屋根裏部屋の美術館

国吉康雄 過去

2005.12.5
中村正明
masaaki.nakamura.01@gmail.com

 はじめに

 「屋根裏部屋の美術館」所蔵絵画、国吉康雄の初期絵画「裸婦」(1918年)を紹介する。国吉康雄の描く女性像は、なにか哀愁を帯びたものが多い。しかし、この初期絵画「裸婦」(1918年)は哀愁を帯びたというものではなく、恐怖が描かれている。この絵画を観た後は、彼の他の作品には適度な明るさがあるのが感じられる。
 

 国吉康雄 くによしやすお (1889-1953)

 国吉康雄は人力車夫の一人息子として岡山市に生まれた。1906年17歳の時アメリカに移民として渡り、シアトルやロサンゼルスで貨物運搬夫、農園の手伝い、ホテルのボーイなどの仕事をした。1910年 ニューヨークに転住し、ナショナル・アカデミイ・スクールで学び、1916年にアート・スチューデンツ・リーグに入学し、画家の道を進み始めた。その後、1922年に初の個展を開き、ジャーナリズムの注目を浴び、画家としての名声は確立した。
(注:「 国吉康雄覚え書」(針生一郎 みづゑ No.585)には、国吉は1906年、13歳の少年が、父からもらった200ドルをふところにしてアメリカに渡ったとの記載がある。) 




 作品「裸婦」(1918年、ギャラリー藤岡取扱、屋根裏部屋の美術館蔵) 



 作品解説

 この作品には、サラ夫人の鑑定書が付いている。しかし、日本では国吉康雄の作品鑑定は東京美術倶楽部が行っており、日本ではサラ夫人の鑑定書は何の役にも立たないものである。出品者は美術商「ギャラリー藤原」である。店舗を構えていた良質な美術商であるが、現在は規模を大幅に縮小している。この作品は、ギャラリー藤岡の真作保証絵画である。

 この作品は、1918年に制作され初期絵画とも言えるものである。この作品と類似するものもあるが、これは彼の内面を垣間見ることの出来るもっとも凄いものである。
 それは、若くして日本を脱出した原因が隠されている。
 
 この絵画に描かれているものは、「異国アメリカでの不安・苦悩等が作品発想の根底にある」というものではない。もっと深刻なものがある。心に静かに潜む得体の知れないものとでも言ってもよいかもしれない。
 この得体の知れないものとはなにか知るよしはない。しかし、アメリカに移民してから生まれたようなものではない。それは、幼小期より造り出されたものと考える。

 芸術家は、芸術により押し殺された内面をさらけ出すことが多くある。それは、一種のカタリシスとも言えるものである。
 しかし、絵画制作等で簡単に解消するものではなく、社会に認められ、人と協調して生きていく心地よさから解消できるのである。
 
 彼の作品は、波があるものの徐々に穏やかになっていった。


 作品「裸婦」




 作品「誰かが私のポスターを破った」(1943年)




 アメリカでの生活

 国吉は、ミラー氏の指導を受けた後の心情を次のように語っている。
 「それまでわたしは、はにかみといくぶん異邦人という感じからひとりも友人をつくらなかった。美術学生連盟ではじめて、生活が真の意味をもつようになった。孤独な放浪の自然な反動として、わたしは友人や仲間に飢えていた。・・・・・」(「 国吉康雄覚え書」針生一郎  みづゑ585)


 作品「禁じられた果物」(1950年)



 「エラ・シャープ(Ella Sharpe)によれば、絵画は元来外的なイメージ、幼児期のイメージであり、成人して白いキャンパスに映し出すことで作られるものである」(「芸術療法ハンドブック」C.ケイス、T.ダリー著 岡昌之監訳 誠信書房)とある。
 作品「禁じられた果物」(1950年)には、国吉の子供時代が描かれている。けっして、近所の子供をモデルにしたものではない。それは、壁に飾ってある子供が描いた絵からも分かる。

 スイカは箸で突き刺されて、積み重ねられている。取れてしまったテーブルの脚。そして、そのテーブルが倒れないよう子供が支えているのであろうか。子供は、無表情で積み重ねられたスイカを見ている。
 無表情の子供は、少し不気味でもある。
 「それまでわたしは、はにかみといくぶん異邦人という感じからひとりも友人をつくらなかった」という言葉に含まれている人との交流を避ける生き方は、この時から始まったのではないだろうか。
 ここで、子供が見ているのはスイカなのか。それとも、作品「裸婦」(1918年)に描かれている「得体の知れないもの」なのか。

 「生活と絵を描くことは一体のものだ。そこには秘訣というものはない。私自身の経験が自分になにかを教えることができるのだ。私は人間である。私は生活を制作に結びつけている。生活がなければ、絵は干からびたものになる。生活が豊かになれば、絵はそれだけ一層豊になってくるものだ。芸術家は人間であり、多分感受性が強いはずだ。だから芸術家は、他の人びとが悲劇的なことを理解する以上のことを理解するのだ」(「ヤスオ・クニヨシ 祖国喪失と望郷」村木明 みづゑ No.847)と言っている。
 子供が感情を押し殺して見ているのは悲劇的なことかもしれない。そして、悲しい女性かもしれない。この絵画に描かれている子供時代が、国吉が描く絵画の原点かもしれない。


 作品「カーニバル」(1949年) 



 カーニバルで悲しそうな仮面を付けて踊っているのは誰か。 
 その人は国吉自身である。仮面の下に隠された悲しみは、いつしか仮面自体も悲しいものに変えていったのである。
 子供時代より悲しみで凍り付いた心は絵のなかでしかそれを表せない。


 3枚の絵画から

 作品「裸婦」(1918年)、作品「禁じられた果物」(1950年)および作品「カーニバル」(1949年)から何が考えられるのか。

 作品「カーニバル」では、仮面なしでは生きていけない悲しみを背負った画家国吉康雄が描かれている。
 彼の性格を決定づけたのは、「禁じられた果物」の時代である。この絵画に描かれた家庭は国吉の家庭である。それを裏付けるのは、壁に掛かっている子供が描いた絵からも分かる。彼の家庭に大きな問題があったのだ。

 作品「裸婦」には何が描かれているのか。女性(モデルまたは娼婦)が描かれているが、普通の画家が娼婦を描いてもこの絵から受ける印象には至らない。人とは呼べない物体のように描かれている。妖怪のようでさえある。
 モデルを描きながら母親の姿を描いていると考える。
 つまり、「禁じられた果物」では母親のおぞましい行動あるいは生き様を見て凍り付いた子供国吉康雄が描かれている。
 それ以降、彼は仮面を付けなければ生きていけない人となったのである。
 それを裏付けるような絵がある。
 
 作品「失題(「啓示」の習作?)」



 作品「失題(「啓示」の習作?)」が、「仮面を付けようとしているの母と、それに抵抗している子供」に見えるのは私だけだろうか?


 

 私は、靉光作品を研究して、画家に絵の中に「顔」を描く画家がいる事が分かった。
 この国吉康雄もその一人と考える。

    

 これらは、色調補正した作品(「自画像」、「裸婦」(1918)、「裸婦」、「誰かが私のポスターを破った」、「カーニバル」)から一部を切り抜いたものである。


 終わりに

 作品「禁じられた果物」(1950年)に描かれている子供は、子供時代の国吉であることは間違いない。
 作品「裸婦」(1918年)を「彼の内面を垣間見ることの出来るもっとも凄い絵画」と言ったが、作品「禁じられた果物」(1950年)や作品「カーニバル」も同様に凄まじい絵画である。いや、作品「禁じられた果物」こそ、もっとも凄い絵画かも知れない。 


 履歴

1889年 岡山県岡山市に生まれる。
1906年 岡山県立工業高校染織科2年中退。渡米、ロサンゼルスに移住。
1907年 ロサンゼルス・スクール・オブ・アート・アンド・デザインに入り3年間学ぶ。
1910年 ニューヨークに転住。河邊正夫(インテリア・デザイナーの草分けとして活躍した人)と知り合う。ナショナル・アカデミイで3ヶ月間学ぶ。

1914年 インディペンデント・スクール・オブ・アーツで2年間学ぶ。
(第一次大戦 勃発)

1916年 アート・スチューデンツ・リーグに移り、ミラー氏の指導を受ける。(〜1920年)
新独立美術家協会展に初めて作品二点を出品。この時、画家にして蒐集家としても知られたフィールド氏と出会い、その援助を受ける。
1918年 作品「裸婦」(屋根裏部屋の美術館所蔵絵画)
1919年 アート・スチューデンツ・リーグの学友キャサリン・シュミットと結婚する。
1921年 ニューヨークのダニエル画廊のグループ展に作品2点を展示。
1922年 この年より、ダニエル画廊にて八回にわたる個展を開く。これを機に次第にその名を知られるようになる。
1925年 キャサリン・シュミットとヨーロッパを旅行。
1928年 キャサリン・シュミットと再度ヨーロッパを旅行。
1929年 ニューヨーク近代美術館の「十九人の現存アメリカ作家展」の一人に選出されて出品。
(世界恐慌)
1931年 病気の父を見舞うため帰国。

帰国し、毎日新聞社主催で東京と大阪にて個展を催す。その際、その独自な画風が多大な感銘を与え、二科会に迎えられて会員となる。
1932年 再びニューヨークに戻る。父死去。キャサリン・シュミットと
1933年
 母死去。ら1945年(終戦)までの間に七回の個展をダウンタウン画廊にて開く。また、平行してアート・スチューデンツ・リーグにて教鞭を執る。
1935年 サラ・メゾと結婚する。
1939年 第2次世界大戦始まる。
1943年 日米開戦以来の緊張で精神的・肉体的に体調を崩す。作品「誰かが私のポスターを破った」
1944年 カーネギー・インスティチュート年次展覧会で一等賞を獲得。これによりアメリカ画壇に於ける確固たる地位を占めるようになる。
1945年 終戦
1948年 ニューヨークのホイットニー美術館で、現存画家の回顧展の第一回として選ばれる。その後、晩年には美術家組合の会長に推され、またアメリカ画壇のベスト・テンの高位に選ばれることになる。
1949年 作品「カーニバル」
1950年 作品「禁じられた果物」
1953年 ニューヨークで死去。享年59歳。


 参考文献

 「 国吉康雄覚え書」 針生一郎 みづゑ No.585
 「芸術療法ハンドブック」 C.ケイス、T.ダリー著 岡昌之監訳 誠信書房
 「ヤスオ・クニヨシ 祖国喪失と望郷」 村木明 みづゑ No.847
 「アメリカ美術と国吉康雄 開拓者の軌跡」 山口泰二 日本放送出版協会


 参考作品「裸婦」 2点 (ニューヨーク・スクール派、屋根裏部屋美術館蔵)

 

 このような絵画が、ニューヨーク・スクール派のものである。
 この絵画は、キューバ産葉巻ケースを壊した板に描いたものである。
 また額の裏に貼られたラベルから、この絵の額を売っていた店は、ニューヨークにあり、日本人が経営していたものと分かる。


   

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