2005.12.1
2010.5.25 改訂
中村正明
masaaki.nakamura.01@gmail.com

 はじめに

 当美術館「屋根裏部屋の美術館」が所蔵している佐伯米子の3作品を紹介する。
 作品「静物」(1940年)は、力強く描かれているが混濁した色彩であり、画家の精神には問題があると思われるものである。
 作品「薔薇」は美しい色彩のものである。この2作品の作風はあまりにも異なる。
 そして、作品「白鳥」(ペン画、日本経済新聞に掲載)も併せて紹介する。

 また、ここで、「屋根裏部屋の美術館 荻須高徳」で調べたホームページ「天才佐伯祐三の真実」(落合莞爾)の続きを紹介する。

 「屋根裏部屋の美術館 荻須高徳」では、次の事が分かった。

 ホームページ「天才佐伯祐三の真実」(落合莞爾)に書かれている「荻須は、米子と関係を持っていた」といことは、事実である。また、そのようなことをはじめて述べている吉薗周蔵周辺の資料は、ねつ造されたものではないことは確かである。

 ここで、「天才佐伯祐三の真相」にある、「米子は佐伯の作品に加筆をした」および「米子は、佐伯と娘弥智子を毒物ヒ素で殺害しようとした」はどのようなものなのかを調べた。


 佐伯米子 さえきよねこ (1903-1972)
 
 米子の実家池田家は富裕な商家であって、現在の新橋の第一ホテルのすぐ正面の角に、日本式の二階建ての大きな家があり、それに続いてずっしりとすばらしい大きな象牙を山のように積み重ねて収蔵した土蔵が建っていた。主な商いは、象牙細工などの貿易に携わっていた。
 しかし池田家は、佐伯祐三との第一次渡仏前1923年9月1日に起きた関東大震災により大きな深手を負った。

 米子は、常に高級な着物姿でいたが、足の障害のため生涯苦しんだ。また、偏食が激しかったことは、里見勝蔵、山田新一らが述べている。

 「幼い米子が池田家の使用人に肩車をしてもらっているときに落ち、打ちどころが悪く生涯の傷を作ってしまった。」、「一回目の滞仏を終え、イタリアを経由して故国に帰る際、イタリア、ミラノ、アッシジ、フローレンス、ベニス、ローマと旅行してナポリから乗船したのだが、そのいずれの街中で、彼ら二人を躾の悪い子供達が追いかけ回してジロジロと見たり、ひどいのになると後から石をぶつけたりしたことがあって、フランスへ帰ってくると、米子は、いつもほっとするのは、そういう非礼を働かないことに、特にフランスはいいなという思いを抱いていた。」(山田新一)

 佐伯からは、常に「米子はん、米子はん」と呼ばれ、非常に愛されていた。また、米子も、佐伯のわがままをいつも聞いてやり、夫に従う人であった。

 「米子さんはひたすら、佐伯と私をして画を描かせる為に、自分の画を捨てて、只々私達を励まし、精意、力を儘して世話をして呉れた。思ひかへしては常に、深く、深く感謝している。」(「回想の二三」里見勝蔵/「没後50年記念 佐伯祐三展」)

 「奥さんの米子夫人の行はブルジョワ娘の行く虎の門女学院の出身で、お里は象牙を取引する大きい貿易商です。気だてのよい、大変な美人で、ぼくも好きな人でした。」(「私のパリ、パリの私 荻須高徳の回想」荻須高徳著、東京新聞出版局)

 しかし、第二次渡仏時、佐伯と娘弥智子を突然失ってしまった。
 多くの友人達が、亡くなった二人と、後に残された米子に強い悲しみを抱いた。
  


 作品「白鳥」(ペン画、mizu0202jp取扱、屋根裏部屋の美術館蔵)



 作品解説

 この絵画は日経新聞(1962年6月24日)に掲載されたものである。
 
 「・・・四、五年前から白鳥が遊んでいるようになり、ときにはかわいい雛(ひな)をひきつれたり、背中にのせて泳いでいる。この鳥も外国からのものだろうが、スイスのレマン湖の晴れた空や広々とした水面に、モンブランの影を映したり、湖畔の花壇からきこえてくる音楽など、極楽のような美しさを思い出して、こちらのお堀に住む雛たちをいとおしむ心になるが、それはかえって人間の感傷で、白鳥の心はどこにいても、かわいく幸福なのだろう。ともあれ、私はお堀に、あの白鳥を見つけるたびに胸の痛いようなうれしさをおぼえる。それは私のかわいがっている白い犬たちへの愛情につらなるものかもしれない。」(佐伯米子、日経新聞)

 しかし、ここにはかわいい雛は描かれてはいない。


 夫祐三、娘ヤチを殺害?

 落合莞爾氏のホームページ「天才佐伯祐三の真相」には、「米子は、佐伯と娘弥智子を毒物ヒ素で殺害しようとした」とある。

  1927年12月、佐伯家でガス事故が起きた。落合氏によると、「佐伯は妻米子がガス栓を開くのを見た」とある。

 ・「石炭ガス中毒で、佐伯一家が死にかかったのも当時のアクシデント――である。」(「そして佐伯祐三のパリ」朝日晃)
 ・「佐伯と弥智子が、シングルベッドに背を向け合って、寝ていた由。佐伯は五日、弥智子は七日ほど入院したが、佐伯は頭痛が取れず、ずっと後まで頭痛を訴えていた。ヤチ子は目に異常があるように思うと、千代子はいう。周囲の声が耳に入らぬように茫然としており、佐伯が指を鳴らすと、催眠術から覚めたように正気に戻る。また壁土や石を舐めたり、異常の行為が目立つ、というので、これは一刻も早く東京に戻した方が良いと周蔵は判断した。」(落合莞爾)
 ・「大使館員の調査に対して、米子は『アタクシの不注意です』と云った。」(落合莞爾)
  
 このガス事故が、故意によるか、たんなる事故かは次のことから分かる。

 「屋根裏部屋の美術館 荻須高徳」で述べたとおり、「天才佐伯祐三の真相」(落合莞爾)に書かれている「荻須は、米子と関係を持っていた」といことは、事実である。また、そのようなことをはじめて述べている吉薗周蔵周辺の資料は、ねつ造されたものではない。
 そうすると、「佐伯は妻米子がガス栓を開くのを見た」ということも事実となる。

 しかし、米子は佐伯によく従った人であり、気だてもよく、佐伯の友人達にも非常に親切であり、誰もこのようなことは信じられるものではない。


 ガス中毒

 佐伯に起きた「頭痛、目まいなど」および弥智子に起きた「視覚異常、精神異常」は、ガス中毒で起きる症状である。

・ 「頭痛、目まいと耳も痛い。ネケル先生へ行く。」(佐伯祐三/落合莞爾)
・「佐伯は頭痛が取れず、ずっと後まで頭痛を訴えていた。ヤチ子は目に異常があるように思うと、千代子はいう。周囲の声が耳に入らぬように茫然としており、佐伯が指を鳴らすと、催眠術から覚めたように正気に戻る。また壁土や石を舐めたり、異常の行為が目立つ。」(落合莞爾)

 立川察理氏のホームページ「神経病学ノート」で、一酸化炭素中毒の項には、「一酸化炭素は酸素よりもヘモグロビンとの親和性が高いため、低酸素血症によって特に中枢神経系に障害を生じ、神経細胞の変性および脳浮腫を招く」とあり、慢性中毒、間歇型中毒として、知覚障害および運動障害があげられている。

 また、The Merck Manuals には、以下のことが記載されている。

 「一酸化炭素中毒は,頭痛,悪心,脱力感,狭心症,呼吸困難、意識喪失、昏睡などの急性症状を引き起こす。神経精神症状は数週間後に現れる。」
 「症状は,患者の血中一酸化炭素濃度のピーク値によく相関する傾向にある。多くの症状は非特異的である。頭痛および悪心は、10〜20%の濃度で現れる。20%以上の濃度では、一般的に、漠然とした目まい、全身性の脱力感、集中困難、判断力の低下を引き起こす。30%以上の濃度では、一般的に、労作時の呼吸困難、胸痛(冠動脈疾患患者で)、錯乱を引き起こす。さらに高濃度では、失神、発作、知覚鈍麻を引き起こしうる。高血圧、昏睡、呼吸不全、および死を生じることもあるが、通常は濃度が60%以上の場合である。」
 「視覚障害、腹痛、局所神経障害を含む、その他の多くの症状を呈する場合もある。中毒が重度の場合には、神経精神医学的な症状および徴候が暴露から数週間後に現れる場合もある。」


 1928年3月における佐伯の体調不良について

 「佐伯は、『ガスのことは、あれは事故ではありません。米子サンが ガスの栓開きに行ったのを ワシは見ました。不思議に思いますが恐ろしいとは思いませんでした』と言っている。」(「佐伯の書き置き」/落合莞爾)
 そして、「佐伯は五日、ヤチ子は七日ほど入院した」とある。
 ガスによる殺害が未遂であったなら、米子はこのまま終わらせるわけがない。

 1927年12月にガス事故が起き、佐伯は5日、ヤチ子は7日ほど入院した。
 しかし、1928年2月には、佐伯は妻米子と娘弥智子と、その頃彼に師事していた荻須高徳、山口長男、大橋了介、横手貞美の四人を連れて、巴里から汽車で一時間ほどの美しい田舎モランへ出かけている。

 「『超人的情熱と努力に全く感動』と、約二十日間生活を共にした山口長男の言葉である。カンヴァスが足りなくなり一度パリに戻って補給、また引っ返した。荻須、大橋、横手も同行したが、山口、荻須が書き残したように、それはまさに荒行、修行で、それに耐えられず横手は脱落した。我々が二度目の絵を終わって畑の中や村家の裏等を捜し廻ると何枚目かの画面を暗くなるのも構わず必死に描いていた。こういう時は四枚目も描いていたに拘らず結局駄目だと内心いら立っていた。」(「美之國」山口長男著、1937年4月号/「佐伯祐三のパリ」朝日晃著)

 佐伯は、1928年2月はモランに行き元気に写生していたが、3月中旬に体調が急変した。
 1928年3月中旬に起きた体調不良の原因は、1927年12月に起きたガス事故による体調不良と切り離して考えてもよいと考える。

 「寒いモランから帰った一九二八年三月、パリは雨降りが続いた。『こんな日に絵を描きに出るの――』と米子が病身を気遣って声をかけると、佐伯は激怒した。雨の雫をたらしまっ白なままのカンヴァスを持ち帰ったこともあった。発熱、吐血、病臥――。」(「そして佐伯祐三のパリ」朝日晃)

 「3月中旬、異郷パリで、にわかに病気になった。症状は、本人のメモや書簡によれば、まず右手のしびれに始まり、舌がびりびりし、目がかすんで見えなくなった。それが一旦小康状態に戻り、また悪化、という経過を辿ったようである。」(「天才佐伯祐三の真実」/落合莞爾)

 この時の症状について、落合氏は、「妻米子がヒ素を用いて夫祐三、娘弥智子を殺害しようとした(吉薗周蔵)」、「妻米子が殺鼠剤を購入したことを突き止めた(吉薗周蔵)」、「佐伯の症状は、吐血、しびれ、譫妄状態など、典型的なヒ素中毒である」と述べている。
 
 佐伯の友人達は、彼が咳をしていたとは誰一人言っていない。そして、大量の出血をしたことから喀血より吐血の可能性の方が高い。 
 佐伯の症状で、「吐血」はヒ素中毒で起きるものである。この症状はガス事故から約3ヶ月後に起きているので、ガス事故の影響とは思えない。

 そして、佐伯は「目がかすんで見えなくなった」と言っている。


 1928年5月における佐伯の体調不良について

 ・1928年5月中旬 「再び風邪がもとで、身体は衰弱の度を増していった。中村博士に診てもらっていたのだが、ある夜半の急病で、往診にきたフランスの医師がした注射の分量が、日本人の体質には多すぎたといわれているが、佐伯は急に発狂状態に陥った。」(里見勝蔵)

 ・「フランス人の看護婦が私の止めるのもきかず澤山の分量の注射をし過ぎました。中村さん(博士)のおっしゃるには一のものを十したそうです。その夜急にひどい抗糞(興奮)に陥つてあとはめちゃめちゃになりました。」(「米子から前田寛治宛てに書いた手紙」/「中央美術」第十四巻第十号/「佐伯祐三」阪本勝)
 
 フランス人の医師は、佐伯の病状が急変したから呼ばれて来たのである。
 米子の言う、「フランス人の看護婦が私の止めるのもきかず澤山の分量の注射をし過ぎました」というものは事実なのか。
 なぜ、米子はたくさんの分量だと分かったのか。

 佐伯祐三に起きた、1928年3月末および5月中旬の体調悪化は、雨の中へ無理して写生に出かけたために起きたものとされている。しかし、3月に起きている知覚障害、視力障害、吐血、および5月に起きている精神障害から考えるとヒ素によるものとしか考えられない。
 つまり、肺炎あるいは肺結核により、知覚障害、視力障害、吐血、および精神障害が起きたとは考えられない。


 ヒ素中毒

 「自分はいま目が見えないのです。あっちへ移ってから、身体が悪くなって、今では舌がビリビリして、味がしみるだけで、ものも食えないのです。そして目も見えないのです。色がよくわからないのです。」(「佐伯祐三書簡」/落合莞爾)

 佐伯祐三と娘弥智子に起きた知覚障害、視覚障害および精神障害は、ガス中毒以外に薬物中毒でも出る。当時、普通の人が入手できる毒物は、殺鼠剤として使用されているヒ素化合物、黄リン、あるいはメッキなどで使用された青酸カリ以外はあまり考えられない。
 そして、黄リンおよび青酸カリではこのような症状は出ない。

 佐伯祐三には、「目が見えない、色がよく分からない」という視力障害が生じている。ヒ素の毒性については、我が国では森永ヒ素ミルク事件及び和歌山ヒ素入りカレー事件などで多くの犠牲者が生じているが、視力障害のことについては記載されていない。

 ・「佐伯の症状は、吐血、しびれ、譫妄状態など、典型的な砒素中毒である」(落合莞爾)
 ・ヒ素およびヒ素化合物は WHO の下部機関 IRAC より発癌性がある〔Type1〕と勧告されている。また、単体ヒ素およびほとんどのヒ素化合物は、人体に非常に有害である。飲み込んだ際の急性症状は、消化管の刺激によって、吐き気、嘔吐、下痢、激しい腹痛などがみられ、場合によってショック状態から死に至る。慢性症状は、剥離性の皮膚炎や過度の色素沈着、骨髄障害、末梢性神経炎、黄疸、腎不全など。慢性ヒ素中毒による皮膚病変としては、ボーエン病が有名である。(Wikipedia)
 ・ボーエン病:典型的な場合は徐々に拡大する、境界鮮明な、形は不整型の紅斑で、皮がめくれたり(鱗屑、scales)、かさぶた(crusts)を伴う。白人の場合は紅斑であるが、有色民族の場合は褐色である。大人に発生し、とくに60歳以上の老人に発生する。日光による場合は露出部に発生するが、ヒ素やその他による場合は露出部もあるが、服に覆われている場所も好発部位である。症状は放置すれば不変の場合もあるが、通常拡大する。単発の場合もあるが、慢性ヒ素中毒の場合は広範囲の場合もある。(Wikipedia)
 ・森永粉ミルク中毒事件:1955年5月から8月末にかけ、森永乳業徳島工場製品のMF印粉ミルクを飲んだ西日本一帯の乳児に突然、発熱・嘔吐・下痢・皮膚の色素沈着などを生じ、死者138名、被害者1万人を越える事件が発生した。(Wikipedia)
 ・和歌山ヒ素入りカレー事件:63人が中毒、4人が死亡した。胃腸障害(吐気、嘔吐、下痢)、精神神経学的症状(衰弱感(Weakness), 頭痛、麻痺、Paresthesia, 痙攣(convulsion),精神)、皮膚科学的症状(皮膚の発疹、粘膜の変化)、電解質異常、血液学的症状(白血球増多、白血球減少、血小板減少、貧血)、肝機能変化(aminotransferase増加、alanine aminotransferase増加)、心臓血管系変化(低血圧、Q-T 延長、T波の変化、ST変化)、肺(心臓陰影増大、肺浮腫、肺水腫(plural effusion)。 また皮膚科的変化としては結膜下出血、顔面などの紅斑(flushing syndrome)、顔面の浮腫、皮膚の紅斑、丘疹、単純ヘルベス、四肢末端の皮がむけること、脱毛。 同じ報告から、事件から3ヶ月まで発症した皮膚科的症状:爪の横の凹線(Beau's line),爪の横の白線(Mee's line)、爪の全白斑、爪の萎縮(Onychodystrophy)、爪のまわりの色素沈着、四肢末梢の皮がはげること、炎症後色素沈着、にきび様発疹、炎症後白斑、口唇の色素沈着。(Wikipedia)

 落合氏は、佐伯の症状はヒ素中毒としながらも視力障害にはふれていない。
 しかし、この視力障害もヒ素によるものに間違いないと思っていたが、なかなかその記載が見つからなかった。
 だが、韓国ドラマ「チャングムの誓い」にヒ素による視力障害のことが出ていた。
 中宋王様が失明寸前と皮膚湿疹の原因は王様だけが毎日飲んでいる牛乳に微量のヒ素が含まれていたためというものである。
 「チャングムの誓い」はドラマであるが、古典医術については詳しく描かれていて、間違いのないものである。

 また、「メルクマニュアル医学百科 最新家庭版」にも、視力障害の記載があった。

 「鉛やメタノール、エチレングリコール(不凍液)、タバコ、ヒ素など、視神経に有害な物質による障害もあります。この種の視力障害は中毒性弱視と呼ばれることもあります。」


 ヒ素の毒性 

 韓国ドラマ「チャングムの誓い」では、王の体調不良の一番重要な症状として視力障害があげられ、森永粉ミルク中毒事件および和歌山ヒ素入りカレー事件では、視力障害は問題にされなかった。それは、ヒ素の化合物の構造、投与量、投与期間が中毒症状の出方に関係するからである。
 
 以下に、国立環境研究所環境健康研究領域分子細胞毒性研究室の小林弥生さんが研究した「ヒ素の化学形態別分析における質量分析法の応用」(2008年6月)から一部を記載する。

 ヒ素と一口に言っても様々な種類があり、その化学形態によって細胞内への取り込み、排泄、毒性などが大きく異なります。ヒ素は海産物にも多く含ま れていますが、それらの多くはヒ素糖やアルセノベタインと呼ばれるほとんど無毒のヒ素化合物です。しかし,ヒ素混入カレー事件で使用された3価の無機ヒ素 (亜ヒ酸)や途上国最大の環境問題のひとつになっている5価の無機ヒ素(ヒ酸)は、発癌も含む多臓器疾患を起こすことが知られている毒物です。生体内に吸収された5価の無機ヒ素化合物は,還元,メチル化を繰り返し,最終的に5価のジメチル化体(DMA(V))として体外に排泄されると考えられています。尿中の主たる代謝物がDMA(V)であることと、毒性が無機ヒ素化合物と比較し低いことから、メチル化はヒ素の解毒機構と考えられてきました。しかし,最近 になってそれらの中間体である3価のメチルヒ素化合物(MMA(III)およびDMA(III))が非常に低濃度でDNA損傷などを引き起こすことや、その毒性が無機ヒ素化合物よりも強いことが報告されたことから、メチル化代謝は毒性発現であると考えられるようになってきました。ヒ素の摂取により発癌に至ることは疫学的調査からも明らかとなっており、ヒ素の代謝過程で生成する中間体が発癌物質であると考えられていますが、その毒性発現機構はいまだ明らかに なっていません。ヒ素の毒性発現および解毒機構を明らかにするためには、総濃度だけでなく、さまざまな化学形態のヒ素代謝物をできるだけ正確に分析し、出発物質のみならず、代謝物も含めた毒性評価を行う分析毒性学的研究が重要となります。現在,生体内におけるヒ素化合物の酸化還元状態がヒ素の毒性発現および解毒に密接に関与していると推定し、分析毒性学的手法を用いてヒ素の代謝について研究を進めています。

 つまり、中宋王、佐伯祐三および娘ヤチには無機ヒ素が代謝されて出来たメチルヒ素の毒性が顕著に出たものと考える。
 このメチルヒ素は、極性が低いため、神経系に作用したと考える。
 森永ヒ素ミルク事件もしばらく経ってから視力障害が出た人もいたようである。

 「ヒ素ミルク中毒の被害児たちの一部には治癒宣言がなされた1956(昭和31)年当時、すでにヒ素中毒の後遺症の典型的な症状が現れていた。当時軽症と見られた被害児の多くは、成長するにしたがって後遺症が明らかになってきた。しかし中枢神経をおかされた重症者も、視力障害や皮膚疾患,さらには発育不全や精神不安定、学力の遅れなどすべてが先天的な原因によるもので、ヒ素中毒とは関係ないとされていたのである。」(森永ミルク中毒事後調査会)

 環境省による有機ヒ素についての健康リスク評価に、無機ヒ素の中枢神経症状に関する毒性が記載されていた。

 「無機ヒ素、無機ヒ素化合物ではヒトの皮膚や胃腸、腎臓、末梢神経系、末梢循環器系などの多様な組織に対する毒性影響が報告されていますが、中枢神経症状に関する報告は限られています。……限られた無機ヒ素化合物(亜ヒ酸)の中枢神経症状の報告を集めて整理……・」(「DPAAに関する健康リスク評価 7.DPAA に関する健康リスク評価」環境省)

 急性:せん妄、痙攣、脊髄症、脳症、Wernicke-Korsakoff症候群様症状、失調症状
 慢性:精神運動発達遅滞、痙攣、片麻痺、アテトーゼ、視覚低下

 ここには、ヒ素の毒性として精神疾患と視力障害があげられている。


 他剤の影響

 佐伯は結核を患っていたのでその治療薬の副作用も考えられるが、佐伯の手紙等にあるようにそれ以前に米子がガス栓をを開いて佐伯を殺害しようとしたことも考えれば、ヒ素を投与したことに間違いがないと考える。

1927年10月 ヴールヴァール・デュ・モンパルナス162番地の新築直後のアパート3階に移る。なお、2階には薩摩千代子が住んでいる。
1927年12月 ガス事故が起きる。6日間入院する。
1928年2月頃 「佐伯は米子夫人と弥智と、その頃彼に師事していた荻須高徳、山口長男、大橋了介、横手貞美の四人を連れて、巴里から汽車で一時間ほどの美しい田舎モランへ、二ヶ月ほど田園風景を描きに行った。」(里見勝蔵)
1928年3月15日 画布を取りに一時的にパリに帰った。そして3月15日ついに離婚が決まった。(落合莞爾)
1928年3月中旬 「3月中旬、異郷パリで、にわかに病気になった。症状は、本人のメモや書簡によれば、まず右手のしびれに始まり、舌がびりびりし、目がかすんで見えなくなった。それが一旦小康状態に戻り、また悪化、という経過を辿ったようである。」(落合莞爾)

 ただし、最終的な死因は、「夜半に佐伯君は私(椎名氏)を一人そばに呼び、まったく正気なものの条理をたどって色々話した末に自分の図った自殺の方法を詳細に物語った」(山田新一氏、椎名其ニ氏)とあるように、弱った体で雨の公園をさまよい自殺を図り、そして、拒食などによりさらに衰弱したためと考える。


 毒物を用いた自殺未遂

 1929年の春、佐伯祐三の第2次パリ時代の遺作展が「1930年協会」で開催された。
 そのとき、米子が自殺をはかったが、幸いにも里見勝蔵に助けられた。場所が会場ということもあるが、自殺方法は毒物を用いたものであった。
 この頃、自殺で用いる毒物と言えば青酸カリかヒ素ではないだろうか。


 結核

 佐伯は美校時代から結核を患っていた。そのため、美校時代、休学をした。

 「1921年 3月、弟祐明が肺結核の為死去(20歳)。佐伯もこの頃から喀血していたとも言われる。病気の為、美術学校を三ヶ月休学。」

 また、第一次渡仏時も体調を崩し帰国している。

 「1926年3月 結核を患っていた彼を案じた家族らの説得に応じ、帰国する。パリでの友人である小島善太郎、前田寛治、里見勝蔵、佐伯祐三、木下孝則の5名により「1930年協会」を結成。第13回二科展に滞欧作を発表、「レ・ジュ・ド・ノエル」などで二科賞を受賞。」

 結核の症状には、呼吸器症状と一般症状がある。そして、呼吸器症状には、咳、痰、血痰、喀血、胸痛、呼吸困難などがある。また、一般症状には、発熱、発汗、体重減少、食欲不振、倦怠感などがある。
 また、佐伯の吐血あるいは喀血であるが、吐血は、食道、胃、腸などの消化器官からの出血で、胃液と一緒に出るため、黒っぽい赤の血が出ることが多い。また、喀血は、気管、気管支、肺などの呼吸器官からの出血で、鮮血が咳と一緒に出ることが多い。

 しかし、画友達は誰も佐伯が咳をしていたとは述べていない。
 山田新一が言う、「しまいには洗面器一杯じゃきかないぐらい喀血して……」(山田新一/「求美」)というものからは、量からして吐血の可能性が高いが、これだけからは断定するには至らない。

 「それであの方(米子)結核でね。足がびっこなのです。だからあの方、免疫があるから、佐伯さんが肺病になってからも、『私はうつらないのよ』って、言ってました。結核からきた関節炎らしいです。」(画家中山巍夫人の中山茂子/「求美」)

 米子は、足の障害は、関節に結核が生じたためというが、結核の特効薬が開発されたのは戦後であり、戦前は結核は不治の病とされていた。このような考え方を、戦前に持てるはずがない。
 また、米子の足の障害について、山田新一は、「幼い米子が池田家の使用人に肩車をしてもらっているときに落ち、打ちどころが悪く生涯の傷を作ってしまった」と聞いている。
 このようなところからも、疑惑が生じる。

 「二度目にパリに行く前から佐伯さんと弥智子ちゃん、メンタイちゃんて言ってましたがね、咳をしてたのですよ、熱があったのに体温計が無いから、私はうちから持って行って計ったんです。これは林竜作さんの奥さんになったもと子さんに伺ったんだけど、フランスで、米子さんが弥智子ちゃんが、『どこかで苺を御馳走にになって苺の水を吐くのよ』って言ったそうです。そしてお医者さんに連れて行ったら、もう肺が両方とも無くなっていたそうです。よく生きていたって、それで気管支だけが残っていたんですって。」(画家中山巍夫人の中山茂子/「求美」)

 しかし、米子は娘弥智子を入院させていない。肺が両方とも無くなっていた?気管支だけが残っていた?


 佐伯のとった拒食行動

 佐伯は、自殺未遂を起こしセーヌ県立ヴィル・エヴラール精神病院へ入院した。そのとき、差し出される食事を拒否し、点滴で命をつないだ。

 佐伯は、ガス事故の時、米子がガス栓を開くのを見た。また、この前後から二人の中は急激に悪くなっている。仲が悪くなったから、米子はガス栓を開いたのである。
 そして、翌年、モランから帰ってきてから、急激に体調を崩した。
 また、離婚の話が進んだ後にも、急激に体調を崩した。
 当然、佐伯は何かあると考えたはずである。
 これが、佐伯がとった拒食行動の理由である。
 落合氏は、「佐伯は米子の差し出す食事を拒んだ」と述べている。

 「米子から周蔵への手紙、『病院で私の出すもの何一つ食べず、死にましたのよ』」(「天才佐伯祐三の真相」落合莞爾)

 そして、精神病院に入院したときの記録では、「被害妄想の兆候も顕著だった」とある。
 この被害妄想とは、どのようなものだったのか。被害妄想とあるからには、誰からの被害なのか。


 荻須高徳のみた佐伯米子  

 荻須は、著書「私のパリ、パリの私」で、佐伯米子について述べている。

 「奥さんの米子夫人の行はブルジョワ娘の行く虎の門女学院の出身で、お里は象牙を取引する大きい貿易商です。気だてのよい、大変な美人で、ぼくも好きな人でした。」

 しかし、「まことに畏れと疲れを知らぬ女傑」(「周蔵手記」/「天才佐伯祐三の真相」落合莞爾)との見方もある。

 
 坂本繁二郎による二科展所感

 「二科展所感 坂本繁二郎小論」(『新版・小熊秀雄全集第五巻』 創樹社 1991年)には、佐伯米子の二科展出品作品に対する評価が載っている。
 「この人はお家の芸に隠れた感がある、この人の女性的な繊細な線は、曾つては日本の作家の男性的な力に対抗するほどに、デリーケートに活躍した時代があつたが、今はその面影もない、この人には作家意欲の高さはあつても、たくましさがない、画面に喰ひ下る執着の乏しさがある。」

 確かに、佐伯米子の作品を調べると2種類の作風がある。

 また性格には、荻須高徳のみた性格「気だてのよい人」と『天才画家「佐伯祐三」真贋事件の真実』に記載されている性格「まことに畏れと疲れを知らぬ女傑」の2種類がある。


 混濁した色彩 作品「静物」(1940年、古物美術商物故堂取扱、屋根裏部屋の美術館蔵)



 何となく異様な絵画である。
 この異様な感じは、米子の精神にもよるものである。なにか怒りでもあるのだろうか。
 この絵画からは、米子の精神には普通の人とは違ったものがあるような気がする。ホームページ「天才佐伯祐三の真相」(落合莞爾)には米子は佐伯祐と娘弥智子を殺したとある。
 この絵画から感じるものは、このホームページを見てからのものではない。
 米子の色彩における嗜好には問題を感じる。同様に、果物は品種により大きさは異なるとは考えるが、なにか大きさの比率にも問題を感じる。


 作品「グラジオラス」(青山美術取扱、所有者不詳)



 この作品は、非常に立体感があり、また凄まじいものであり、一種異様なものを感じる。。
 色彩及びタッチからだけではない。花瓶下部のサインを見ると、花瓶の一部を油に絵の具で塗りつぶしそこにサインをしている。普通では考えられない。


 混濁した色彩と迫り来る立体感のある作品 作品「薔薇」(good8508art取扱、所有者不詳)



 作品「静物」(1940年)と同様に、混濁した色彩のものである。


 作品「薔薇」(tsutenro取扱、屋根裏部屋の美術館蔵)



 坂本繁二郎による二科展所感にあるように、佐伯米子には2種類の作風があるようである。
 この作品は、美しい色彩で描かれていて、あきらかに、作風は「静物」、「グラジオラス」などと異なる。


 古物美術商物故堂より教えていただいた佐伯米子について

 これらの絵画から、この画家の精神には大きな問題があると感じた。
 「肉親の殺害そして絵画より、佐伯米子は精神を病んでいた可能性が大きい」という内容のメールを古物美術商物故堂に出したところ、次のような返事のメールを戴いた。

 「佐伯米子が病気かどうかは判りませんが、佐伯祐三の学生時代の大作がある企業の倉庫に有るのですが、その作品には佐伯祐三のサインでは無くそのサインを真似た米子がしている事が科学的に判明しました。この事実を知るものは日本でも数人ですが・・・佐伯祐三の死後、米子は飯を食う為に様々な手法で佐伯祐三の作品に自ら手を加えた事や、ある種、病的なまでに精神が病んでいたと言われておりました。無論、自分の主人を若くして無くした悲しみからの業かも知れません。以上の事は、家が近かった関係から私と交友の有った画家山田新一氏から聞き及んだ事実であります。」

 物故堂の話によると、「天才画家『佐伯祐三』真贋事件の真実」にある、「米子は佐伯祐三の作品に加筆をした」ということは、事実である。


 佐伯祐三の第二次渡仏時作品

 佐伯の第二次渡仏時の作品について、次のような意見がある。

 「(君の末期の作品に現れる)黒色の線は、画面に縦横に乱走し、アルファベットにおいては狂怪をきわめる。」(「佐伯祐三」阪本勝著)
 
 「佐伯が死んでまもないころ、私は久しぶりに北中を訪れ、図画教室で中村先生に会った。そのころ『ノートルダム』は教室の正面にかかっていた。師はじっとその絵を見つめ、私にこう言われた。『この絵はたしかに傑作ですね。この作品には、べつに異常なところはありませんが、二度目の渡仏時の作品を見ると、佐伯はもう狂っていますね。可哀想です。可哀想です……』」(「佐伯祐三」阪本勝著)

 佐伯の第二次渡仏時の作品に精神的問題を感じるなら、それは米子が加筆したからである。


 猟奇殺人

 統合失調症患者の自殺率および重罪犯罪率は非常に高いものである。
 たとえば、母親を殺した息子の精神はほとんど病んでいると言われている。もし、米子が佐伯と娘弥智子を殺害したなら、その精神は病んでいる可能性は非常に高いはずである。

 精神障害者の犯罪率は、国民全体の犯罪率より低いが、凶悪犯罪に限っていえば、明らかに精神障害者の方が犯罪率が高い。
 また、猟奇的殺人に関してはその比率はさらに高まる。

 平成14年度版犯罪白書(平成13年に発生した犯罪に関する調査報告書)には精神障害者の犯罪として次のような記載がある。

 平成13年における交通関係業過を除く刑法犯検挙人員のうち、精神障害者は720人、精神障害の疑いのある者は1,361人で、両者の刑法犯検挙人員に占める比率は0.6%となっている。また、罪名別検挙人員に占める比率を見ると、放火の 11.9%及び殺人の9.1%が特に高くなっている。
 平成13年に検察庁で不起訴処分に付された被疑者のうち、精神障害により、心神喪失と認められた者は340人であり、罪名別に見ると殺人(87人)、傷害(59人)、放火(56人)の順に多い。また,精神障害により、心神耗弱と認められ起訴猶予処分に付された者は270人であり、罪名別では傷害(79人)が最も多い。第一審裁判所で心神喪失を理由として無罪となった者は1人(殺人)であり、心神耗弱を理由として刑を減軽された者は83人であった。これを罪名別に見ると殺人(24人)が最も多い。
 これらの総数694人を精神障害名別で見ると統合失調症(427人)、アルコール中毒(46人)、双極性障害(35人)の順に多い。

 なお、平成13年度版犯罪白書もほぼ同じような内容である。

 平成12年における交通関係業過を除く刑法犯検挙人員のうち精神障害者は711人、精神障害の疑いのある者は1,361人であり、精神障害者等の刑法犯検挙人員に占める比率は0.67%である。罪名別の検挙人員では、窃盗、詐欺、横領(遺失物等横領を含む)が、総数の53.5%を占める。罪名別検挙人員総数に占める精神障害者等の比率を見ると、放火の15.6%と殺人の9.3%が特に高くなっている。

 この平成14年度版犯罪白書では、精神障害者及び精神障害の疑いのある者の刑法犯検挙比率が0.6%であるのに対して、殺人における検挙比率は9.1%と異常に高くなっている。


 男関係

 「天才画家『佐伯祐三』真贋事件の真実」(落合莞爾)関連の書籍には、佐伯米子は男性遍歴が多かったことが記載されている。
 牧野医師、佐伯祐三の兄祐正、荻須高徳、里見勝蔵、…、…、……。

 ただし、里見勝蔵については米子の手紙からであり、周蔵の推理ではない。


 嘘?

 米子は人を欺くことがあった。

① 一番にあげられるのは、もちろん加筆である。

 物故堂の話、「米子は飯を食う為に様々な手法で佐伯祐三の作品に自ら手を加えた(山田新一)」ということから、米子の加筆は事実だと考える。

② 年齢詐称

 「佐伯より年上に違いないんですが、三つ違いとも、二つとも、一つとも、諸説があるのです。」(田中穣)」(「対談佐伯祐三とその周辺」/「求美」1978年36号、求美編集室)

③ 佐伯の自殺未遂についても、嘘があるようだ。

 米子は、「自殺しようとして家を出たのではないと思います。ただもう一途に戸外に出たかったので、計画的に家を出たのでしょう。首にキズがあったというのは、これからお話しする病院で息をひきとる時に、首の一部に黒いシミのようなものが浮かびだしたので、首をくくろうとした跡ではないかという説、―それは説ですが―その話と、この森の事件とが一緒になったのではないでしょうか」と言った。

 阪本勝氏は、著書では米子および荻須の言葉を採用している。

 これに対して、佐伯の親友山田氏は、「余談だが、阪本勝氏の『佐伯祐三』(昭和四十五年)の中で、佐伯が首つりの森からアパートへ連れ戻された時の状況に対して、非常に否定的な見解が述べられており、首を吊った際に残った索溝などという事実は無かった、と書かれていたと記憶するが、どういう理由で、氏はそれを強く否定したのか、今だに僕にはわからない。『索溝』は事実で、彼が連れ戻された直後、僕自身がその傷跡を、痛ましい怖れをもって現に見た思い出が、ありありと甦るのである」と述べている。

 同様に、椎名其二氏も、「なにしろ大きな初夏のワイルドな森のことだから、とても探しきれず翌日を期して解散し、我々3、4名のものだけアパートへ帰ったのであった。そしてドアを押しあけてみると、そこに佐伯が首のまわりから血を流し真蒼な顔に眼を据えているではないか。われわれが帰ってくるちょっと前に森の池端の警察から通知があって、あの足の不自由な細君が迎えに行ったのであった。留置場では真ん中へ一本の壜を立てて、胡座をかいてそれをしきりに拝んでいたとのことである。その夜半に佐伯君は私(椎名氏)を一人そばに呼び、まったく正気なものの条理をたどって色々話した末に自分の図った自殺の方法を詳細に物語った。『……森の奥の大木によじのぼり、一本の枝に紐を結び付け、そして首を吊ったのである。それからどうして降りたのか、どうして落ちたのか、彼自身にも明らかでないが、空中の声に導かれるがままに、奥へ奥へとひた歩きに歩いて行ったのだ』……と」(椎名氏の手記―「佐伯祐三の死――自由に焦れて在仏40年」中央公論昭和33年2月)と述べている。

 これは、たんなる記憶違いではなく、どちらかが嘘をついている。そうすると、山田氏および椎名氏には、嘘をついても何のメリットもないので、嘘をついているのは米子であり、そして、米子のいいなりになっている荻須である。
 米子は、変な噂を立てられたら困るのである。

④ 足の障害について、原因を3種類あげていた。

・「それであの方(米子)結核でね。足がびっこなのです。だからあの方、免疫があるから、佐伯さんが肺病になってからも、『私はうつらないのよ』って、言ってました。結核からきた関節炎らしいです。」(画家中山巍夫人の中山茂子/「求美」)
・「幼い米子が池田家の使用人に肩車をしてもらっているときに落ち、打ちどころが悪く生涯の傷を作ってしまった。」
・「米子が6歳の夏、水草を取るために田園に入ってころぶ。その時足を挫く。それが元で股関節炎となり、帝大病院に入院し手術。発育盛りだったので、手術した方の足が取り残され、不自由になった。」(「佐伯祐三と妻米子」稲葉有著)

⑤ 稲葉有氏は、著書「佐伯祐三と妻・米子」で、米子の「みずゑ」での記述には実際と異なり美化されているところがあると言う。
 それは、佐伯と里見がヴラマンクに会ったときのことである。
 
 「ヴラマンクの家を辞して、雨の降る道の真中に立つて、佐伯は僕の手をとり、再び涙を流して、――有難う、すまなかつた――と云つた。」(里見勝蔵/「中央公論」昭和二十八年十二月号)

 「美しい髪を二つに分けた丸顔で小柄な若い夫人は、優しく私達を迎えて下さいました。背が高く、ガッシリとした堂々たるヴラマンクは、私達に手をさしのべてくださいました。……。」(佐伯米子/「みずゑ」昭和三十二年二月号)

 米子は、このときオーヴェールの駅に近いキャフェ・ド・メリーで弥智子と二時間近く待っていた。
 米子のこの記述には、美化という嘘がある。

⑥ 「周蔵が2月(1928年2月)にパリで会ったとき、佐伯は健康そのものであった。従来の佐伯の伝記が、この頃より結核が進み、密室に閉じこもって『郵便配達』や『ロシアの少女』を描いたと説明するが、それ自体が米子の追想話を基にした創作なのである.。」(落合莞爾)

 「この郵便配達夫の担当区域は、引っ越し先のリュ・ド・ヴァンヴではなく、ブールヴアールだった。(1928年)四月末、佐伯が病身をおしてブールヴアールの二階アトリエに行った時、たまたま郵便を届けに来た、髭の美しい配達夫である。山口長男の回想だと、前年暮れに佐伯はこの髭の美しい郵便屋に目を付けていて、モデルを頼むことができたと喜んでいた。ところが、その配達夫を見たこともなく、真相を知らない米子は、評伝家に問われると『見てきたようなウソ』をついた。『その人は、後にも先にも、二度と姿を現さなかったことは、不思議なことでした』(「みずゑ」昭和三十二年二月号)などと神秘めかす。これを受けて俗流評伝家が、まるで死神の手紙の配達人のように修飾するのは、低俗文学の領域であるが、米子も彼らに劣らない。『これ(郵便屋)を描きあげてからは、また寝たり起きたりの日が続き、外出は出来ない状態でした。そんなとき、ふとアトリエの戸をノックする音に、開けてみると美しい華奢な女性が立っていて、モデルの用はないかと、おぼつかないフランス語で話しかけるのです。佐伯は喜んで翌日描く約束をすると、翌日はロシアの美しい色彩の祭り衣装を着て来ました』」(落合莞爾)

⑦ いろいろ嘘があるようだが、そうすると、次のことも嘘のように思える。

 「フランス人の看護婦が私の止めるのもきかず澤山の分量の注射をし過ぎました。中村さん(博士)のおっしゃるには一のものを十したそうです。その夜急にひどい抗糞(興奮)に陥つてあとはめちゃめちゃになりました。」(「米子から前田寛治宛てに書いた手紙」/「中央美術」第十四巻第十号/「佐伯祐三」阪本勝)

 1928年5月中旬 「再び風邪がもとで、身体は衰弱の度を増していった。中村博士に診てもらっていたのだが、ある夜半の急病で、往診にきたフランスの医師がした注射の分量が、日本人の体質には多すぎたといわれているが、佐伯は急に発狂状態に陥った。」(「米子の話」?/里見勝蔵)

 フランス人の医師は、佐伯が急変したから呼ばれて来たのである。
 本当に、「フランス人の看護婦が私の止めるのもきかず澤山の分量の注射をし過ぎました」のか。なぜ、米子はたくさんの分量だと分かったのか。

⑧ 次の言葉は、米子が絵を得て得したことが分かる。これは、どうなのだろうか。

 「一時に二つの大きな宝をうばわれて、私は危うく生きる力を失いそうになりました。すでにあのころ、何もわからなくなつておりました祐三が、不思議に、死を直感していたものか、メイゾン・ド・サンテに入院する間際に、私を呼びまして、ぼくの画を日本に持つて帰つてくれ、日本のみなさんによろしくと申したことがございます。その言葉が彼の亡きあとの私への仕事を教え、頼んで行つたのでした。親切なお友達の皆さんが、私を見守つていて下さつたことと、自分に言いのこされた言葉などが、私のくずおれそうな心身を、ようやく支えていたのでした」(夫人の友」1955年9月号)
 こうして佐伯祐三が命と引きかえにフランスで描いた作品群は、ほとんど全部日本に戻った。(富山秀男)

 佐伯祐三の友人達に、米子はだいぶ助けられた。それは、佐伯が「不思議に、死を直感していたものか……」という状態で、米子に託した言葉があったことも一因である。

 私は、米子に多くの嘘があったと考える。嘘をつくことに罪悪感を感じないから、佐伯祐三作品に加筆もできたし、あるいは佐伯祐三以外の画家の作品にも偽造ができたと考える。
 あるいは、罪悪感そのものがないためなのか。
 そのため、平気でいろいろな男と関係を持てたのか。そして、裏切った夫を殺すことにも……。


 謎を解く鍵 「小説 佐伯祐三 その愛と死」

 「特別企画 小説 佐伯祐三 その愛と死」(山田恵子著/「求美」1978年36号、求美編集室)は、小説としながらも「佐伯祐三に関する愛と死の真相」というようなものである。また、これは佐伯祐三真贋論争が始まった1994年より約16年前に書かれたものである。
 そこには、他の本には見られない驚くような内容が書かれている。それは、事実を知っている四人の画家の一人から米子が問い詰められ答えたような内容である。
 しかし、別段誰かが問い詰め米子が答えたわけではなく、事実を知っている人に話さなければならないときとなり、多少婉曲に述べたようなものである。これは、米子が、意実を知っている人にはこれ以上隠しようがないと考えたからである。

① (米子との会話の一部)「佐伯がああいう無邪気な性質で、人から愛されれば愛されるほど、絵の評価が高まれば高まるほど、私の悪女としての評価もあがっていくようです。」

 米子は悪女と言われていたと考える。
 佐伯の画業を残すと言い、画友達から佐伯の絵を譲り受け、すぐに売り払っていた。
 「佐伯米子さんがあとになって、佐伯の絵を買い始めていますね。売っちゃったから米子さんのところにないんですね。それで伊藤さんのところにいって絵を売ってほしいと言ったそうですね。伊藤さんは冗談にうんと高いことを言いますと、米子さん現金をそろえるんだそうです。伊藤さんは売る意志がなかったので、これだけ積めばといったのが、米子さんはもう画商に売っている。……。」(「対談 佐伯祐三とその周辺」/「求美」1978年36号)
 男関係も多かったのも周知の事実である。

② 「二月、厳寒の中のモランに出かけました。Aさんはいつかアトリエで一緒になった京子さんのアパートへお話をしたくて遊びに行ったようでしたが、あまり歓迎されなかったのか、モランに行ってからも沈みがちな様子でした。他の三人は張り切っていて、『佐伯組の成果をパリに持って帰って皆に見せてやろう!』とばかり、佐伯と一緒に朝早くから寒風の中を出かけて行きます。私は村の小さなホテルの陽だまりの中で、弥智子とAさんと、モランの冬の田園、村や教会を眺めたりしておりました。ふと見るとAさんの少年のような頬の生毛が陽光にすけて美しくやわらかに光って見えます。私はやさしく手をのばしました。三日目の朝、Aさんが急に、『今日から僕は絵を描きに行きます』と私を見て言います。『あなたは絵描きさんですもの、絵をお描きにならなくちゃいけませんわ』と私は申しました。」

 1928年2月のモランでの出来事である。Aさんとは当然荻須高徳である。私は、「屋根裏部屋の美術館 荻須高徳」で、落合莞爾氏のホームページ「天才佐伯祐三の真相」にある「米子は画家荻須高徳と浮気をしていた」は事実であることを示した。
 ここでは「米子は画家荻須高徳と浮気をしていた」という内容を打ち消すもので、「私は傷ついた画家荻須高徳を慰めていた」、「私のこのような行動が、あなたたちが私と荻須高徳の仲を誤解した」というものである。
 しかし、モランでの当初の2日間は、荻須は絵を描いていなく、米子とのんびりしていたことは確かなようである。そして、米子は「やさしく手をのばしました」という行動を取っている。

③ 「『佐伯さんは……絵を描きにいらして未だお帰りにならないのですか(京子)』『そうなのです。こんな寒い日なのにね(米子)』私は深皿によそっている柔らかになった、ジャガ芋や、人参を見ながら、この不気味なような感じをどう受けとめてよいのかわかりませんでした。『……昨日などは霙がひどく降っておりましたのに、いつまでたっても戻って参りません。随分おそくなって帰って参りましたのよ』京子さんは黙っています。流行りの短か目のコートの下にすんなりとのびている二本の足を見た時、私の中に鬼が生まれました。

 普通の状況で、「この不気味なような感じ」というものは普通の人には生じない。これが妄想である。
 また、「私の中に鬼が生まれました」とは殺意を抱いたということと考える。
 なお、ここで京子とあるが、これは薩摩千代子と考える。すると、荻須が恋心を抱いた相手は薩摩千代子となる。

 少なくとも、この「特別企画 小説 佐伯祐三 その愛と死」の著者は、米子が妄想を抱いたことがある、殺意を持ったことがあると、この小説では言っている。

④ 「……血を吐いて三日目の夜でございます。喘いでいた佐伯が何か言うのです。唇を動かすのですが、小さくて聞き取れないので、私は耳をそばに近づけました。ぜいぜい言う息にまじって、『京子さん、京子さん』と呼んでいるのです。私はとっさに手をのばして佐伯の口をふさぎました。佐伯は苦しそうに首を動かします。
 『苦しい……な何するんや、オンちゃん(米子のこと)』本当に苦しそうです。私は手をはなしました。
 『秀丸さん(佐伯のこと)、貴方私に申しわけないことなさったでしょう。とんでもないことなさったでしょう』と私は言いました。
 佐伯のつぶった目からどっと涙が枕に流れおちました。口の辺りがひくひくと痙攣しています。
 『貴方は私を救済するなんて、おかしいみたいに偉そうなことおっしゃって、救済どころか、いつも私をおっぱなしにしていたじゃあありませんか。そして勝手な時に私を裏切って、わかっているのですよ。それが貴方の精進の仕方なんですか。』私はしがみつく佐伯の手をふり払って立ち上がりました。」
 「次の日、古くからのお友達がお見舞いにみえました。佐伯があまりひどい様子をしているものですから、
 『佐伯君、結核なんて多かれ少なかれみんなやっているんだ。転地でもすれば直ぐになおるさ、米子さんみたいにきれいな人に看病してもらえばいっぺんだよ』と元気づけを仰有いました。
 『いいえ、それが佐伯は私なんかじゃ駄目なのです。秀丸さんは若くて健康な身体の方を貰えばよかったんですの。私は跛行(別箇所に「びっこ」とルビがある)という事を今ほど身にしみて、つらく感じていることはありませんのよ』
 佐伯は声にならない声を出して目をつぶりました。瘧(おこり:一定の周期で発熱し悪寒やふるえのおこる病)のように身体をふるわせています。」

 佐伯と千代子のプラトニックラヴという行いで、佐伯は米子を裏切っていたのである。裏切りというこの行いは、佐伯の生き方に反するものである。米子は佐伯のこの行いをとりあげ、佐伯の心に鋭い刃をぐさり、ぐさりと突き刺したのである。これが、佐伯の自殺未遂の原因と考える。

 この小説に書かれているものは、従来の説、「結核とともに精神分裂症気味となり重症、自殺騒ぎを起こす」というものではない。
 自殺未遂時、佐伯は、「米子はんを愛している」というような内容のメモ書きを残したが、これは、この小説に書かれている内容の正しさを裏付けるものである。

⑤ 「今また、(芦沢さんは)中村先生とお見舞いにいらして「療養所に一緒にはいりましょう」と説得しているのを見て、私はあまりよい気持がしませんでした。病人のことを一番よく知っている私に仰有らないのでしょう。私は言葉も通じない外国で、不自由な身体で病気の夫と子供を背負ってたいへんな苦労をしていますのに……芦沢さんの様子はまるで私から佐伯を救いだすとでもいうみたいではありませんか。」

 これは、米子が悪いことをしているのでこのように考えたのではないだろうか。

 この本を小説としながら、米子から聞き出したものとして、扱っている。そして、それはあまりにも衝撃的なものである。
 この本を書けるのは、米子から聞き出すことができる、あるいは多くを知っている佐伯の画友でしかない。そして、作者は山田恵子とあるが、佐伯の親友に画家山田新一がいる。この姓の一致はたんなる偶然とは考えられない。この小説の内容の多くは山田が話したものではないだろうか。
 山田は古物美術商物故堂に、米子が佐伯の作品に加筆をしたことを話している。


 幻視

 統合失調症における重要な症状に、妄想と幻覚(幻聴・幻視・幻臭・幻触)がある。
 
 「特別企画 小説 佐伯祐三 その愛と死」(山田恵子著)には、米子に妄想があったことが書かれている。

 「『佐伯さんは……絵を描きにいらして未だお帰りにならないのですか(京子)』『そうなのです。こんな寒い日なのにね(米子)』私は深皿によそっている柔らかになった、ジャガ芋や、人参を見ながら、この不気味なような感じをどう受けとめてよいのかわかりませんでした。」

 普通の状況で、「この不気味なような感じ」というものは普通の人には生じない。これが妄想である。

 また、「佐伯祐三」(阪本勝著)の「米子手記」には、米子に幻覚があったことが書かれている。

 「こういう田園の静けさのなかで、佐伯は気分を変えようと努力しながら描きに描いた。モランでの連作を繰りかえし見つめていると、私自身の頭まで狂おしくなっていくのをおぼえる。一気に引かれたあのものすごく太い線、衝突し交錯する線の格闘、気味悪い白壁の露出、ばけものの顔のような時計台の時計、大きな目をむく教会の窓――画面に荒れ狂うそれらの形象は、悪夢のように 私にのしかかってくる。画集を閉じてやっとうなされていた自分に気づく。……。」

 「画集を閉じてやっとうなされていた自分に気づく」……これから、米子に幻視という幻覚があったことが分かる。
 米子には、画集にある時計台の時計がばけものの顔のように見えたのである。
 「米子手記」には米子に幻覚があったことが書かれている。また、「特別企画 小説 佐伯祐三 その愛と死」にも、米子に妄想があったことが書かれている。このようなことから、この小説は実話に基づいたものと分かる。


 佐伯米子が受けたストレス

 多くの精神疾患は、「遺伝的要因」、「幼少期の劣悪な家庭環境(母親の死による孤独、性的虐待など)」、及び「引き金となるストレス(戦争、レイプ、地震、親しい人の死など)」などにより起きる。
 「遺伝的要因」及び「幼少期の劣悪な家庭環境」は、ストレス耐性に影響を与える。また、そのストレス耐性は脳の海馬という部分と関係がある。
 「遺伝的要因」とは、この「海馬の機能が弱い(海馬がもともと小さい?)」というものである。また、「幼少期の劣悪な家庭環境」は、子供に大きなストレスを与え海馬の萎縮を起こす。
 萎縮した海馬は、ストレスに弱く、障害は他の部位にも広がり、これが各種精神疾患につながる。
 比較的弱いストレスでも精神疾患が起きる。これは、以前にストレスを感じやすい体質(縮小した海馬)になっていたからである。
 以上が、最近研究された海馬の働きである。

 米子には、「幼少期の劣悪な家庭環境」というものではないが、6歳頃から長期にわたるストレスがあった。
 佐伯祐三の親友山田の文章には次のような記載がある。

  「店員がたわむれに米子さんを肩車して誤って落っことしたしたんです。それで足がふじゅうになった。ですから、池田家としてはもっとも可愛がった娘です。 佐伯をはじめ、米子さんが松葉杖で歩くあの姿に、なんともいえん同情を感じたのでしょうね」 ほれてほれ抜いてというよりも、同情が愛に変わって、それが抜き差しならんようになって...池田家および米子さん自身としてもこれ以外に期待するところが無かった。それでどうしてもお嫁に行こうと。 河合玉堂はお嬢さん芸のお弟子さんは一切持たない人でした。しかし米子さんだけは、池田家の両親の愛情と熱意に負けて内弟子にした。だからお嬢さん芸で内弟子にした唯1人の人です。」

 「池田家の両親の愛情と熱意」の反面には、「娘に対する強い不憫を感じる親の気持ち」がある。

 また、周蔵は、娘ヤチは米子と佐伯祐三の兄との間に出来た子供であると言っている。これが事実なら、これも大きなストレスとなる。
 そして、関東大震災で財産を失った実家のこともストレスとして加わった。
 その後、米子が受けた強いストレスは、夫祐三と娘サチが亡くなった時を除いて2度ほどある。
 一度目は、佐伯が美しい人妻薩摩千代子に心が奪われたとき、二度目は、離婚が決まったときである。そして、その後に問題が起きている。

 1927年10月 ヴールヴァール・デュ・モンパルナス162番地の新築直後のアパート3階に移る。なお、2階には薩摩千代子が住んでいる。
 「千代子サン ヤチにオーバー作って くれはったけど 米子ハンが燃やしてしまいました。」(落合莞爾)

 1927年12月 ガス事故が起きる。6日間入院する。(落合莞爾)
 「米子はストーブの事故と語っている。『このアトリエで、ある夜ストーブの煙突の鍵を忘れたまま締めて寝てしまったので、毒ガスが室内にこもり、夜中に死んでしまうところでした。……このため、一週間ほど床についてしまいました』(『みずゑ』昭和三二年二月号)」(落合莞爾)
 「ガスのことは、あれは事故ではありません。米子サンが ガスの栓開きに行ったのを ワシは見ました。不思議に思いますが恐ろしいとは思いませんでした。」(「佐伯の書き置き」/落合莞爾)

 1928年3月15日 「離婚の決意を米子に告げた佐伯は、一人モンマーニュに写生旅行に出た。」(落合莞爾)

 1928年3月中旬 
 「パリは雨天が続き、屋外写生、小雨に濡れたのがもとで風邪を引く。やがて吐血する。二十九日病床につく。」(朝日晃)
 「異郷パリで、にわかに病気になった。症状は、本人のメモや書簡によれば、まず右手のしびれに始まり、舌がびりびりし、目がかすんで見えなくなった。それが一旦小康状態に戻り、また悪化、という経過を辿ったようである。」(落合莞爾)

 幼少期に受けたストレスは、その後の人生に大きく作用する。また、ストレスは累積する。米子のストレスは、「祐三が米子の加筆を認めず独自の路線を進もうとすることに耐えられず……」だけではなく、「祐三が薩摩千代子に目が移っていった、愛の喪失」もある。牧野医師、佐伯祐三の兄祐正、荻須高徳、……と男関係が多かったのも、愛のない人生に耐えられないからである。そして、そのような行動は、希薄な愛しかつかめないのだが……。

 ストレスは積み重なるのである。特に幼少期に強いストレスを受けた場合、それはその人の一生を左右することもある。
 米子は6歳の頃から足に障害があり、それがストレスの中核となったのだろう。それを不憫に思う親の育て方にも問題があったのでは無いだろうか。本来は、障害など気にせずに、特に甘やかすことなく接するべきであるのだが……。

 実家を助けるため、周蔵が都合をつけた大金のほとんどを実家に送ってしまった。画友達をまた家に呼び、みんなで楽しく食事もしたい。そのため、佐伯の絵を売れるようにして、稼がなければならない。佐伯の絵に加筆して売れるようにしてなにが悪いのだろうか。

 米子は、ここまではそれほど悪いことをしていない。
 しかし、画家はキャンパスに自分の内面を描き出すことが生きることでもある。
 佐伯の心は、米子から離れていく。
 夫のために、一生懸命尽くしたのに。

 「千代子サン ヤチにオーバー作って くれはったけど 米子ハンが燃やしてしまいました。」(落合莞爾)

 佐伯の心は、米子から離れていく。

 佐伯達は、モランに1、2ヶ月間写生に行く。佐伯は一心不乱に絵を描く。

 米子は、ひとり取り残される。


 終わりに

 ここに掲載した作品「静物」(1940年)などは、非常に奇妙なものである。そこには、「異常な立体感」と「色彩感覚の異常」がある。
 この作品を見る限り、サロン・ドートンヌに入選した実力がある画家とは思えない。
 米子の絵に問題が起きたのは、「ガスの事があってから、米子はんは 巴里の街中 描かんようになりました。描けん云うてます。技が止まってしまったようです」とあるように、ガス事故と関係がある。

 統合失調症の患者には、幻視に類似したともいえるような「異常な立体感」と「色彩感覚の異常」などがある。そして、佐伯米子の絵画にはそれらがある。
 もちろん、絵画から佐伯米子が統合失調症だといえるわけがない。
 また、統合失調症の判断基準には幻視がある。米子には幻視があったことは確かである。しかし、統合失調症と判断するには、幻視だけではない。幻視があったことだけから、米子が統合失調症だといえない。
 しかし、それらは脳の同じ箇所に障害があるということである。

 母親を殺した息子の精神はほとんど病んでいると言われている。もし、米子が娘ヤチを殺害したなら、その精神は病んでいた可能性は非常に高いはずである。しかし、精神が病んでいる息子が必ず母親を殺すというものではない。

 吉薗周蔵周辺の資料はねつ造されたものではないので、佐伯の手紙等にあるように「米子がガス栓をを開いて佐伯を殺害しようとした」ということも事実と考える。
 ガスによる殺害が未遂であったなら、次に手段を変えて殺害を謀ろうとするのは当然の成り行きである。

 周蔵周辺の資料などから、佐伯の症状はヒ素のよるものであるとしながら、誰もヒ素の中毒症状である視力障害について述べていない。
 これは、ヒ素の毒性で、視力障害はほとんど知られていないからである。これは、ヒ素の化合物の構造、投与量、投与期間が中毒症状の出方に関係するからである。

 荻須高徳は、米子と共に佐伯のそばによくいた。そして、佐伯について 、「ぼくは佐伯さんに狂気を感じたことは一回だってありません」(「私のパリ、パリの私 荻須高徳の回想」)と言っている。


 履歴

1897年 東京に生まれる。
6歳頃、足に障害が起きる。
日本画を河合玉堂に学ぶ。
東京女学館卒。
1921年 佐伯祐三と結婚。
1923-1926年 渡仏。
サロン・ドートンヌ入選。
二科会入選。
1946年 三岸節子等と女流画家協会を創立。
第21回二紀展文部大臣奨励賞受賞
1949年 二紀会絵画部理事
1972年 死去。享年75才。


 参考文献

 「私のパリ、パリの私 荻須高徳の回想」(荻須高徳著、東京新聞出版局)
 「天才画家『佐伯祐三』真贋事件の真実」(落合莞爾著、時事通信社)
 「求美」(1978年36号、求美編集室)
 「近代の洋畫人」(中央公論美術出版)
 「佐伯祐三と妻・米子」(稲葉有著、影書房)


 佐伯祐三履歴

1927年10月 ヴールヴァール・デュ・モンパルナス162番地の新築直後のアパート3階に移る。なお、2階には薩摩千代子が住んでいる。

1927年11月、12月 
・「(11月3日)口ききません。ヤチがストーブ用の火箸で 折檻されたようで 足に怪我しました。」(落合莞爾)
・「千代子サン ヤチにオーバー作って くれはったけど 米子ハンが燃やしてしまいました。」(落合莞爾)
「米子の話によると、へいぜい妻にやさしかった佐伯は、そのころからよく怒るようないなったという。」(阪本勝)
1927年12月
ガス事故が起きる。
・「石炭ガス中毒で、祐三一家が死にかかったのも当時のアクシデント――である。」(「そして佐伯祐三のパリ」、朝日晃)
・「佐伯とヤチ子が、シングルベッドに背を向け合って、寝ていた由。佐伯は五日、ヤチ子は七日ほど入院したが、佐伯は頭痛が取れず、ずっと後まで頭痛を訴えていた。ヤチ子は目に異常があるように思うと、千代子はいう。周囲の声が耳に入らぬように茫然としており、佐伯が指を鳴らすと、催眠術から覚めたように正気に戻る。また壁土や石を舐めたり、異常の行為が目立つ、というので、これは一刻も早く東京に戻した方が良いと周蔵は判断した。」(落合莞爾)
・「大使館員の調査に対して、米子は『アタクシの不注意です』と云った。」(落合莞爾)
 「ガスの事があってから、米子はんは 巴里の街中 描かんようになりました。描けん云うてます。技が止まってしまったようです。」


1928年2月
・「周蔵が2月にパリで会ったとき、佐伯は健康そのものであった。従来の佐伯の伝記が、この頃より結核が進み、密室に閉じこもって『郵便配達』や『ロシアの少女』を描いたと説明するが、それ自体が米子の追想話を基にした創作なのである。」(落合莞爾)
・1928年2月頃 「佐伯は米子夫人と弥智と、その頃彼に師事していた荻須高徳、山口長男、大橋了介、横手貞美の四人を連れて、巴里から汽車で一時間ほどの美しい田舎モランへ、二ヶ月ほど田園風景を描きに行った。田園風景で転回しようと試みたのである。(里見勝蔵)
・「『街頭風景に捉われ過ぎた佐伯さんの発案で郊外のモランへ……』、『超人的情熱と努力に全く感動』と、約二十日間生活を共にした山口長男の言葉である。カンヴァスが足りなくなり一度パリに戻って補給、また引っ返した。荻須、大橋、横手も同行したが、山口、荻須が書き残したように、それはまさに荒行、修行で、それに耐えられず横手は脱落した。我々が二度目の絵を終わって畑の中や村家の裏等を捜し廻ると何枚目かの画面を暗くなるのも構わず必死に描いていた。こういう時は四枚目も描いていたに拘らず結局駄目だと内心いら立っていた」(「美之國」山口長男著、1937年4月号/「佐伯祐三のパリ」朝日晃著)
・「……と書いたのは山口長男、街頭風景に捉われ過ぎた佐伯の反省から郊外でのヴィリエ・シェル・モランでの二ヶ月、真冬の野外写生に同行し日夜を共にした経験からの実感である。(山口長男/「そして佐伯祐三のパリ」朝日晃著、P.270)


1928年3月15日 ついに離婚が決まる。(落合莞爾)

1928年3月中旬 
・「春の初め、モンパルナスの駅の裏のレスト街にある、荒れた小さな三室のアパートに転居したが、ここでは、もう佐伯は一度も筆をとることはできなかった。」(里見勝蔵)
・「パリは雨天が続き、屋外写生、小雨に濡れたのがもとで風邪を引く。病床について『郵便配達人』、『ロシアの少女』を描く。やがて吐血する。二十九日病床につく。」(朝日晃)
・「『ロシアの少女』は1927年暮れの作品である」(落合莞爾)
・「異郷パリで、にわかに病気になった。症状は、本人のメモや書簡によれば、まず右手のしびれに始まり、舌がびりびりし、目がかすんで見えなくなった。それが一旦小康状態に戻り、また悪化、という経過を辿ったようである。」(落合莞爾)

・「朝日晃作成の年譜では、4月下旬、リュ・ド・ヴァンヴ五の西向き四階三部屋の家へ越す、とするが、真相は、実は3月13日に引っ越しており、世間体から四月下旬まで発表しなかったのである。」、(落合莞爾)
・「3月15日、離婚の決意を米子に告げた佐伯は、一人モンマーニュに写生旅行に出た。」(落合莞爾)

1928年5月中旬
 ・「再び風邪がもとで、身体は衰弱の度を増していった。中村博士に診てもらっていたのだが、ある夜半の急病で、往診にきたフランスの医師がした注射の分量が、日本人の体質には多すぎたといわれているが、佐伯は急に発狂状態に陥った。」(里見勝蔵)
 ・「フランス人の看護婦が私の止めるのもきかず澤山の分量の注射をし過ぎました。中村さん(博士)のおっしゃるには一のものを十したそうです。その夜急にひどい抗糞(興奮)に陥つてあとはめちゃめちゃになりました。」(「米子から前田寛治宛てに書いた手紙」/「中央美術」第十四巻第十号/「佐伯祐三」阪本勝)

1928年6月4日 「僕は充分覚悟して病室に入ったのだが、扉を開けた瞬間「いけない」絶対的! そんな感じに襲われたのである。ひどくやつれている上に髭だらけで、落ち窪んだ眼窩がするどく一種死相とでもいうべき影が漂っていた。
彼の力なく白く痩せほそった二本の指を握って、僕はふたこと、みこと元気をつけるように話しかけたが、佐伯は多くを語らず南フランスへでも行って養生したいとだけ言った。そして隣室に僕は驚くほど山積みされた作品を見た。一体これは!何百枚なんだろうと身体のふるえの止まらないような感動に襲われた。」(山田新一)
1928年6月13日 「芦澤が、ヴァンヴ、五の佐伯祐三を見舞った記録を-。『今日椎名氏が来て、佐伯氏が肺を悪くし、その上、神経衰弱で死にそうだから…』『中村博士も言って呉れたが、佐伯氏は神経衰弱で殆ど絶望的らしい…』」(「朝日晃)

1928年6月20日 自殺未遂をする。ブーローニュ警察からの連絡で米子と林が連れに行く。

 「ある夜、もう真夜中であったが、僕と椎名氏とが、例の首吊り事件から戻されて、いずれは病院に運ばれる日の近かった佐伯の病室をそおっと覗くと、佐伯は小児のように眠るが如く眠らざるがごとくしていた両眼を、パッチリ開けて、手振り身振りで自分の寝台の近くに我々を呼び寄せた。……
 佐伯が言ったこの世における間違ったこととは、椎名氏も先に「彼はある女との関係を気にかけていたらしかった。」と書いていたひとつの恋愛であった。彼は実に気が違った者とは思えないぐらい整然たる口調で、そして心の底からこの世に遺してゆく懺悔の心をこめて、我々二人にしみじみと告白するのであった。」(山田新一)
 
1928年6月23日 セーヌ県立ヴィル・エヴラール精神病院へ入院する。米子と荻須が同行。(朝日晃) 
・「夜半に佐伯君は私(椎名氏)を一人そばに呼び、まったく正気なものの条理をたどって色々話した末に自分の図った自殺の方法を詳細に物語った。『……森の奥の大木によじのぼり、一本の枝に紐を結び付け、そして首を吊ったのである。それからどうして降りたのか、どうして落ちたのか、彼自身にも明らかでな いが、空中の声に導かれるがままに、奥へ奥へとひた歩きに歩いて行ったのだ』……と。」(椎名其ニ)
・「アパートで寝ていたときクラマールへ脱出して、首をつって、助けられて、そのあとわれわれは閉口して入院させたんですが、それからあとというものは、絶対食べることを拒否」、「佐伯は、入院したその日から飲食一切を拒否しました。何を食えと言っても、何を飲めと言っても拒絶したんです。ブドウ糖の注射だけで一ヶ月もちこたえた。このことはどの本にもあまり書いてありませんけれど・・・。アパートで寝ていたときクラマールへ脱出して、首をつって、助けられて、そのあとわれわれは閉口して入院させたんですが、それからあとというものは、絶対食べることを拒否して、自殺したといえますね。」(山田新一)
・「祐三の入院後、米子、弥智子は、ホテル・デ・グランゾンに移った。(朝日晃)
・「米子の作る食事を拒む」(落合莞爾)
・「その頃、すでに弥智子も肺病と神経を病んで……。」(里見勝蔵)
・「目下弥智が結核喉頭炎の上に髄膜炎を併発して一両日中が危険であるから米子夫人勿論手紙書くことができず小生又多くを記することができない。」(山田新一)
・「娘は別の病気で、明らかに薬物中毒に陥っており、症状は重篤と見るべきである。」(落合莞爾)
1928年8月13日 米子が見舞う。いつになく目を覚まし、米子の持ってきた果物を食べた。(朝日晃)
1928年8月15日 看護人は夜通し泣き続ける佐伯祐三の姿を見た。(朝日晃)
1928年8月16日 セーヌ県立ヴィル・エヴラール精神病院で死去。享年30歳。
1928年8月30日 娘弥智子も死去。

 「佐伯祐三の急死には事情があると睨んで、周蔵が米子に疑惑の目を向けたのは当然である。後日、パリから帰国した藤田嗣治の説明で、ある程度のことが分かった。周蔵と別れた後、佐伯の奇妙な行動に、一画学生が気がついた。佐伯が仲間のことを探って記していたメモが見つかってしまったのである。直ちに画学生仲間に触れ回られ、佐伯は問い詰められる。やがて暴力沙汰に発展し、査問された佐伯は、縄で首を絞められたのか、あるいは自殺を強要されたのか、危うく逃げ出した。精神病院に入れられた祐三は食物を拒否し、ついに餓死した。以上が真相だと思うが。」(落合莞爾)
 
    
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