屋根裏部屋の美術館

瀧川太郎 稀代の贋作者


 はじめに
 当美術館「屋根裏部屋の美術館」が所蔵していた瀧川太郎「まどろみ」を紹介する。
 現在は、事情があり売却したものである。
  自らを「稀代の贋作者」と呼び、セザンヌからスーラに至るまで200点以上のヨーロッパ名画を贋作した日本美術史上最大の贋作画家である。その作品は今も多くの美術館に収蔵されていると言われている。
 瀧川太郎は一流の贋作者であることには間違いないが、しかし、彼が描いた自身の作品はあまり評価されていない。一流の贋作者、それは十分な技術力がなければ成り立つものではない。彼の技術力は巨匠達の平均レベルを超えているのか。
 ここで紹介する作品「まどろみ」は、瀧川太郎が自身の名前を名乗り、クールベおよび前田寛治と競った作品である。
 そして、その出来は?
 瀧川太郎 たきかわたろう (1903-1971)

 酒癖が悪くなり「ストーブでネズミを丸焼きにし、それを肴に薬用アルコールをがぶ飲みする」ようになる。4回の結婚、アルコール依存、そして社会のルールを守らないという自己破滅型の人格を持った人の代表例である。
 絵画には、ラミネートシールで保護されたメモ書きが付いていた。
 「瀧ちゃんは・・・・大変面白い男だった・・・・極めつき器用で・・・・外国の作家の偽ものを作った?とのうわさも出た!! (柏亭の娘婿・田坂乾氏談)」


 瀧川太郎語録(昭和44年のインタビューより)

 「描いた贋作は200どころかもっと多い。だが一作たりとも大雑把に描いてはおらん。」
 「俺の贋作には命がこもっている。原作以上の迫真力がある。」
 「黒田、安井、梅原にしても本場のコピーじゃないか。本場の本格派の精神まで写す俺のコピーの方が、はるかに価値がある。」
 「俺、稀代の贋作者滝川太郎の描いたヨーロッパ名画、つまり滝川製がどれだけ日本の文化向上に貢献したか計り知れんものがある。」
 「偽作のコツ?マル秘だよ。」
 「見分け方?横から透かしてみるんだ。これ以上は言えん。酒二升ではな。また二升持ってきたら教えてやる。」


 画家5人の描いた裸婦を比較

 瀧川太郎「まどろみ」と同じような構図を取った作品と比較してみた。無名の画家小林寿永、関口俊吾、前田寛治およびクールベの作品との比較である。
 瀧川太郎「まどろみ」(6号、1959年、日動画廊および和光洞画廊取扱、屋根裏部屋の美術館→美術愛好家)


 作品解説

 大腿骨の上部はどこに収まっているのか?
 あり得ない人体構図である。


 小林寿永「裸婦」(6号、1998年、屋根裏部屋の美術館所蔵)



 作品解説

 大胆というか、おおざっぱというか、好き勝手に描いている。この画家は絵を描くことを楽しんでいる。


 関口俊吾「Nue」(個人所有)



 作品解説

 洗練された、すてきな作品である。

 履歴 関口俊吾 (1911-2002)

 パリを本拠に活動を続け、フランス三大展などで数々受賞。最高峰のサロン・ドートンヌの審査評議委員を務めるなど、パリ画壇に生き偉大な功績を残した巨匠

1911年 兵庫県神戸市熊内に生まれる。
1931年 鹿子木孟郎に師事。
1935年 渡仏。
1936年 招聘留学生の資格を得る。パリ国立高等美術学校に入学。
1937年 サロン・ドートンヌで入選。
1941年 海軍の特務艦浅香丸で帰国する。
1951年 再渡仏。(戦後の渡仏者としては、荻須高徳、藤田嗣治についで三人目)
1952年 サロン・ドートンヌ再入選。
1959年 ヴィシー国際展にてパリ・アンデパンダン賞受賞。
1964年 ジュビジイ国際展にてディプローム・ドヌール(名誉表彰)賞を受賞。
2002年 死去。享年91歳。

 主な収蔵美術館

神戸市博物館
兵庫県立美術館
東京国立近代美術館


 前田寛治「横臥裸婦」(1927年、島根県立博物館蔵)



 前田寛治 (1896-1930)

 クールベに心酔し、「質感・量感・実在感」を三原則とした独自の写実理論を追求した。惜しくも33歳で早世した。

 作品解説

 重厚ではあるが、おもしろみのない作品である。瀧川太郎「まどろみ」と比較すると、この作品では、大腿骨はしっかり骨盤に収まっている。


 ギュスターブ・クールベ「まどろむ女(習作)」(1852年頃、島根県立博物館蔵)



 ギュスターブ・クールベ (1819-1877)

 フランスを代表する写実主義の画家。


 終わりに

 この5作品を比較すると、時代とともに官能的になっていくのが分かる。
 瀧川太郎「まどろみ」の作品の質となるとなんとも言えないが、履歴の面白さでは最高である。


 履歴

1903年(明治36) 長野県松本市で蕎麦屋の長男として生まれる。
1915年(大正4)  丁稚奉公に出される。出前の度に近所の画家に絵を習う。
1919年(大正8)  画家を目指し上京する。
1920年(大正9)  太平洋画研究所に通い、石井柏亭の書生となる。
1921年(大正10)  柏亭が文化学院創設、図書係となる。酒癖が悪くなり「ストーブでネズミを丸焼きにし、それを肴に薬用アルコールをがぶ飲みする」ようになる。
1927年(昭和2)   仁科展に初出品し入選。
1928年(昭和3)   仁科展に連続入選を果たす。
1929年(昭和4)   中国に遊歴。
1930年(昭和5)   パリに渡る。墨絵を描いて生活の糧を得る。その後ジュネーブで日本料理屋のアルバイトを始める。このとき国際連盟国際労働機関事務所長や、満鉄パリ支社長らの日本人パトロンを得る。彼らをパリの二流画廊に案内し、あらかじめ委託しておいた自分が描いた贋作を買わせるようになる。
この頃スイスの女性と結婚し一子をもうけるが、しばらくして離婚。パリに戻る。
「パリ在住日本人画家展」に宮本三郎、岡鹿之助、岡本太郎らとともに出品するなど画家として活動する一方、絵画鑑定家として知られるようになる。
1938年(昭和13)  パリを訪れた美術評論家・久保貞次郎と出会う。モンティセリを買おうとした久保に「あれは俺が書いた模写だ」と教えてやめさせ、自作の偽キスリング、セザンヌ、ラプラード、ドガ等を売りつける。
1940年(昭和15)  戦禍を逃れて日本に帰国。兜屋画廊に出入りするようになる。久保貞次郎とも連絡をとり、兜屋画廊に紹介して松方コレクションのセザンヌとルノワールを買わせ、一方でユトリロ、マチス、ドラン、マルケ、ボナールの「滝川製名画」を買わせる。以後も、久保にシニャック、ドニ、デュフレーヌ、フォラン等、多くの贋作を買わせる。この頃、2回目の結婚。
1946年(昭和21)  一水会・岩倉賞受賞、一水会会員となる。この頃、3度目の結婚。贋作商売も再開し、久保貞次郎にモジリアニ、ルソー、ピカソ、シャガール、スゴンザック、ルノワール等の贋作を買わせる。久保所有の滝川製名画は計47点となる。
1947年(昭和22)日本国内にある外国名画を集めた読売新聞社主催「泰西名画展」開催。久保所有の「滝川製名画」20点余りが出品される。会場の東京都美術館に連日長蛇の列ができる。
この展覧会を見た一水会の画家・硲伊之助が贋作の疑いを朝日新聞に発表。
久保は真作として滝川製ルノワールを売却。兜屋画廊を通じて国会議員・藤山愛一郎の所有となる。
1948年(昭和23)  兜屋画廊に持ち込まれたデュフィが滝川の贋作と発覚。
1949年(昭和24)  「滝川太郎に社会的制裁を加えるための相談会」が開かれる。滝川は姿をくらまし、頭を丸坊主にして松本郊外の寺に潜伏。
1955年(昭和30)  再び上京、贋作問題を不問とした一水会の一画人として活動再開。日動画廊、カワスミ画廊(大阪)の取扱作家となる。この頃4度目の結婚。
1956年(昭和31)神奈川県立近代美術館で「ほんもの・にせもの展」が開催され、久保が「にせもの」として滝川製ラプラードを出品。しかし隣に展示された美術館所有の「ほんもの」も滝川製と判明。
1960年(昭和35)  脳溢血で倒れ半身不随となり右腕が使えなくなる。以後、左手で絵を描く。
1961年(昭和36)  朝日新聞社主催「西洋美術展」に経済企画庁長官・藤山愛一郎所有の滝川製ルノワールが出展される。展覧会の会期中、盗難され大事件となる。藤山は無事に戻った場合、国立西洋美術館に寄贈すると宣言して犯人に返却を呼びかけ、盗難から2か月後に発見されたルノワールは国立西洋美術館所蔵品となる。
事件後、久保が問題のルノワールを滝川製と発表。滝川は「コロー以外の全ての画家の作品を描くことのできる贋作者」とされた。
1962年(昭和37)  久保発言を伝え聞いた滝川が久保に「滝川製コロー」を送り付ける。箱には「倣コロー 自由画 模写にあらず 瀧川太郎 左手」と記し、キャンバス裏には下地の作り方からニスの塗り方に至るまで、制作法が説明されていた。
以後、贋作をやめて左手での創作活動を続ける。
この頃までに贋作と発覚しなかった滝川製ヴラマンクやボナール、スーラ等、何枚もの「滝川製名画」が各地の美術館に収まる。滝川製スーラは美術出版社の画集「現代絵画2 セザンヌとスーラ」の裏表紙にも掲載された。
1969年(昭和44)  日本酒二升と引き換えに芸術新潮のインタビューに応じる。「俺の贋作には命がこもっている」と豪語。
晩年まで酒におぼれる毎日を過ごす。
1971年(昭和46)  駆けつけた3人の妻に看取られながら湘南・厨子で没す。67歳。追悼会には一水会画人を中心に80人が列席。


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