屋根裏部屋の美術館

プロレタリア闘士岡本唐貴 作品「バラ」


 はじめに

 当美術館「屋根裏部屋の美術館」が所蔵する岡本唐貴「バラ」を紹介する。
 この作品は、構図および色彩バランスに優れたもので、奇をてらったようなものではない。
 絵画制作におけるお手本のようなものである。


 岡本唐貴 おかもととうき (1903-1986年)

 プロレタリア画家。洋画家。本名・岡本登喜男。
 生涯芸術活動に身を染め、ダダイズム、シュルレアリスムなどの影響を受けた絵画、写生画を数多く残す。




 作品「バラ」 (1953年)

 

 作品解説

 構図および色彩バランス等については申し分のない作品である。


 終わりに

 一般的に、ひとは考え行動し、年を重ねるごとに多くは向上していきます。
 ただし、運動能力等は衰える。つまり、運動選手の場合のピークは20-30歳頃である。
 絵画では、画家の精神が作風に強く影響するので年を重ねるほど良くなるというものでもない。しかし、精神的に問題がない画家は年を重ねることにより、味わいのある作品を生み出す。それは、ちょうど酒が年月を重ね、熟成が進み、もとの清酒からは想像できないような香味と色に変化するのと同じように思える。


 履歴 (「フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 2007/06/09 17:06 UTC 版」より)

1903年(明治36年) 岡山県麻口軍連島町(現在の倉敷市)に三男として生まれる。
1918年(大正7年) 米騒動、労働争議を目撃、思想的に大きな影響を受ける。
1919年(大正8年) 父・弥平次死去。農業の傍ら油絵の勉強を始める。
1920年(大正9年) 神戸市で浅野孟府と出会い、二人で東京に出、原宿にて共同生活を始める。 1921年(大正10年):浅野と彫刻家・戸田海笛のアトリエに住み、油絵のかたわら彫刻を学ぶ。
1922年(大正11年) 東京美術学校(現・東京芸術大学)彫刻選科に入学。翌年退学。
1923年(大正12年) 関東大震災のため、神戸市に移る。二科会内の急進グループ・アクションに参加。
1924年(大正13年) 二科会を離れ、神原泰、矢部友衛らと三科造形美術協会の結成に参加。
1926年(昭和1年) 東京に移る。神原泰、矢部友衛、浅野孟府らとグループ造型の結成に参加。
1928年(昭和3年) グループ造型を造型美術家協会として再組織。(全日本無産者芸術連盟(ナップ)発足)
1929年(昭和4年) ナップ改組による日本プロレタリア美術家同盟(ヤップ)の結成に参加。黒澤明に絵を教える。1930年(昭和5年) 相馬君子と結婚。
1931年(昭和6年)所属のナップにさらに団体が追加され、日本プロレタリア文化連盟(コップ)が成立
1932年(昭和7年) 2月、長男・登(白土三平)が生まれる。夏、特高に検挙・投獄される。神戸市に移る。
1933年(昭和8年) 東京に出、同志小林多喜二の死顔を描く。大阪にて、浅野孟府と共同展開く。北海道に行く。
1934年(昭和9年) 受けた拷問からの発病(以降5年間の闘病生活)。
1938年(昭和13年) 東京練馬に画室を立てる。
1940年(昭和15年) 満州・北京に行く。
1944年(昭和19年) 夏、一家で長野県に疎開。冬、住まいを移す(同じ長野県内)。
1945年(昭和20年) 2月、長女・颯子が生まれる。8月、この地で終戦。
1946年(昭和21年) 矢部友衛、山上嘉吉、寺島貞志、市村三男三らと現実会の結成に参加。日本美術会の結成に参加。自然主義的な様式で農村風景や肖像画を描いた。
1948年(昭和23年) 現実会解散。共産党入党(1958年離党)。
1950年(昭和25年) ソヴェート美術研究会を結成。
1953年(昭和28年) 作品「花」油彩画8号(屋根裏部屋の美術館蔵)
1955年(昭和30年) 寺島貞志、村雲大撲子、石垣栄太郎、別府貫一郎、後藤禎二、山上嘉吉と点々会を創立。
1962年(昭和37年) 訪ソ。
1963年(昭和38年) 1月、母・留與死去(82歳)。
1967年(昭和42年) 創作画人協会の結成に参加。
1981年(昭和56年) 妻が死去。
1986年(昭和61年) 82歳で死去。
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