929年前後の荻須が、作品「人形」(1929年)および作品「リュ・ド・ヴァンプ5」(仮題、推定制作年:1928年)を描くのである。けっして、作品「自画像」(1931年)に描かれた荻須は、作品「人形」(1929年)および作品「リュ・ド・ヴァンプ5」(仮題、推定制作年:1928年)を描くことはない。


 終わりに

 この作品「リュ・ド・ヴァンプ5」は、荻須の作品を鑑定する最高権威者より「贋作」と判定されたものである。
 この絵画がもし真作であり、また、私の考え方に間違いのないものであるなら、荻須の描く絵画の本質は今まで言われているものと大きく異なる。
 @ 「さび」とか「悲惨の世界」ではなく、「人との関わりを持ちたくない孤独」とiいうことになる。これが、荻須が描くパリの風景には人が描かれていない理由と考える。
 A 「パリを愛した画家」ではなく、「佐伯米子が怖くて日本から逃げていた画家」となる。
 また、この絵画こそが彼のパリで描いた初期絵画ともいえるものである。そして、戦後の作品では絶対に見ることが出来ないもっとも暗い気持ちで描いたものである。

 この作品「リュ・ド・ヴァンプ5」は、荻須の作品を鑑定する最高権威者より「贋作」と判定されたものであり、また、優秀な学芸員が作品「人形」(1929年)を人形と捉え、作品「顔」(1929年)を単に顔と捉えている。

 しかし、あなたは作品「人形」(1929年)は良い作品と思うのか?人形が立って泣いていると思うのか?また、作品「顔」(1929年)に描かれた人物は、悲しそうな顔または面白そうな顔をした荻須の友人かモデルと思うのか?
 また、藤田嗣治と荻須高徳がフランスに長期間いた。しかし、藤田嗣治は戦争責任を画家達に問われフランスに逃げるように行ったのである。すると、本当にフランスを愛した日本人画家は荻須高徳ただひとりである。荻須高徳は、本当にそんなにフランスが好きだったのか?

 私は、「天才佐伯祐三の真相」(落合莞爾)に書かれている「荻須は、米子と関係を持っていた」といことは、事実と考える。また、このようなことをはじめて述べている吉薗周蔵周辺の資料は、ねつ造されたものではないと確信できる。

 また、荻須高徳「リュ・ド・ヴァンプ5」(仮題)は、荻須が描いたものだから、このような結論にたどり着けたのである。


 履歴

1901年 愛知県中島郡井長谷村大字井堀149番戸(現在の稲沢市井堀高見町)に生まれる。
1908年 千代田尋常高等小学校に入学。
1916年 愛知県立第三中学校(現在の津島高等学校)に入学。
1921年 卒業後、上京し川端画学校に学び、藤島武二の指導を受ける。
1922年 東京美術学校(現在の東京芸術大学)西洋画科に入学。
1927年 東京美術学校卒業。9月フランス留学の途につく。
1928年 佐伯祐三死去する。このころから署名をOGUISSとする。サロン・ドートンヌに初入選。
1939年 第二次世界大戦勃発。翌年13年ぶりに帰国。
1944年 横江美代子と結婚。
1945年 終戦。
1946年 長女恵美子生れる。
1948年 戦後初めて日本人画家として、フランス滞在を許され8年ぶりにパリに入る。
1956年 レジオン・ドヌール勲章受章。
1972年 勲三等旭日章に叙される。中日文化賞受賞。
1974年 パリ市より、メダイユ・ド・ヴェルメイユを授与される。
1981年 文化功労者に顕賞され10年ぶりに帰国。稲沢市を訪問。
1982年 フランス国立造幣局が、荻須高徳の肖像を浮彫にしたメダイユを発行する。参考作品「ヴィラン通り」(1982年、リトグラフ)
1986年 パリのアトリエで制作中に死去。文化勲章受章。


 参考文献

 「天才佐伯祐三の真相」(ホームページ、落合莞爾)
 「私のパリ、パリの私 荻須高徳の回想」(荻須高徳著 東京新聞出版局)
 「天才画家『佐伯祐三』真贋事件の真実」(落合莞爾著 時事通信社)
 「美に生きる 私の体験的絵画論」(林武著 講談社)
 「画集 (荻須高徳」(講談社)
 「佐伯祐三のパリ」(朝日晃、野見山暁治著、新潮社)


 その他の荻須作品

 作品「秋の風景」(株式会社正光画廊取扱絵画)



 この作品の制作年は分からないが、作品「リュ・ド・ヴァンプ5」(仮題、推定制作年1928年)よりわずかに前と考える。

 この作品のサインも作品「リュ・ド・ヴァンプ5」(仮題、推定制作年1928年)と同じようなものである。サインから考えると、作品「リュ・ド・ヴァンプ5」(仮題、推定制作年1928年)よりわずかに前に描かれた可能性が高いと考える。
 

 1. 作品「秋の風景」:右に傾いたサイン・・・明るい作品
 2. 作品「リュ・ド・ヴァンプ5」(仮題、推定制作年1928年):右に傾いたサイン・・・非常に暗い作品
 3. 作品「セレクト・ガレージ」(1928年):右に傾いたサイン・・・暗い作品
 4. 戦前の上記以外の作品:左に傾いたサイン・・・暗い作品
 5. 戦後の作品:左に傾いたサイン・・・比較的明るい作品

 この明るい作品「秋の風景」と非常に暗い作品「リュ・ド・ヴァンプ5」(仮題、推定制作年1928年)の間に佐伯祐三の死があったのではないだろうか。
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