はじめに

 当美術館「屋根裏部屋の美術館」が所蔵する田中保「裸婦」を紹介する。
 この絵画はシアトル時代に制作された明るい絵画である。全体的に暗く描かれたシアトル時代と明るく描かれたパリ時代のそれぞれの作風において、作風変化が変化した直後の作品とも言える貴重なものである。


 田中保

 「戦前のアメリカとフランスで活躍した知られざる巨匠」と言われている。

 埼玉県南埼玉郡岩槻町(現・さいたま市)出身。海外で活躍したエコール・ド・パリの画家で、パリの画壇でサロンを中心に豊満で官能的な裸婦像を発表し、「裸婦のタナカ」として賞賛を浴びた。日本に一度も帰国することなく第二次世界大戦中のパリにおいて客死したため、その生涯はほとんど知られていなかったが、次第にその業績が知られるところになり、近年評価と関心が高まってきている。(Wikipedia)

 1934年にはエドゥアール・ジョセフ「現代美術事典」、1938年ティーメ・ベッカー「美術家事典」に、日本人としては藤田嗣治らとともに収録された。(「知られざる裸婦の巨匠 田中保 改訂版」浜靖史著、文芸社)

 田中保は、戦前では日本人として海外で評価された藤田嗣治とともに二大巨匠のうちの一人である。

 


 シアトル時代の作品「裸婦1」(ギャラリー愛取扱、フクヤマ画廊取扱、所有者不詳)



 シアトル時代の作品「裸婦2」(SBIアートフォリオ株式会社取扱、屋根裏部屋の美術館所蔵絵画)




 パリ時代の作品「裸婦3」(所有者不詳)



 3作品の解説

 この3作品の裸婦は顔が隠されている。また、そのモデルは同じ人である。
 シアトルとパリでモデルが同じなら、それは田中保の奥さんルイーズである。

 シアトル時代の作品では、明るいものはない。しかし、「裸婦2」はわずかであるが、明るくなっている。

 このときの気持ちは、「知られざる裸婦の巨匠 田中保 改訂版」(浜靖史著、文芸社)に記載されている。

 一九一七年のある日、田中は海岸でデートしていた時に、思い切って切り出した。最初に田中の絵が売れた海景のように水平線がぼやけて見えた日だった。
 「僕と結婚してくれませんか。日本人の僕がアメリカの上流階級の女性であるあなたに結婚を申し込むのは無茶かもしれない。しかし、僕は自分の気持ちを正直に伝えたい。自分から、いじけたような気持ちになって引き下がるのは嫌です。僕の家族には誰とも相談していない。僕個人の気持ちだ」
 日本人がアメリカの白人、それも上流階級のインテリに対してこうした告白をするのは、当時としては非常に珍しかったのではないか。人種差別の激しい国だから、破天荒なことだったに違いない。
 しかし、長い付き合いで田中を見てきたルイーズは田中のこの言葉を待っていたようだった。ルイーズも気持ちは熟していたのだ。返事をする代わり、だまって田中に抱きついた。目を閉じた。長い間、ディープ・キスをした。
 この夜、二人は結ばれた。田中はプロのモデルでは見られない上品な白い裸体を見た。重なり合ってベッドに身を沈めた。

 どこまでが、真実なのかは分からないが、仮にその通りだとすると、画家はこの日のルイーズを描いているはずである。
 それが、シアトル時代の作品「裸婦2」である。

 画家は、この世で一番美しいものを描いた。
 
 「この世で一番美しいもの」それは、「ルイーズからの愛」である。
 そして、そこには「ルイーズへの愛」が描かれている。


 精神的背景

 人の性格は遺伝および幼少期の環境により多くは決まる。しかし、幸せな結婚等により気持ちも性格も変わる。シアトル時代の暗い気持ちからパリ時代の明るい気持ちの変化が作品に現れている。

 田中保の家庭環境を調べてみた。

 1886年旧岩槻藩士の金融業を営む収・きよの四男として生まれる。1902年父収の死によって一家は破産し、離散状態になる。1904年埼玉県立第一中学校(現・埼玉県立浦和高等学校)卒業後、単身渡米しシアトルへ渡る。その後皿洗いやピーナッツ売りなどで生計をたてる暮しのなかで、次第に画家の道を志すようになり独学で絵画の勉強を始める。1912年頃、アカデミックな傾向のオランダ人画家フォッコ・タダマの画塾に入学し、素描や油彩を学ぶ。洋画家清水登之及び野村賢次郎もここで学んでいる。(Wikipedia)

 16歳頃より大変な状況になり、だいぶストレスを受けたことは確かである。


 終わりに

 彼の作風の変化は、結婚によるものか、あるいは社会に認められたためによるものかと考えていたが、どうやら、その変化は、ルイーズによるものと分かる。


 履歴

1886年(明治19年) 埼玉県岩槻市に生まれる。
1904年(明治37年) 埼玉県立浦和中学校を卒業。父の死とともに事業の金融業が破綻すると単身アメリカ・シアトルに渡る。農家の手伝いやピーナツ売り等をしながら画塾で学ぶ。
1912年(大正1年)  この頃よりオランダ人画家フォッコ・タダマの画塾で学び始める。
1917年(大正6年)  シアトル・ファイン・アーツ・ソサイアティで個展。
裸婦を描いた作品が風紀上好ましくないとの理由から撤去勧告を受け、田中は抗議の声明文を発表する。同年11月、詩人で美術評論家のルイーズ・ゲブハルト・カンと結婚。
1920年(大正9年)  油彩(ほとんどが裸婦)を携え、渡仏。パリのシャプタル通りに居を構え制作を開始、画塾も開く。
1927年(昭和2年)  サロン・ドートンヌ会員となる。
1929年(昭和4年)  サロン・デ・ナショナル会員となる。以後サロンを中心に作品を発表する。
1941年(昭和16年) 第二次世界大戦さなかのパリで54歳の生涯を閉じる。享年54歳。


 主な収蔵美術館

 埼玉県近代美術館
 サトエ記念21世紀美術館
 名古屋市美術館
 国立西洋美術館
 目黒美術館
 大川美術館
 リュクサンブール美術館
 メトロポリタン美術館
 世界各国の美術館、政府に収蔵

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