仮想空間美術館     萬鐵五郎 もう一つの見方

萬鉄五郎 もう一つの見方

                                                  2004.8.30
2007.1.6 改訂
2007.3.16 改訂
                                                  中村正明
                                           masaaki.nakamura.01@gmail.com

 はじめに

 当美術館「屋根裏部屋の美術館」が所蔵する萬鐵五郎の作品群を紹介する。
 これらは、インターネットオークションで入手したもので、東京美術倶楽部で鑑定の結果、保証書が取れなかったというものである。
 出品者は信頼の出来る古物美術商物故堂である。この方は、蔵の取り壊しなどにより出てきた絵画から巨匠の作品を見つけ出した後、鑑定機関に出し、非常に多くの保証書を取得した方である。このような仕事を30年以上行ってきた方である。
 私がこの出品者より購入したこれらの作品は、双極性障害(躁鬱病)の患者および統合失調症(分裂病)の患者が描いたものである。そして、もしそれらが贋作なら、贋作作成者が萬の精神をその様に捉えていないかぎりは決して描くことが出来ないものである。
 また、萬に関する資料を調べると、彼は双極性障害および統合失調症を患っていた可能性が高いことが分かった。絵画評論家(研究者)は、決してその様には捉えていない。当然、贋作を制作しようとする者もこのようには捉えていないはずである。
 もしここで、萬鐵五郎が双極性障害および統合失調症を患っていたということが証明された場合、これらの絵画が贋作なら、贋作作成者が萬の精神をその様に捉え、絵画評論家はそのように捉えていなかったということになり、絵画評論家のお粗末さがクローズアップされる結果になる。あるいは、これらの作品は萬鐵五郎のものであることの証明となるものである。

 双極性障害と統合失調症は全く違うものであり、遺伝子の研究でも別に考えられている。
 しかし、統合失調症に関係あるRISC1という遺伝子の研究では、調査された家系では統合失調症と双極性疾患が多く見られたとある。
 また、「多幸性の双極性障害の患者は、双極性障害の患者の40%以下であり、そしてそのうちの3分の1は幻覚と妄想を抱く」ということがある。幻視は統合失調症の代表的な症状である。
 これらから、統合失調症に見られる症状と双極性障害に見られる症状は同一の人で重なる可能性があると考えた。


 双極性障害と統合失調症とが非常に近い関係だと考えていたが、後日これに関係する研究内容がインターネット上でのホームページ(南東北医療クリニック 専門外来 松澤大樹医師記載)で見つかった。


 精神病に対する新たな発見

 南東北医療クリニックの松澤大樹医師による「MRI装置による脳映像に研究」内容は、以下の通りである。

 全ての精神障害が、うつ病、統合失調症、アルツハイマー病とこれらの組み合わせ以外ない。
 また、普通の精神病はすべて(95%以上)うつ病と統合失調症の混合型であり、高次脳機能障害(内因性)という病名が最もふさわしい。
 現在の精神医学では、うつ病と統合失調症が同一人に発症することはなく、特に統合失調症は治ることはないと信じられている。毎日の診療を通してこれが科学的に間違いであり、殆どすべての精神病が混合型であることが実証された。

 つまり、同一の人で統合失調症と双極性障害(躁鬱病)の二つの疾患があってもおかしくないということである。それどころか、普通の精神病はすべて(95%以上)うつ病と統合失調症の混合型とのことである。

 
 萬鐵五郎

 萬鉄五郎(よろずてつごろう、明治18年−昭和2年、1885-1927年)は、大正時代に活躍した洋画の巨匠である。そのなかで特に「裸体婦人」(大正元年、1912年)は多くの美術教科書等で取り上げられている。この作品は、萬が東京美術学校卒業時に制作したものである。また、西洋絵画の技法を取り入れた彼独自の絵画の制作は当時の人々に強い刺激を与えた。

 作品「裸体夫人」(1912年)

 

 配色が大胆であり、また、あまり感触のよいものではない。これは、作品「女の顔」、「金切り声の風景」および「赤い目の自画像」に類似したものがある。これは、本当にフォーヴなのか?


 萬とフォービスム
 
 1905年の秋、サロン・ドートンヌで、マティス、ドランらグループの作品が集められた部屋は批評家ルイ・ヴォークセルによって「野獣の檻」と称せられた。これが野獣派(フォーヴィスム)の名の由来である。
 フォービスム系画家として、マティス、ドラン、ヴラマンク、デュフィ、ルオー等がいる。
 マティスはフォーヴィスムとしての活動を1905年から3年ほどの間だけ行った。
 
 日本では、フォービスム系画家として萬鉄五郎、中川紀元、里見勝蔵および佐伯祐三がいる。
 中川紀元は、1919年渡仏し、マチスに師事した。また、里見勝蔵は1912年に渡仏し、ヴラマンクに師事した。佐伯祐三は1924年に渡仏し、ヴラマンクに師事した。
 萬は、1906年渡米し、そこで短期間ボーイとして働いた。そして、1907年、萬は東京美術学校西洋画科に入学した。マティスの作品がニューヨークに紹介されたのは1908年である。
 日本最初のフォービスム作品と言われる「裸体美人」が制作された1912年までに、萬とフォービスムの接点が見あたらない。

 萬は、フュウザン会第1回展に出品している。

 「一般に、フュウザン会は、高村光太郎,斎藤与里ら明治末期の1910年前後にフランス留学から帰国した作家を中心として結成された青年美術家の集団で、総体的には印象派、後期印象派の集団とされている。事実,高村光太郎は印象派風の作品を,斎藤与里はゴーガン風の作品を出品している。岸田劉生や萬鉄五郎,木村荘八などの若い画家たちは,光太郎や斎藤の帰国後の論評や、文芸誌『スバル』『白樺』などが1909年ころからたて続けにおこなってきた後期印象派からフォーヴィスムにいたるまでのフランス現代絵画の紹介といった状況のなかで育っており、とりたててドイツ表現派の紹介はなされていない。しかし,それでも杢太郎はドイツ表現派との類似について言及したのであった。」(三重県立美術館館長陰里鉄郎)

 1912年、岸田劉生や高村光太郎らの結成したフュウザン会に参加している。萬は、その頃日本に紹介されつつあった、ポスト印象派やフォーヴィスムの絵画にいち早く共鳴した。特にフィンセント・ファン・ゴッホやアンリ・マティスらの影響が顕著である。黒田清輝らのアカデミックな画風が支配的であった日本洋画界に、当時の前衛絵画であったフォーヴィスムを導入した先駆者として、萬の功績は大きい。(Wikipedia)


 ここで、萬鐵五郎の有名な作品「女の顔」、「金切り声の風景」および「赤い目の自画像」を取り上げて、私なりの解説をする。

 萬は薬物乱用者?

 作品「女の顔」(1912年−1913年)



 この作品「女の顔」は、萬の有名な作品である。
 私には、この作品は一時期流行ったサイケ調の作品に見える。サイケ調の作品とは、LSD-25を飲んだとき見える幻覚を描いたものである。もし、この作品を米国の芸術家達に見せたらなんと言うであろうか?もちろん、一番多く出る意見はLSD-25等の幻覚剤を飲ん描いたと言うはずである。LSD-25を飲むと、身のまわりの何でもない鈍い色彩のものが色鮮やかになり、輪郭が虹色に滲んだり、歪んできたりする
 
 幻視は統合失調症の症状である。双極性障害でも幻視が表れる。
 そして、双極性障害は脳内神経伝達物質セロトニンの伝達異常である。またLSD-25は一部のセロトニン・レセプターと結合して、セロトニンの働きを増強する。つまり、双極性障害の幻視とLSD-25による幻視は非常に近いものである。

 あなたは、これがキュビスムで描かれたものに思えるのか?それとも、サイケ調に見えるのか?


 金切り声とは?

 作品「金切り声の景色」(1918年)



 この作品「金切り声の風景」は、萬の有名な作品である。
 もし、あなたが「時々、金切り声(金属を切る時に出る音のような、鋭くかん高い声。多く女の声にいう。きいきい声)が聞こえるのですが」と精神科医に言ったら、医師は幻聴を疑うはずである。
 なお、統合失調症(分裂病)の症状には、幻聴および幻視がある。

 それでは、この作品に描かれた景色はキュビスムか?それとも、幻聴・幻視を描いたものか?
 なお、そもそもキュビスムという言葉を選ぶこと自体が間違いであるが……。
 

 萬鐵五郎 自画像「赤い目の自画像」(1912年−1913年)



 萬は自画像を数点描いている。この「赤い目をした自画像」はそのうちのひとつである。一般的に自画像とは画家自身から見た自分の顔を描いたものである。もし、萬鐵五郎という巨匠を知らずに、作品「赤い目の自画像」に描かれた人物が作品「女の顔」および作品「金切り声の風景」を描いたと言われれば、この人物の精神に問題があると思う人が多いはずである。
 そして、萬は自身の作品を「人のまねをして描いたのではない。見えたとおり、感じたとおり描いている」と著書で言っている。


 作品「裸体夫人」(鉛筆、1912年頃)



 作品「裸体夫人」(1912年)と同じ頃制作された素描がある。これは、作品「裸体夫人」(1912年)を制作するための素描と思う。
 女性の足のところにあるものは、脱いだ服ではなく、あしから首のようなものが生えているように見える

 この感覚が統合失調症にみられる体感幻覚というもので、臓器が皮膚から飛び出したように感じるものである。
 
  統合失調症にみられる幻覚
  (1) 幻聴
     自分についての悪口や、批判・命令が人の声となって聞こえる。
     話かけと応対の形で聞こえることもある。自分の考えを声として聞くのは考想化声という。
  (2) 体感幻覚
     内臓が溶けて流れ出すなど、奇怪な内容が多い。
     その他、幻視・幻嗅なども起こることがある。

 「非現実的感覚が『自己』という現実に関連して起こる場合は、『自分の顔にクレーターのような円錐形の穴があいている』とか、『口がグチャグチャに裂けている』『顔が人並みはずれて大きい』『頭髪が抜けている(実際は抜けていない)』『自分は誰かに操られている』などと訴える人がいる。」(「幻聴・不安の心理療法」黒川昭登・上田三枝子著、朱鷺書房)


 萬の作品評価

 萬の作品に対する評価は、美術評論家と一般収集家との間では非常に大きなギャップがあると言われている。
 明治時代の絵画は、脂派および外光派に見られるように西洋の模倣であった。しかし、大正時代の絵画は、「自我の解放」という画家の独自性で描かれ、それにキュビスムおよびフォーヴィスムの様式が加わった。そのため、当時の最新絵画を描いていた萬の作品評価には混乱があったのだ。
 美術評論家は萬の絵画を「自我の解放」に加え、キュビスムおよびフォーヴィスムの様式で評価したのに対して、一般収集家は絵より受ける印象、はっきり言うと「気持ち悪い」という印象で評価したのである。これが、萬の絵画における美術評論家と一般収集家の評価における違いの原因と考える。

 この「気持ちが悪い」という理由は、萬は絵に心の内面を描いたため、絵には精神的問題が表れているからである。
 これらの絵画は、すべて古物美術商物故堂から購入したものである。
 物故堂は、作品を観て真作と判断したものを東京美術倶楽部に鑑定依頼をし、保証書の取れたものを美術商に販売したり、または自身で販売している。このような仕事を30年以上行ってきた方である。
 つまり、この物故堂からインターネットで出品されるものは、この方の篩いに掛けられた後のものである。悪く言えば、残りかすである。
 しかし、この人は非常に誠実であり、また話には嘘がない。
 そして、入手した作品はその所有者の懐具合も非常によく知った人である。
 
 古物美術商物故堂の意見

 物故堂がオークションに参加してちょうど丸2年が経過しました。この辺りで私の絵に対する考え方を今一度整理をし直し来年度に向けての指針としたいと思います。今後、物故堂のオークションに参加される皆様に私の考え方をご理解いただきオークションを楽しんで頂きたいと思います。まず、私の基本は初出しの作品の研究に有ります。美術の研究を始めて30数年になりますが、人知れず薄暗い屋根裏や開かずの蔵の中に数十年間に渡り陽の目すら見れずに眠り続けている作品を蘇らす事に魅力を感じた事がきっかけでした。夭折の画家を始め戦前の私が認めた若しくは好きな物故作家を中心にそこら辺の美術館の学芸委員よりも、時には学芸課長や館長よりも遥かに美に対しての見識と知識と良識を持ち合わせて日々研究をしております。絵を見るときに一番大切なのは偏見と先入観を一切取り払う事です。しかしながら、非常に残念な事に今の美術研究者や美術評論家をはじめ、業者間で作る鑑定機関等を含め余りにもこの先入観や偏見、偏った絵の見方をする人が多すぎるのです。特に最近の美術館学芸委員などは自分の意見を言わない連中も多い。昔は萬鉄五郎の研究で権威が有り又、その他の絵に関しても非常に良く絵の判る人であり、特に萬鉄五郎の絵について私にとって良い勉強をさせて頂いた陰里鉄郎先生や藤島武二の絵について色々教えて頂き助けて頂いた事もある隈本謙次郎先生、青木繁や坂本繁二郎及び古賀春江に関して、非常にためになる教えを受けた元京都近美の館長で後に美術界のドンにまで昇りついた河北倫明先生など、今思えば絵の良く判る人がいた。明治美術の権威の青木さんにも色々勉強させて頂いた。面白い親爺であるが。これらの先生方には昔本当に大変お世話になった。しかし、その逆でその昔、館長クラスのそれも、鎌倉の近代美術館で土方さんの弟子達でさえ絵の判らない人も数人いた。その中の1人で文章を書くのは非常に上手いが、この全く絵の判らない1人のために、私の尊敬する河北先生や陰里先生が佐伯の贋作騒動に巻き込まれ、悲運を遂げられた事には憤りさえ感じる。余談だが土方さんには村山槐多や関根正二の絵に世界の事で非常に勉強になった事を記憶している。それがどうだ。槐多や関根の絵など全く研究もせず、彼らの絵の本質を知りもせず扱ったことさえ無い所詮画商たちの集まりである東京美術倶楽部が、権威だか何だか知らないが所定鑑定人になっている。もういい加減にして欲しい。槐多や関根だけではない。その他にも自分達では判らない多くの作家(浅井忠・古賀春江・三岸好太郎・今西中通・松本俊介等数え上げれば限が無い)の所定鑑定人になっているのだから、呆れるばかりだ。彼らに言わせると私の意見など馬耳東風だろう。

 以上の記載からも、この方は美術に関してそれなりの知識と自信があることは確かである。
 また、誠実な方と言うことを何度かのメールのやりとりでよく分かっていた。
 それでは、「屋根裏部屋の美術館」所蔵の萬鐵五郎作品を紹介する。

 作品「ガラス器に盛られた果物」(仮題、屋根裏部屋の美術館蔵)



 出品者(古物美術商物故堂)による作品紹介

 本作品は非常に筋の良い美術品愛好家の先代の贓品で処分をご遺族から依頼を受け、東京美術倶楽部に鑑定に回した作品です。この絵を銀座の目利きの画商に見せた所、「是非とも欲しい。しかし、値が張っても良いので倶楽部の鑑定書を付けて欲しい。これは間違いが無いと思うので、鑑定書は取れるだろう。」という意見でした。当然、私も同じ意見であり、依頼人からも「出来るだけ高く売りたい。」との事でしたので、迷わずに鑑定会に回しまた。しかし、残念な事に一回目の鑑定会で保留となり、信じられない心境でした。結果的には非常に残念ながら、鑑定書が発行されなかったという事実だけが残りました。どうしても納得できず、知り合いに調査を依頼した結果、どうやら、鑑定委員の中では反対意見は無く、又、絶対の自信が有る人も居なかった。即ち否定材料は無いと言う事です。にもかかわらず、東京美術倶楽部鑑定委員以外の誰かの意見により結果的に証書が付かない憂き目を見た作品です。極めて遺憾。真筆が死んだ瞬間でした。私は完璧に萬の真筆と思いますし、銀座の目利きもそう信じて疑わない。恐らく萬を良く知り研究している人なら、この絵を否定は出来ないと思います。

 私の作品解説

 セザンヌ風に描かれたこの作品を観ると、桃、栗、柿などが描かれている。桃の季節には、栗、柿はない。左下には湯飲み茶碗が描かれている。部屋で、何も置かれていない机を凝視し、キャンバスに向かって描いたのだろうか。暗闇で目を見開き、ねらいを定めているようである。萬の言葉を借りるなら、「疲労の極度に達しながら あらゆる精力を集中して どこまでも描き続ける。カンバスと私の心との間に 一点の隙も見出せない画面を得るまでは筆を擱くことはしない」、このような集中力で描いたような作品である。
 この作品をデジカメで撮り高品質コピー紙に印刷し、窓に貼り付けると非常に繊細な色使いを発見する。しかし、「色彩が暗い」という問題を抱えている。
 また、この作品は、萬の静物画「パイプのある静物」、「手袋のある静物」、「薬罐と茶道具のある静物」および「筆立のある静物」等と比較して明らかに異なっている。これらの静物画は数多くの静物が雑然と配置され、ポイントが定まっていないのでものである。この「ガラス器に盛られた果物」は、ひとつにポイントが定まっている。静物画の描き方にも嗜好があるはずだ。鑑定家が観ればこの絵は萬の作風と異なっていると言うはずである。
 もし、萬が描いたとしたら、双極性障害での鬱状態の一番酷いときである。贋作者が描いたとしたら、これは萬の作品群と明らかに違うものを描いたと言うことである。


 作品「中*島風景」(1923年、屋根裏部屋の美術館蔵)



 出品者(古物美術商物故堂)による作品紹介

 本作品は大阪の旧家のご老人が十数点まとめて京都に持ち込まれ、全て素晴らしい作品群でしたので即座に買い取りました。どの作品も非常に力が在り、非常に質の高い作品ばかりです。本作品も萬の湘南風景に通じる作風であり、色使いや、構図の取り方、特に前面に樹木を描きそれも萬作品に共通する樹木の描き方、向こうに水面が在り、小屋が描かれている。筆使いに非常に特徴と力が有ります。全てに於いて萬鉄五郎の作品と言わざるを得ない。正しく萬の真筆でしょう。表面には漢字でサインと年期大正十二年。裏面には署名が在り、これも筆跡から見て萬の自署でしょう。右下に題名らしき物が鉛筆で書かれております。「中*島風景」とあり真ん中の一字が読みにくい。来歴はこのご老体が奈良の知り合いから分けて頂かれたとの事。この奈良の知人が萬鉄五郎の大コレクターでありました。此の方から岩手の美術館や記念館などは大量に萬作品を譲って頂かれたとの事。委細は不明ですが、この絵を見る限り、少なくとも私は完壁に萬鉄五郎の真筆であると判断しています。

 私の作品解説

 「大正12年 中*島風景」と記載が有ある。この絵は、一瞬何が描かれているか分からない。しかし、よく見ると山々、池および建物等が描かれていることが分かる。出品者がデジカメで写した画像をパソコンのディスプレーを通して観ると、空は暗い中にも明暗がくっきりと描かれている。すべての景色がしっかり描かれている。ただ暗いだけである。この「ただ暗いだけ」と言うことは、作品「ガラス器に盛られた果物」と共通する。
 この絵画を萬の作品としたら、双極性障害での鬱状態の酷いときと考える。その場合、行動範囲は限られる傾向があり、故郷土沢を描いたものでない可能性は高いはずである。そこで、インターネット地図検索で茅ヶ崎付近を調べた。すると、柳島に隣接した処に中島という場所がある。柳島のことは、「湘南に居て」(鉄人画論)に記載されている。この絵をパソコンのディスプレーより観ると遠くに3つの山が描かれているのが分かる。ただし、実物の絵画からでは分かりにくいものである。茅ヶ崎市中島で、この風景が描かれたと考えられるは場所は、現在ゴルフ場であるが、この辺には多くの池があったことは地形上から分かる。柳島側より中島を見るとその延長線上には丹沢山および大山等がある。しかし、地図より推察すると、この丹沢の山々は中島より眺めるとこの絵画のように広がっては見えないはずである。しかし、萬は日本画の描き方として、日本画の形式通り描くことの利点を述べている。このことはこの作品が萬の作品であるというひとつの根拠ともなる。また、中島と考えたが、「中」と「島」の間の意味不明な字は、字の記述のためらいであり、字とならなかったものと判断した。そして、萬の手紙等に見られるように、読み取ることが出来ない文字が多くあることも萬の特徴である。萬は学歴に問題もなく、出筆活動もしていたので、統合失調症のひとつの症状である「認知障害」によるものと考える。
  これは、萬が描いたとしたら双極性障害での鬱状態の一番酷いときである。贋作者が描いたとしたら、これは萬の作品群と明らかに違うものを描いたものであり、たとえ道ばたに落ちていても誰も拾っていかないひどい作品を作りながら、手紙等に見られる「読み取ることが出来ない文字」という萬の特徴をよく捉えているものを作ったということである。


 作品「川辺風景」(仮題、紙、T.Yorozu、所有者不詳)



 出品者(古物美術商物故堂)による作品紹介
 この作品は恐らく岩手県の花巻風景ではないかと想像しております。古い萬の文献を見ると萬作品は「実風景をまるで草書の様に描く画家」と当時の萬の弟子が言う。萬に弟子は居ないが、実は萬の手伝いをしていた画学生が居た。それがあの有名な絵の「水着の少女」のモデルです。この作品は筆の勢い・筆使い・色彩・構図等全て萬鉄五郎であると私は考えております。この様な絵を萬以外は描かないし描けない。サインも力強い「T.YOROZU」筆記体で書かれている。サイズは6号・ボール紙に油彩。出所来歴は私の父の代からのお付き合いの有る仙台の旧家の贓品でした。

 私の作品解説

 川の流れが非常によく描かれてる。「川辺風景(長谷川ハツ)」と同様大正12年(1923年)の作品としたら、それまでの萬の作品と比較して、のびのびとした良いタッチで描かれている。しかし、空および山等に使われている色に色彩感覚の異常を感じる。色彩はまるで小学生のぺんてる画のようなものである。このような色彩を用いたものは萬の作品にはない。また、萬は油彩画では川の風景を一度も描いていない。
 この作品を観て、萬の作品かどうかを問われるなら、萬の作品には全く見えない。そして萬が描いたとしたら、精神状態が双極性障害での鬱状態より回復して非常にハイなとき(躁状態)に描いたものである。
 なお、普通の人はこのようなハイな感じで描くことはない。異常に明るい作品は、異常に暗い作品を作る人に見られる。これは双極性障害によるものである。
 
 私はこの場所を柳島と考える。柳島は大正時代には多くの河川があり、非常に美しいところで、また、多くの蛍が飛び交うところだった。現在、その風景は河川工事等で失われている。
 そして、萬は療養していた時期、柳島に絵を描きに行っていた。


 作品「川辺風景」(仮題、1923年、長谷川ハツ、屋根裏部屋の美術館蔵)



 出品者(古物美術商物故堂)による作品紹介

 本作品は間違い無く萬鉄五郎の作品です。今まで物故堂で出品してきた作品の中でも群を抜いて一番の作品です。正しく萬鉄五郎の真筆だと私は考えて居ります。誰が何と言おうとです。絶対の自信が有った為に東京美術倶楽部へ鑑定に出しました。其の時点では裏面の張り紙、即ち旧蔵者の特定が出来ていませんでした。画風や色彩・構図・時代・サイン等全て文句無く良い。無論画集等に掲載されている作品は萬の作品の中でも出来の良い作品ばかりです。それらと比べると少しは見劣りがするのは否めない。・・鑑定の結果・特に反対意見は無、しかし不思議な事に保留。萬は全て保留なのか?一体何処にこの絵を見せて誰が否定をしたのかを知りたいが、決して美術倶楽部は口外しない。残念ですがそれも仕方が無いのか?何故、何処かと聞きたいのが心情でしょう。とにかく否定されてしまった事実だけが残った。無論、最終には東京美術倶楽部の決断でしょうが。保留の間に裏面の書付「萬先生より頂戴したお作・於茅ヶ崎 大正十二年 長谷川ハツ」と在り、この長谷川ハツさんとはいかなる人物かを知り合いの神田の美術書の店主が古本から発見してくれました。50年ほど前のみずえに載っておりました。画学生の頃、萬先生に絵を見てもらい、そして御手伝いをしておられた、又、あの晩年の緑色の水着を着た女性が長谷川ハツその人だったのです。茅ヶ崎でよく先生と交流をされていた方の旧蔵品です。私は本作品は絶対に萬鉄五郎の真筆と考えます。

 私の作品解説

 この作品の色彩は他の作品と違い、色彩等に問題のないものである。この風景は、上記作品「川辺風景」と同一場所と考えるし、同様にのびのびとした作風に描かれている。萬の油彩画にはこのようなのびのびとした作風のものはほとんどない。つまり、「川辺風景」と同様に、萬の作品には見えない。
 またこの二つの作品は、同一デジタルカメラで撮影された画像(物故堂撮影)を私のパソコンディスプレー上で観察すると、岩の色調(緑色および茶色の部分)は全く同一であった。そして、材質および署名が「紙。油絵。署名:T.Yorozu」で同じである。
 これらから、この二つの作品の作者は同一の人と考える。
 贋作者は、当然萬の研究をしているので、「長谷川ハツ」さんのことも「萬鉄五郎晩年の想い出」(原精一「みずゑ」No.681,1961年11月、美術出版社)でも読んで知っていた可能性がある。贋作者が制作したとしたら、萬を良く研究してまた絵自体もよくできている。二つの作品は、同じ人が描いたはずと思うが、それでは贋作者は、描き方の種類を二通りとすることによりどちらかが売れるとでも考えたのだろうか。もし、贋作者が異なれば、萬はこのような風景を一度も描いたことがないのに、二人の贋作者は全くの偶然にこの同じ景色を描いたことになる。そして、そのうちの一つは、色彩は今までにない異様なもの(彩度は上部が高。彩度に問題)である。また、私には「宙腰の人」、「羅布かづく人」および「水着姿」の一連の作品も異様な色彩で描かれていると思う。


 作品「梅林」(屋根裏部屋の美術館蔵)



 出品者(古物美術商物故堂)による作品紹介

 本作品は鎌倉の旧家の贓品です。東京の知人からの依頼で鎌倉へ土蔵の整理に出かけました。庭に増築の為、土蔵を撤去するとの事。土蔵の中には様々な古い作品が在り、ガラクタから美術品まで様々でした。知人の陶器の専門家や日本画の専門家と一緒に行き油彩画は私が処理を担当します。今回、素晴らしい「萬鉄五郎の真作」と思われる作品2点を手に入れました。1点が4号の板。もう1点が6号の板に油彩画です。共に新聞紙に包まれた状態で見つけましたのでが、この絵には残念ながら額は有りません。これらの絵は、その存在すら先代には忘れ去られていた作品でしょう。今、暗い長い年月から再び日のあたる場所へ、と思いましてオークションにて全国の萬鉄五郎ファンの元へとお送りします。蔵出しで現状出品です。汚い部分はクリーニングをして汚れを落としておりますが、無論経年の傷みや・擦れ・焼けはご承知置きください。絵の支持体は板・技法は油彩・サイズは6号・額は有りません。表面にはサイン「万鉄五郎 写」・裏面には題名「梅林」萬鉄五郎。画像でご確認ください。この画風はどう考えても大正の初期である事は明らかです。筆の勢いや色使い・板の古さ、力のある真似の出来ないサインも含めて、色々な角度から判断して、少なくとも私は完全に「萬鉄五郎の真作」と思います。
 これは私の意見です。意見は様々有って良いですが、この絵には自信が有りますが、未鑑定の為、保証は無しでお願いします。

 私の作品解説

 この「梅林」は「中*島風景」ほど暗い色彩ではないが、二つの作品の色彩は類似したトーンである。ある画家が怪奇小説の挿絵に描いたような感じすらする絵画である。この作品は、東京美術倶楽部に鑑定を依頼したものではない。
 この「梅林」も、萬鉄五郎「池」(大正5年、1916)と同じ感覚が得られるはずである。なにか異様な世界に入り込んだような感じがするものである。
 また、この「梅林」にも萬がよく描く「道」が描かれている。「梅林」を描きながら「道」を描いたのである。


 作品「塀の見える風景」(1916年、屋根裏部屋の美術館蔵)





 出品者(古物美術商物故堂)による作品紹介

 本作品は極めて良質で非常に力が有る作品で、色彩及び筆捌きや構図に至るまで、何を見ても萬鉄五郎そのものです。この絵を見つけた時には相当汚れがひどくて表面のサインが判りませんでしたが、クリーニングをした後にサインが出てきました。無論、裏面には張り紙と書付が御座いましたので、萬の作品で有ると言う認識は出来ておりましたが・・。大正五年・萬鉄五郎と裏面には墨書で書かれております。裏面右上部には張り紙が有り「塀の見える風景」と朱で書付がございます。しかし、これは萬の自署なのかどうかまでは判りません。少なくとも私は素晴らしい良い作品(間違いの無い作品)だと判断して、東京美術倶楽部に鑑定に出しましたが、残念ながら結果は駄目でした。仕方の無い現実が其処にはございます。いくら私が間違いの無い作品と判断しても鑑定委員のメンバーが「良し」としなかったのです。たいして「萬の絵」を知りもしない鑑定委員だとしても、それがこの世界「美術業界」の現実です。絵は4号板で、絵の状態は極めて良好で剥落やその他擦れや傷み・割れ等は一切ございません。又、額はございませんので、落札者様がこの絵に合う額装をしてお楽しみ下さいませ。以上の経緯を全てご理解の上、この絵を自分の目で見て判断して、気に入った方のご入札をお待ちしております。この機会に是非とも非常に質の高い、鑑定書という物は付きませんが、少なくとも私は「萬の真筆」として疑わない作品を全国の萬ファンにコレクションして頂ければ幸いです。

 「塀の見える風景」が出品される前に、出品者からメールを戴いた。

 出品者からのメール

 「今回、東京美術倶楽部に作品を5点鑑定に回しました。4点が真筆と判断され1点が鑑定書を取得できませんでした。この1点は再び萬鉄五郎です。この5点の内、絶対に間違いの無い作品が萬と三岸節子です。三岸節子は初期の作品で画室を描いた作品でした。これは完璧です。同じ出所で三岸好太郎も少し怪しかったが鑑定書が取れました。そして同じ所蔵家の萬鉄五郎だけがだめでした。保留にもせずに調べもしないで不見識この上無いと思います。この萬は今までの作品以上に完璧な明治末から大正の初期の素晴らしい作品です。絶対に諦める事が出来ない作品です。中村様が萬のページを持たれるのであれば、本作品は必要と考えます。もしも、ご購入の意思が有る場合はお知らせ下さい。高いですが価値は十分有ります。鑑定書は付きませんが間違 い無く真作です。価格は50万円(原価が35万円+鑑定代・諸経費7万円)です。もし、購入を決められたとして、直接原画を見て気に入らなければ返品を受け付けます。残念ながら私は画像を添付したり、その他コンピューターの操作に不慣れな為に画像を送る事は無理です。絵は4号で板・額は元額です。表面にはサインが有り「T.YOROZU 裏面には張り紙「塀の見える風景」と有ります。萬の力のある初期の独特な筆致・色彩・構図等全て完璧な作品を、やはり鑑定委員には萬の絵は難しいのでしょう。残念な事ですが・・・」

 私の作品解説 

 この絵画と同じ題名で同じような風景の絵画が平塚美術館にある。その制作年度は1915年である。この入手絵画は1916年である。
 出品者が言うように、この元所有者の作品の内5点を東京美術倶楽部に鑑定に回し、4点が真筆と判断され1点が鑑定書を取得なかったものが萬鉄五郎の作品である。この所有者は、萬の作品だけ贋作を掴ませられたのだろうか。
 この絵画は統合失調症の特徴が出ている絵画である。それは色彩感覚の異常(緑と赤の組み合わせ)、ゆがみ・揺れだけではなく、「年」という字の記載ミスがあるからである。「色彩感覚の異常(緑と赤の組み合わせ)、ゆがみ・揺れ」は贋作作成者がたんに萬鐵五郎の絵画をまねすることで出来るものであるが、「年」という字の記載ミスまでは、なかなか考えつかないことだと考える。 萬はよく文章を書いていた人である。また「大正」という字を見ても書き慣れていることがよく分かるはずである。「年」という字が出てこないのは、認知障害であり、「アルツハイマー」、「統合失調症」、「気分障害」等が考えらる。作品「中*島風景」も同様に、「*」は「島」の書き損じである。


 作品「石榴」(1923年、屋根裏部屋の美術館蔵)



 出品者(古物美術商物故堂)による作品紹介

 本作品は非常に貴重な萬鉄五郎の静物画「石榴」です。制作年代の記載が無い為に詳細は判明しませんが、非常に萬らしい作品だと私は思います。この絵を数年前に鎌倉の旧家で見たときは感動すら覚えました。去年の暮れに東京の業者がどうしても分けて欲しいと言うので高値を言うと、それなら美術倶楽部の鑑定書を付けて欲しいと言われました。仕方なく鑑定に出しましたら、結果は×・・・・・あきれ果ててどうしようもなくこの絵を気に入って下さる方が居られるかも知れないのでオークションで売却を決めました。様々な角度から判断して少なくとも私は完璧に萬鉄五郎の真筆と判断して居ります。後はこの絵を気に入った方が自分の目で見て判断してご入札して頂ければ幸いです。絵の支持体はキャンバスのみ(木枠なし)・技法は油彩・額装(ガラス有り)・サイズはサムホールです。表面には漢字でサイン「鉄」・裏面には自署(墨書)で「石榴」大正十二年・萬鉄五郎と書かれております。画像でご確認ください。画面の状態は非常良いです。
 (出品者の作品紹介に対するコメント:「制作年代の記載が無い為に詳細は判明しません」とありますが、後に「大正十二年」と記載されています。また、「仕方なく鑑定に出しましたら、結果は×・・・・・あきれ果ててどうしようもなく」とありますが、過去に数多くの作品を鑑定に出し、幾つかの萬鉄五郎の作品だけが真作の鑑定結果が得られなかったためです。)

 私の絵画解説

 この絵画に描かれているものは、「葡萄、青リンゴ、石榴」ではない。
 この絵画を描いた人は石榴が次のよう見えたのである。「熟した石榴を引き裂くと、赤肉を引き裂いたように見える。こぼれ落ちたまだ熟してない青い粒は巨大化していく。青紫の塊は私に迫って来る。」 つまり幻視を描いたものである。
 この絵画の作風も萬鉄五郎の作風とは異なるものである。研究者が言う「デフォルマション」などというものでは決してない。つまり作風から真贋を判断する萬の研究者には真作とは判断できないものである。
 統合失調症の重要な症状に幻視と幻聴がある。これは明らかに幻視を描いたものである。なお、萬の作品「金切り声の景色」(大正10年、1921)は言い換えると「統合失調症患者の幻聴、金切り声が聞こえる風景」である。


 これらの作品に共通していることがある。それは、「色彩感覚の異常」である。「ガラス器に盛られた果物」に描かれたその暗さは、まるで闇の世界を描いたようなものだ。また反対に、「川辺風景」は闇から出てきたとき感じる光の世界のようだ。これらに共通している「色彩感覚の異常」は「精神の異常」を示すものと考える。 
 

 萬の絵画に対する姿勢

@ 意識と無意識との間に神秘にして成るのが芸術です。(「自分の出品画雑感」)
A 人間の生命が爆発して隙間のない表現を要求する時必ずしも材料を考える要はない。手近にあるどんな材料でもよい筈だ。水絵具でも木炭でも又は万年筆でも墨でもなんでもよいと思う。只何を持ってでも爆発させればよい。(「水彩画と自分」)
B 目を開いて、正直に見るだけにしなくてはいけない。そうでないと、色々な概念が飛び込んで来る。樹木、室、人間、犬、土、自然等という概念がそれだ。僕はこれらの概念を極力排除する。外界が、目を通じて神秘な我々の力を呼び覚ます。これがすなわち美と言っていることだ。我々がかく描こうと意志すること、それが美なのである。それで美が、個人にくっついているという事に気が付く。(「鉄人独語」)
C 僕によって野蛮人が歩行を始めた。吾々は全く無知でいい。見えるものを見、きこえるものを聞き、食えるものを食い、歩み眠り描けばいいのである。未来立体派は正しくは文明的産物と見ねばならない。だから浅薄なのである。原人は自然そのものである。吾々は自然を模倣する必要はない。自分の自然を表せば良いのだ。円いものを描いたとすれば、それは円いものを描きたいからなので、他に深い意味も何もない。(「鉄人独語」)
D 絵を作る態度に二つの種類があると思います。求心的性質のものと遠心的性質のものです。前者はつまり内向的です。後者は自然外向的になります。求心的のものは自分の人間を奥の方へと究めていく働きです。個を深めることです。 
 遠心的のものは他に見せようとする意識が根拠になります。他に働きかけようとします。外に向かって発散しますからどうしても中心が稀薄になります。(中略) 
絵画が芸術となり得るにはどうしても内面的にならなくてはなりませんが、従って求心的でなければならないと思います。斯くの如き問題も要するに作家の人間に帰って来なければ解決されないはずですから、先ず第一に人間を作ることが大切と考えます。
 画家が人間を作るにはどうしたらよいか、それはどうしても一筆一筆の間に練る外にないでしょう。(「自分の考えを言う」)
 
 萬の絵に対する姿勢は、単に技術の模倣だけではなく、自分の内面つまり精神を描こうとしていたのである。萬の絵すべては、萬が目を見開き、心に感じたものを描いたのある。
 

 萬の作品について

 萬の研究者は、「自画像」をユーモア、「丘のみち」をキュビスムもしくはキュビスムへの抵抗、「薬罐と茶道具のある静物」をデフォルマションそして「木の間から見下ろした町」をキュビスムへの抵抗等と捉えている。
 しかし、私は「自画像」を萬の精神状態である鬱状態の自画像であり、そして、「丘のみち」、「罐と茶道具のある静物」、「木の間から見下ろした町」を統合失調症患者の幻視に近いものであり、それは、萬が見たものであり感じたものであると捉えた。
  

 萬の絵画について、萬が臨んだ姿勢、美術評論家の評論、そして私の見方について記載する。 萬の作品を年代別に取り上げ、忌憚のない意見を述べる。

 「『論考』・・・キュビスムへの抵抗 一九一七年・一九一八年の萬鉄五郎」(中谷伸生)には次のような記載がある。
 
 「一九一七年(大正6年)から一八年(大正7年)にかけての時期、萬鐵五郎は苦悩していたといわれる。」「土沢時代以来、キュビスムが彼の絵画思考の核をなして発展し、それは見事な結実を見せたが、後述するように、大正七年あるいは八年と推定される作品には、色濃く絵画思考の苦悩の影が落されている。西欧の科学的な論理性をもった造形表現に正面から対決を試み、それを超克せんとする苦悩であった。」(陰里鉄郎)
 「周知のように、この時期の萬は、西欧のキュビスムの様式を前にして、ずいぶん頭を痛めていたようである。そのために、ついに神経衰弱に陥るほどであった、ともいわれている。」(小林得三郎)


 作品「雲のある自画像」(1912年−1913年、岩手県立美術館蔵)および作品「赤い目の自画像」(1912年−1913年)

 

 美術評論家による解説

 「雲のある自画像」(岩手県立美術館、大原美術館)二点こそは、萬の漫画表現の試み、と読むのは無理だろうか。前にも述べたように、わが国では、一般に、深刻は一流、笑いは二流として扱われる風潮がある。萬は、そのような習慣を、あっさりと乗り越えてしまった。」(「萬鉄五郎を辿って」 村上善男著)

 私の解説

 「赤い目の自画像」、「雲のある自画像」(1917年-1913年、岩手県立美術館、大原美術館):萬自身の精神を描いたものと考える。
 自分の顔を電球光下で観て描いた「赤い目の自画像」は、単にそのように見えた自分自身を描いただけなのか。電球の下では、誰でもこのような顔に見えるのか。赤い目は、寝不足からきたものなのか。それでは、「雲のある自画像」(大原美術館)に描かれている黒い雲と赤い雲はたばこの煙とでも説明するのだろうか。また、「雲のある自画像」(岩手県立美術館)のうつむいた暗い自画像は何なのか。
 これらの自画像は、この時期の萬の暗い内面(鬱状態)そのものが描かれている。萬自身が自分の精神に問題があり、それを冷静に見つめて描いたのである。


 作品「女の顔」(1912年-1913年)




 私の解説

 女の顔がこのように見えたときがあった。これは、統合失調症の患者が見る幻視である。幻視と妄想は、統合失調症の重要な症状である。
 また、「多幸性の双極性障害の患者は、双極性障害の患者の40%以下であり、そしてそのうちの3分の1は幻覚と妄想を抱く」ということがある。
 つまり、この絵を描いた人は統合失調症か双極性障害の患者と考える。


 作品「丘のみち」(1918年)

 学芸員等による解説

 「萬君の持つ幻滅感、皮肉、渋さ、楽天性といったようなものが大変出ていて、キュビスムが大分取り入れられてあった。前と異なって、黒っぽい、渋い色で、鬼気を感じるようなものもあった。萬君の不思議な内生活がむき出しに出ているようなものだ。」(「アトリエ」1927年小林徳三郎)、「内蔵模型のような」(石井柏亭)

 私の解説

 萬には、この景色が気持ち悪い内蔵模型のように見えた。これも、統合失調症の患者もしくは双極性障害の患者が見たものである。


 作品「薬罐と茶道具のある静物」(1918年)

 学芸員による解説

 デフォルマション(deformationは「変形」や「歪曲」)による形態のリズムを握んだのが《薬罐と茶道具のある静物》などの静物である。(田中善明 三重県立美術館学芸員)

 私の解説

 この「歪みおよび捻れ」は精神に問題があったとされる画家ムンクの作品「叫び」にも見られる。離人症、統合失調症および双極性障害の患者には、このように歪んで見えることがある。


 作品「木の間から見下ろした町」(1918年)



 学芸員による解説

 「小林徳三郎は、これらのモティーフを指して、「木なら木、家なら家の精霊」のようだと形容したが、確かに、この風景画には、われわれを不安に陥れるほどの〈薄気味悪さ〉が見てとれる。実に小林徳三郎は慧眼である。また土方定一は、多くの研究者たちによって、しばしば引用される次の文章において、この画面に、キュビスムの理知的でクールな様式とは正反対の、ある深い精神的な内容を読みとろうとした。」([論考] キュビスムへの抵抗 一九一七年・一八年の萬鐵五郎 中谷伸生)

 私の意見

 萬の目からは、町は不安に満ち薄気味悪かったのだ。この絵にも「歪みおよび捻れ」がみられる。この「歪みおよび捻れ」は精神に問題があったとされる画家ムンクの作品「叫び」にも見られる。


 作品「金切り声の景色」(1921年)



 学芸員による解説

 「きわめて明晰な頭脳を持つこの画家にとっては、分析的で知的なキュービスムの画面構成は、捨てがたい大きな魅力を秘めたものと映ったにちがいない。」(三重県立美術館 中谷伸生)

 私の解説

 萬は、この景色から金切り声が聞こえたのだ。統合失調症の症状である幻聴である。
 この作品の題名をを言い換えると、「統合失調症患者の幻聴、金切り声が聞こえる風景」である。
 また、まともな精神の持ち主なら、誰もこのような絵を飾りたいとは思わないだろう。これも内蔵模型に見える。いや、内蔵模型以上にグロテスクである。


 作品「羅布かづく人」(1924年頃)



 学芸員による解説

 「ある主題を『演ずる』ことよりストロークの直接的な表出へ、安定から運動へ、表情を備えた裸婦から個別の顔を持たない人間の像へ。これらの変更をとおして、萬の考えるキュビスムの特徴が浮かび上がってくるだろう。(MK)

 私の解説

 「羅布かづく人」(1924頃)、「宙腰の人」(1924頃)、「水着姿」(-1926年)等は異様な色彩(極彩色?)で描かれている。そして、気持ちの悪い絵である。
 作品「夕日の砂丘」

 
 学芸員による解説

 色彩画家・萬の一面をも思い起こさせる作例であり、夕日を浴びて変化してゆく色彩風景に、純真素朴な画家の目が向けられている。(HY)

 私の解説

 一連の海岸風景を描いた作品は、快感を得る麻薬(エクスタシー)でも飲んでから描いたのだろうか?
 これは、双極性障害の患者が躁状態のとき描いたものである。


 忌憚のない意見とはいえ、研究者からみれば呆れ返るような意見であることは確かである。しかし、「萬鉄五郎ほど、各派の同業者から敬愛の念をもって迎えられていた画家も少ないであろう。その割合に、彼ほど鑑賞家から、名実共に好遇を受けていない画家もまだ少ないであろう」(鍋井克之・・・「萬鉄五郎の生涯と芸術」(陰里鉄朗))とあるが、萬鉄五郎の絵画の多くは気持ちの悪いものが多いと感じるのは私だけではないようだ。
 

 萬の性格

 萬の性格に関する部分を萬に関する解説書等より抜き出した。

@ 「この時はずいぶん勉強した。何も見も聞きもしない。二科会も始まったようであったがそんなものを見たいとも思わなかった。秋から冬、春から夏という風にどんどん描いた。(土沢時代)」(「私の履歴書」)
 →凝り性、仕事熱心 
A 「大正8年(1919年)・・・。この頃から、交友関係のあった画家達が気やすく萬アトリエを訪問し、その応接にいとまがなくなる。その上、生活のため引き受けて子供雑誌の付録のアイデアしぼりに熱中のあまり、過労と睡眠不足で神経衰弱気味となった。」「萬鉄五郎を辿って」(村上善男)
 →社交的、善良、親切、凝り性、仕事熱心、強い義務責任感
B 「鉄人画論(私の履歴書)(鉄人独語)(自分の考えを言う)」(萬鉄五郎)には、萬の絵画の取り組みが載っている。
 これには多くの絵画に対する信念が記載されている。また、南画家の菅原白龍の作品を巡って、文芸評論家の本間久雄と大論争を戦わしたことは「萬鉄五郎年譜」に記載されている。
 その他、数多くの絵画に対する精神論を美術誌に投稿している。
 →執着性格
C 1923年1月 小林徳三郎と共に「円鳥会」を結成。二科会の若い画家たち、後に1930年協会、独立協会の設立に加わった画家たちが多く参加した。
 若い画家達の面倒をみ、円鳥会設立の中心的役割を演じた。
 →模範的な人。まわりの人からみると確実で頼りになるので、責任ある要職に推される。
D 「萬鉄五郎 晩年の想い出」(原精一)には、「乞食になっても初心を貫徹せよ」とある。
 →執着性格
E 1927年2月 画友虫明柏太の遺作展の発起人となり尽力。(「萬鉄五郎年譜」)
 →善良、親切、模範的な人。他人への配慮。
 
 以上のような性格である。萬に関するどの本を読んでも、萬の優等生的性格は分かるはずだ。この優等生的性格というのは、気分障害(双極性障害および単なる鬱病)と非常に関係が深い。
                       
 
 気分障害になりやすい人の性格

 気分障害(双極性障害および単なる鬱病)は、性格と関連がある。気分障害になりやすい人の性格として、循環型性格、下田型執着性格およびテレンバッハのメランコリー親和型性格等が知られている。

1.循環型性格
 @ 社交的、善良、親切、温厚、明朗、活発、ユーモア
 A 平静、寡黙、陰鬱、気が弱い
 この@の性格とAの性格が循環するものです。 

2.下田型執着性格
 几帳面、凝り性、仕事熱心、強い義務責任感、模範青年、模範社員、思い込みが激しく、頭の切かえが難しい等の執着性格

3.テレンバッハのメランコリー親和型性格
 几帳面、善良
 メランコリー親和型性格の人は、責任感が強く、仕事熱心で、やる時は徹底的にやる。その一方で他人への配慮も忘れない。こうした人はストレスを受けやすい反面、まわりの人からみると確実で頼りになるので、責任ある要職に推されることも多くなる。
 
 以上の性格は、まるで萬の性格をそのまま言ったようなものである。萬の性格は上記性格の代表例である。
 その性格の人が、結核という当時では死に至る病を患ったのである。非常に強いストレスを受けたのだ。精神疾患は強度のストレスが引き金になる。彼は、大正1年頃から結核に冒されていたことは、「萬鐵五郎展」(編集:市川政憲、蔵屋美香、尾崎正明、田中淳 1997 朝日新聞社)をよく読めば分かることである。
 

 精神的問題を抱えたことを示す顔

 精神的問題を長く持ち続けると、顔の症状が変わる。萬は自画像を多く描いていたが、いくつもの自画像には眉間のしわが描かれている。



  
 萬鐵五郎の履歴よりわかる精神疾患

1885年(明治18年)
 岩手県和賀郡東和町土沢に長男として生まれる。萬家は屋号「八丁」と称し、回送問屋を営む資産家であった。
1891年(明治24年6歳)
 この頃、父八十郎一家は、萬本家「八丁」の筋向かい十二ヶ174番戸に居住することになり、戸籍も同地に移すが、鉄五郎は従弟昌一郎、弟冨太郎とともに、引き続き本家「八丁」の家族と暮らす。弟菊三生まれる。母ナカは、この頃より健康を害し、菊三も本家に引き取られて育てられる。
1892年(明治25年7歳)
 土沢尋常小学校に入学。この頃から絵を好み、武者絵に見入ったりする子供であった。
 めったに戸外で遊ばない内気でおとなしい子であった。

1893年(明治26年8歳)
 母ナカ(享年27歳)死去。
1899年(明治32年 14歳)
 この頃、日本画を独習する。一方落款印作りにも熱中する。
1900年(明治33年 15歳)
 土沢尋常高等小学校を主席で卒業、中学への進学は祖父に許されず、家にあって中学講義録等で勉強する。祖父長治郎は、将来を期待した一人息子の千代吉に天逝されたため、初孫である鉄五郎と嫡孫昌一郎手元から離すことを嫌い、当時貴重品であった写真機やヴァイオリンなどとともに必要な学用品はすべて買い与えて両名の歓心を買い、ついに進学を許さなかったと伝えられている。
1901年(明治34年 16歳)
 水彩画を始め、大下藤次郎著「水彩画之栞」を購読。大下のもとに作品を送り指導を受ける。
1903年(明治36年 18歳)
 進学への志を強くし上京。私立神田中学3年に編入学し、その後、私立中学育文館3年に編入学。私立早稲田中学3年に編入学。淡水会という絵画同好会に加入し、たびたび展覧会を行う。
 秋、ヨーロッパから帰国した大下藤次郎を青梅に訪ねる。
1904年(明治37年 19歳)
 伯母タダの勧めで、臨済宗円覚寺派の禅道場両忘庵に参禅するようになる。
1906年(明治39年 21歳) 
 サンフランシスコの美術学校で本格的な修業をすることを目指すが、この年におきた大地震で生活が困難になり、数ヶ月で帰国する。
1907年(明治40年 22歳)
 東京美術学校西洋画科に入学。予備科修了試験合格者28人中、首位の成績であった。
 在学中、しばしば級長を務める真面目な反面、奇行が多く伝えられる。
1909年(明治42年 24歳)
 浜田よ志と結婚。
1910年(明治43年 25歳)
 長女フミ(後に登美と改名)が生まれる。
1912年(明治45年 27歳)
 東京美術学校卒業制作作品「裸体美人」
 フュウザン会が結成される。(フュウザン会:斎藤与里を中心に岸田劉生・高村光太郎らが集い、様式は後期印象派からフォービスムに及んだ。13年の第二回展で解散したが、その個性強調主義は当時の画壇に大きな影響を及ぼした。)
 フュウザン会第1回展に出品する。
1914年(大正3年 29歳)
 家族を伴い郷里土沢に帰る。
1916年(大正5年 31歳)
 上京する。もともと転居癖のある萬は、以後短期間のうちに、再三再四転居する。
1919年(大正8年 34歳)
 転地療養のため、神奈川県茅ヶ崎に赴く。
1921年(大正10年 36歳)
 第3回帝展に「水浴する3人の女」150号を搬入したが落選。
1922年(大正11年 37歳)
 春陽会に客員として参加する。
 二科会内の前衛派神原泰,古賀春江,矢部友衛らは「アクション」を結成。
1923年(大正12年 38歳)
 若い画家たちを集め円鳥会を組織。このころから再び前にもまさる猛烈さで油彩の制作に没頭した。
1926年(大正15年昭和元年 41歳)
 前年暮れより病床にあった長女登美(享年16歳)が膀胱結核のため死去。萬は非常に落胆し、このころから精神的にかなり疲労する。 
1927年(昭和2年 42歳)
 結核性気管支カタルから肺炎を併発し、死去。
  

 6歳頃よりだいぶ淋しい時を過ごしたようである。そして、それは萬の精神が内へと内へと向かっていったと考える。

 統合失調症は10代後半から20代半ばにかけて好発する精神疾患であり、思考障害を根幹に持ち陽性反応と呼ばれる幻覚妄想状態の増悪と寛解が繰り返されるうちに、しだいに重篤していく、難治性の精神疾患である。
 統合失調症の症状には、陽性反応、陰性反応そして認知障害がある。
 陽性反応には、妄想、幻覚、思考障害(思考が支離滅裂になること)、奇異な行動がある。陰性反応には感情鈍麻、会話の貧困、快感消失、社会性の喪失がある。また、認知障害には、集中力、記憶力、整理能力、計画能力、問題解決能力等に問題があることを言う。
 統合失調症の主な要因は、遺伝的要因と幼少期の環境要因である。しかし、遺伝的要因がない限り、この環境要因のみで起きることはない。
 この萬鐵五郎の履歴には、統合失調症の患者と同じような行動が見られる。
@ 22歳頃より奇行が多く見られた。
A 郷里土沢に帰ったことや、何回も転校、転居を繰り返した。これは、社会性の喪失から起きたものである。
B 「長女の死後、精神的にかなり疲労する」とあるが、他者よりも精神の異常を感じられた可能性が大きいと考える。
 そして、統合失調症の患者は頭のよい人が多いようである。

 ただし、私は統合失調症と多幸性の双極性障害とは非常に近いものと考えている。また、萬の性格は、統合失調症ではなく双極性障害に関係のある性格である。


 萬が共感した画家 高間筆子(高間惣七の妹)について

 萬の文章「高間筆子氏の芸術に就いて」には次のような書き出しがある。「高間筆子氏の絵を初めて見て、ひどく感服したと言うよりは、寧ろ或る時期の自分が描いた絵のような気がする程、左様に共鳴させられたので、何とかして自分が感じた事の内容、彼女の絵に就いて自分の持つ考えをば、出来る丈はっきり、誰にでも分かる様に書いてみたい。」
 その高間筆子について調べた。彼女が絵を描いた時期は、異常な興奮状態のもとで描かれたものであることが分かった。異常な興奮とは、単にヒステリーというようなものではない。異常な興奮状態のもとで自殺をしたのである。享年23歳であった。
 精神に問題がある画家高間筆子の絵に対して、「ある時期の自分が描いた絵のような気がする程共鳴した」という萬には、その精神に問題があることが暗示される。
 これは、「精神に異常があるゴッホの絵を素晴らしいと評価した人の精神に問題がある」ということではない。つまり、「精神に異常があるゴッホの絵を模倣したわけでもないのに、ゴッホの絵と同じような絵を描いた人の精神には問題がある」ということである。
 なお、統合失調症の患者の自殺率は10%にもなる。彼女は統合失調症の患者によく見られる「異常な興奮」による自殺と考える。


 終わりに

 萬鐵五郎の絵画の真贋判定が難しいのは、鬱状態、躁状態があり、また、統合失調症のような症状の幻視があり、キュビスムやフォーヴィスムを描きながら、病状の増悪と寛解の組み合わせがあるためと考える。
 萬の絵画の描き方は、萬自身が言うように精神が感じたとおりに描くことを信条としていたのである。
 景色や自画像は、精神が感じたとおりに描いたのか。それとも、単にキュビスムをモディファイして、その技法だけを用いて描いたのか。もし後者なら、萬が主張していた絵画に対する精神論は単なる飾りであり嘘となる。萬は嘘をついていたのか。萬は決して嘘をつくような人ではないことは確かである。
 「ガラス器に盛られた果物」は、銀座の画商が認めるように大変素晴らしい作品である。この作品を超える従来の萬作品にはあまりないはずである。
 研究者はこの点をどのように捉えるのか?この作品を制作した贋作者は、萬鐵五郎より実力が上だとでも言うのか?
 なお、萬鐵五郎が精神に大きな問題を抱えながら描いたとしても、それは画家の評価を落とすものではなく、巨匠であるということのひとつの証明でもある。




 主な改訂内容とその理由

 
2007.1.6 改訂

 「躁うつ病(双極性障害)にミトコンドリア機能障害が関連」等(独立行政法人 理化学研究所 ホームページ)に双極性障害と単なる鬱病との違いが記されていた。そのため、「ここで言う双極性障害(躁鬱病)とは、躁状態と鬱状態という、二つの精神状態を特徴とし再発を繰り返す難治性の病気である。また、鬱病は、鬱状態のみを特徴とする病気で、これはおおよそ15%の人が一生に一度はかかるという病気である。この二つの病気の鬱状態の症状に大きな違いがないが、異なる疾患である」という一文を書き加え、ほかの文章上の用語(双極性障害、躁鬱病、鬱病等)を書き直した。

 2007.3.10 追加記載

 南東北医療クリニックのホームページで松澤大樹医師による精神障害の記載を見つけた。内容は以下の通りである。これにより、同一の患者で統合失調症と双極性障害の二つの疾患が見られることがあるという科学的根拠を得た。

 全ての精神障害が、うつ病、統合失調症、アルツハイマー病とこれらの組み合わせ以外ないことを知るに到り、にわかに展望が開けた。
臨床研究開始時の当時としては、MRI装置の中で世界最先端であった1.5Tesla装置である。
 普通の精神病はすべて(95%以上)うつ病と統合失調症の混合型であり、高次脳機能障害(内因性)という病名が最もふさわしいということが明らかとなった。
現在の精神医学では、うつ病と統合失調症が同一人に発症することはなく、特に統合失調症は治ることはないと信じられている。毎日の診療を通してこれが科学的に間違いであり、殆どすべての精神病が混合型であることが実証された。これは当科が診療に当たるにぴったりの内容であった。
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