屋根裏部屋の美術館

萬の見た風景

 はじめに

 萬の作品に描かれていた風景等を萬はどのように見ていたか。これらの絵画には、最初から最後まで不思議な世界が描かれている。一本一本の光が虹色に輝く世界、そして凝視するとものが現れる暗闇の世界。幻聴そして幻視。幸せにあふれる虹色の風景。


 さまよい込んだ不思議な世界

 私は二十歳頃より奇行が見られると言われた。しかし私は、奇行を重ねながらもすばらしい切符を手にした。それは、不思議な世界への切符である。この不思議な世界が、本当に存在するとは思ってもいなかった。

 私の住んでいた世界を紹介する。そこは、非常に美しいところである。すべての景色は、美しく輝く。私は、輝く光の世界に住んでいた。


 しかし、体調の変化とともに徐々にその美しい世界が変わってきたようにも思えた。


 

 「筆をとる自画像」:画家である私は、どのような時でも、プロとしての自覚を持ち、キャンバスに向かっていた。画家は、美を描くのです。美とは、心で見るもの感じるものだ。



 「赤い目の自画像」:最近、私は少し疲れている。 時々、気分がすぐれない時が多くなった。なにかが精神を蝕んできているのか。

 

 「梅林」:その日は気分がすぐれなかったため、気分転換に町に出かけることにした。途中、空模様が急に変わり雨になった。強い雨だったが、すぐにやんだ。空は薄暗いままだ。また歩き出した。ここは美しい梅林だ。
 梅林の道を歩いていくと、一軒の家が見えてきた。



 「女性の顔」:その家の前を通り過ぎようとしたとき、呼び止められた。「画家の萬先生ですね。この村では萬先生のことが噂になっていますよ。お疲のようですから休んでいってください。」 



 「堀の見える風景」:その婦人について行ったが、入り口から家まで何時間歩いたのか。どんどん薄暗くなっていく。そして家の中に招かれた。その庭には、川が流れ非常にすばらしものであった。



 「ガラス器に盛られた果物」:私に果物を勧めてくれた。昼間だというのに非常に暗い。



 「皿の上に置かれたガラス瓶」(個人蔵):そして、ここは暗闇の世界だ。また、幻想の世界でもある。暗い中で目を凝らすと望むものが見えてくる。この暗闇の世界も美しい世界だ。次々に思い浮かべるものが出てくる。



 「石榴」:幻想はさらなる進化を遂げた。熟した石榴を引き裂くと、赤肉を引き裂いたように見える。こぼれ落ちたまだ熟してない青い粒は巨大化して行き、青紫の塊は私に迫ってくる。


 ここで何年か過ごした後、また出かける決心がついた。

 

 「金切り声のする景色」:丘を越える途中で、辺り一面から金切り声が聞こえた。非常に大きな声だ。そう、この場所は金切り声が聞こえる場所なのだ。頭の中にガンガン響き渡る。私は気を失った。

 しばらくして起き出し、また歩き始めた。



 「町を見下ろした風景」及び「街路灯」:町が見えてきた。モヤのためだろうか、歪んで見える。町には街路灯がある。画家である私は、このモダンな街路灯がある町の風景を描くために来たのだ。



 「中*島風景」:歩き疲れましたが、少し行ったところに景色のよい場所があるのでそこに行った。町から少し外れたここは、非常に風景がよいところだ。林の向こうに池が見え、遠くには山々が見える。ここから遠くの景色を見ると、疲れが取れる。

 

 「梅林」(再び梅林):何年も町をさまよい歩いたのか。気が付くと町と私の村とをつなぐ道のある梅林へと来ていた。振り向くとこの梅林の景色は以前来た時と同じだ。咲き誇る梅の花をみると、来た時と今とは同じ季節だ。

 



 「川辺の景色」(長谷川ハツ)、「川辺の風景」:また、村に戻ってきました。近くの川に行った。しばらくすると、空は晴れ渡りった。住み慣れた村に戻ったせいか、気分は非常にすがすがしい。それは、春だからからだ。



 「夕日の砂丘」:村の海岸付近に出た。村の風景の美しさは、町にはない美しさがある。夕日の美しさはすばらしい。

 

 村人も素朴で、食事もおいしく、この茅ヶ崎はすてきなところだ。気分は「ルンルン」だ。

 
 終わりに

 もちろん、これらの絵画が描かれた時期および場所は違う。しかし、一人の画家が見た景色である。
 萬が戻ってきたところの風景(「川辺の風景」および「海岸風景」)は、非常に明るく描いている。萬は本当に我々の世界に戻ってきたのか。萬はまた、別の不思議な世界に迷い込んだのだ。


 蛇足的考察

 萬鉄五郎について知らない人に作品「女の顔」および「金切り声のする景色」を見せたらどのような感想を言うだろうか。たとえば、米国の精神科医に見せたら、ほとんどの人は @ 覚醒剤およびLSD-25等の薬物を使用したている人が描いたもの A 統合失調症の患者が描いたもの とたぶん言うだろう。けっして、美術研究家が言われるようなフォービズム等という意見はでないはずである。萬は、「僕によって野蛮人が歩行を始めた。吾々は全く無知でいい。見えるものを見、きこえるものを聞き、食えるものを食い、歩み眠り描けばいいのである。未来立体派は正しくは文明的産物と見ねばならない。だから浅薄なのである。原人は自然そのものである。吾々は自然を模倣する必要はない。自分の自然を表せば良いのだ。円いものを描いたとすれば、それは円いものを描きたいからなので、他に深い意味も何もない」(「鉄人独語」)と言っている。

 また、萬は数々の自画像を描いている。ここに描かれている人物の精神状態はどのようなものかと考えると答えが出てくる。

  
   
 萬鉄五郎の自画像について、次のような評論がある。
1. 「絶えず存在する不安と憂愁に満ちた一面をみせているように思われる。」「上目使い風の赤い目はいく分憂鬱気味なまなざしである。顔面、衣服の形態はキュービスム的な面に分割され、明暗のトーンは色面に置換されようとしている。その色調はつよく、筆触もはげしく、全体は表現主義的な画面となっている。」(陰里鉄朗)
2. 「絶えず存在する不安と憂愁に満ちた一面をみせているように思われる。」(陰里鉄朗)
3. 「背景には萬が好んだ色、赤と緑の芋型の雲が浮かんでいる。」(陰里鉄朗)
 「青春の高揚した気分を反映している。」(陰里鉄朗) 
 「『雲のある自画像』二点こそは、萬の漫画表現の試み、と読むのは無理だろうか。前にも述べたように、わが国では、一般に、深刻は一流、笑いは二流として扱われる風潮がある。萬は、そのような習慣を、あっさりと乗り越えてしまった。」(村山善男)

  彼は多くの自画像を描いた。それらはすべて苦悩しているような顔をしている。
1. 萬鉄五郎は、狂気とも言えるものが内面にあることを感じ、それを描いた。
2. 今にも自殺しそうな人の顔を描いている。非常に深刻な鬱的内面を描いた。
3. 非常に深刻な内面を描いた。一つの雲の自画像は鬱的な内面を描いたとしたら、これは混沌とした内面を描いたのだろう。
 これらの絵画に芸術性があるのか。私には分からない。

inserted by FC2 system