屋根裏部屋の美術館

佐伯祐三 美しきもの

  2010.6.7
中村正明
masaaki.nakamura.01@gmail.com

 はじめに

 当美術館「屋根裏部屋の美術館」が所蔵する佐伯祐三「フランス風景」(仮題、真贋不明)を紹介する。
 この作品は、「激情的で感情溢れる筆使いでパリの裏町や古い壁、郊外の建物や教会のある風景などを描いた」ものとは一線を画するもので、美しく、すてきなものあり、真贋不明ながらすばらしいものである。
 
 また先に、荻須高徳、佐伯祐三の妻米子について調べ、次の結論に達した。

 ホームページ「天才佐伯祐三の真相」(落合莞爾)に書かれている「荻須は、米子と関係を持っていた」といことは、事実である。
 また、古物美術商物故堂による山田新一の話から、「米子は佐伯の作品に加筆をした」というもとも、事実である。
 そして、そのようなことをはじめて述べている吉薗周蔵周辺の資料は、ねつ造されたものではないことは分かる。

 吉薗周蔵周辺の資料はねつ造されたものではないので、佐伯の手紙にあるように「米子がガス栓をを開いて佐伯を殺害しようとした」ということも事実であると考える。
 そこで、さらに調べた結果、「米子は、佐伯と娘弥智子を毒物ヒ素で殺害しようとした」という吉薗周蔵の推理は正しいものと推測した。

 ここでは、吉薗周蔵関係から出た佐伯作品について考察する。この作品群は、真贋論争で美術界を騒がしたものである。


 佐伯祐三 優しき人

 佐伯祐三は東京美術学校卒業後パリへ旅立ち、フォーヴィズムの巨匠ヴラマンクに作品を「アカデミック!」と非難されたのをきっかけにユトリロの影響を受けつつも独自の画風を確立するに至った。
 独特の画風で場末のカフェ、壁、広告塔などを描いた。
 1928年3月頃より持病の結核が悪化したほか、精神面でも不安定となった。同年8月16日、入院中のセーヌ県立ヴィル・エヴラール精神病院で死去した。

 佐伯祐三の父祐哲は、信心に厚く、すぐれて高徳の人士だった。子供に優しく、使用人にたいしても思いやり深かった。

 佐伯祐三の性格には次のような優しさがある。

 「祐三は幼いときから生き物にたいするあわれみの情が非常に強く、荷車をひく牛や馬に同情して懸命に後押しをしたり、あるいは野良犬を拾って家に連れて帰ったことも一度や二度ではない。その殺生嫌いは徹底していて、魚やネズミから蝿や蚊にいたるまで、どんな生き物も殺すことはなかったという。」

 「(第一次渡仏時、)その船中でのことでした。ドイツの気の毒な夫婦に会いまして、私の知らない間に、その方にも、自分の旅費のうちから、お金を分けてあげてしましました。その高を私にはまったく言いませんでしたが、それだけに、身分不相応な額だったにちがいありません。……」(「佐伯祐三のこと」佐伯米子著/「日本近代絵画全集10」、講談社)

 「関東大震災の時死体を見て喜ぶような異常な面もあった」というものがあるが、これは、恐怖からくるものと考える。
 
 佐伯は、一年遅れて名門北野中学に入る。そして、そこでは野球部に入りセンターとピッチャーをしていた。

 1911年 名門北野中学の入試を受けたが失敗する。
 「佐伯の落胆と悲しみは非常なものだった。」(阪本勝)
 「佐伯さんや僕が卒業した、大阪北野中学はいわゆる名門校で、僕のいた頃はみんな東大に入って役人になる人ばかりだった。あの学校からは芸術関係の仕事をする人は出ないね。絵かきは佐伯さんひとりだし、役者は僕ひとり。今はいるかもしれないけれど。だから僕はあの人を大事にしているんだ。僕とふたりだと思っているから。(森繁久弥)」(「求美」1978年36号、求美編集室)


 佐伯の趣味は、チェロとヴァイオリンの演奏。そして、楽器演奏の腕前はプロ並みとはいえないが、なかなかのものであった。
 
 「美校入学前よりヴァイオリンを習い、共にセロも好きでしたから、狭い下宿の部屋はこの楽器が大きな場所を占領し……。」(「佐伯祐三のこと」佐伯米子著/「日本近代絵画全集10」、講談社)

 「二人(佐伯と里見)を結びつけた佐伯のチェロから流れた曲は、ラフ「ヴァイオリンとピアノのための6つの小品」 から 「カヴァティーナ」 、ロシア民謡にもとづくチャイコフスキーの弦楽四重奏曲「アンダンテ・カンタービレ」と程良い早さの流麗なメロディが里見の耳に残っていた。」(「佐伯祐三のパリ」朝日晃著)
 「ヴァイオリンは週一回、コンセール・コロンヌの第二ヴァイオリン奏者を林に紹介され、その日だけは、油絵の道具を桐のケースに入ったヴァイオリンにかえて三階からおりた。」(「そして佐伯祐三のパリ」朝日晃著)

 そして、佐伯の服装について書かれているものがある。

 「どこで探したのか木綿のブルーの労働服を着(その服は所々色あせ、縫目が見えていた)、こんな格好は画家にとっては、一味趣きあるものかもしれませんが、その姿でパリへ着いたのですから、平和な芸術の街に住みなれていた人々は、この姿を見て、どんなに戸惑ったことかわかりません。」(「佐伯祐三のこと」佐伯米子著/「日本近代絵画全集10」、講談社)

 「佐伯は一張羅の制服の釦は一切掛けないし、生涯どんなに寒くてもオーバーを嫌って来たことがない。なんともずぼらな服装であった。」(「素顔の佐伯祐三」、山田新一著)

 これらが、佐伯の美意識である。身なりでも、佐伯は、美意識ともいえる「画家のあるべき姿、服装を」という考えを持っていた。
 佐伯は、名門中学に入り、スポーツに秀でた。そして、音楽と美術にも秀でた。さらに、常に杖を携えなければならないというハンディのある奥さんを持つという、内面を重視した男でもある。
 この生き方が、佐伯が持つ「男の美学」である。

 また、彼はいろいろな作風に挑戦し、ルノアール風、セザンヌ風、ヴラマンク風、ユトリロ風、佐伯独自の力強い作風、(そして穏やかな作風?、アンソール風?)と変化した。

 「パレットを持つ自画像」(1924年)、「立てる自画像(一部)」(1924年、大阪市立近代美術館建設準備室蔵)

  
  
 1924年、佐伯は里見勝蔵に連れられ、パリ郊外に、フォーヴィスムの画家モーリス・ド・ヴラマンクを訪ねた。佐伯は持参した自作『裸婦』を見せたところ、ヴラマンクに「このアカデミックめ!」と一蹴され、強いショックを受けた。その後、ヴラマンクに教えを受け、彼の画風は変化した。
 それと同時に、服装も変化したようだ。

 ヴラマンクに、今までの画家としてのすべてを否定されたのだ。
 

 ロマンのある景色 第1回目渡欧作「フランス風景」(仮題、1924年?、真贋不明、古物美術商物故堂取扱、屋根裏部屋の美術館蔵、Adobe photoshopによる自動色調補正有り)



 出品者(古物美術商物故堂)による作品紹介

 本作品は大阪の業者市に於いて、十数点の板絵を中心に古い作品の箱買いの中にひっそりと入っていた作品です。画面が汚れていたのでクリーニングをしたところ、サインの様なものが出てきました。私的にはどう見ても佐伯祐三のサインに見えます。作品自体は古く板に描かれています。サイズも変形で、3号弱。無論額も無く、積まれていた物です。板の状態は少し反りが見られますが、画面の状態は概ね良好と思われます。詳しくは画像をよくご覧になりご判断下さい。図柄はヨーロッパの田舎の風景のようですが、佐伯だとすれば、フランスなので南フランスか、パリの郊外に行けばこの様な風景があるのかは判りません。また、絵の筆致が佐伯の独特の速い筆致であり、特徴が随所に出ています。小さい作品ですから、写生的に現場でさっさと描き止めた位のものでしょう。出来自体云々するほどの物でもなくただ、もしかしたら佐伯の真筆か?という程度の物ですね。それでもファンにとってはたまらない物かも知れませんから。画風からは第一回目の渡欧の物と推測されます。若干、荒々しさが有る作品です。晩年の佐伯はもっともっと完成度が高くなります。この画面からは帰国後の下落合風景に通呈する物がありますし、ただただ臭うのです。それ以上の表現は難しい。もし佐伯の絵とすればどう言う経緯で大阪に在ったのか、など不明な事は多く、断定は無論出来ませんし、どうかは一切不明ですが、臭いを感じるのです。佐伯の臭いを。色彩は空の部分のペルシアンブルーをはじめ、構図的なものや細部にわたる感じがそう感じさせます。サインも臭うのです。贋物の臭いを感じませんし、このサインも真似はなかなか難しいと感じます。総合的に判断して、もしかしたら?と感じさせる作品です。良い絵です。

 メールでの問い合わせに対する返事

 「私は過去に佐伯の作品(東京美術倶楽部で真作と認められた作品)を2点発見しています。1枚は漁船(キャンバス25号)と1枚は風景(F4号小品)でしたが、本作品の雰囲気がその時の経験を踏まえて、良く似ているために、直感でそのように感じたのが正直な所です。」

 「本作品に関しては、私の気持ちは半々。説明文でも正直に書きましたが、ただ臭うのです。私は『こう言う雰囲気の絵も佐伯にはあります』、としか言いようが無い。それ以上でも以下でもないと思います。」

 作品解説

 「サイズも変形で、3号弱」…フランスで板を購入したのなら変形サイズになる可能性が高い。また、佐伯渡欧作品とは境界線が異なる。

 この作品は、画集にある佐伯作品と比較すると、全く作風が異なり、開放感があり、青の使い方が非常に印象的で、美しいものである。絵の具は透明感のあるものを用いている。
 この作風は、アカデミックとセザンヌを基調として、ヴラマンクというフォーヴをただうわべに加えたようなものである。
 第一次渡仏作品で、ヴラマンクに会う以前のものである可能性が高いものである。

 佐伯は、次のような時期があった。

 ① 「藤島武二をはじめ、石膏デザインを長原孝太郎に、油絵を小林萬吾に学んだ。この三人の師は、いずれも感覚的で明るい色彩表現を尊ぶ外光派白馬会の黒田清輝門下である。」(「新潮日本美術文庫43 佐伯祐三」斉藤泰嘉著、新潮社)

 ② パリ郊外のクラマールの森に居を定めグランド・ショミエール画塾(研究所)の自由科に通う。……アカデミックな作品を描いた。

 ③ ヴラマンクに師事していた里見勝蔵に案内してもらい、佐伯は自作の『裸婦』を見てもらう。ヴラマンクの口からは「このアカデミック!」という攻撃の言葉が弾け飛んだ。必死に佐伯を弁護する里見。だが、「これを巴里の研究所で描いた?そうだと思つた。この女に生命が無い」としゃべり続けるヴラマンク。」(「佐伯とヴラマンクと私」里見勝蔵著/「美術新論」1928年10月号)……アカデミックな作品を否定され、フォーヴへと変わる。

 ④ 「(アカデミックからフォービスムに変わったとき、)――これらはいままでの作品とはすっかり変わった不透明な色彩の絵の具を思いきり厚くぬったものになって行きました。……。(「みずゑ」第619号)」、「透明できれいな色彩の絵の具はパレットから姿を消し、それにかわって不透明で暗い絵の具が登場した。」(「佐伯祐三」阪本勝著)

 そして、佐伯はヴラマンクより色彩家といわれた時があった。

 「一九二四年の秋の美しい日がつづく頃、僕は佐伯たち三人と、木下勝次郎を誘って、ノルマンディの片田舎のネル・ラ・ヴァレへ行った。そこは、かつてヴラマンクが自ら自動車を運転しながら、僕にこの地方の景色、彼のモチフを見せてくれた。非常に美しい村の一つであつた。」「そこで佐伯もヴラマンク風の風景を盛んに描いた。粗雑だが、ちょっと愛すべき風景をたくさん描いた。われわれは三ヶ月ネルに止まった。」「ネルは滞在中、僕と佐伯は二度ヴラマンクを訪ねた。彼は佐伯の風景について物質感は不十分だが、彼は色彩家だいつて、二度とも大変機嫌がよかった。」(里見勝蔵)

 この作品はは板絵である。佐伯作品のことは、画布のことについて議論がいろいろあが、板絵のことは議論されていない。
 落合莞爾氏によるホームページ「天才佐伯祐三の真相」には、佐伯祐三の板絵について書かれている。

 「第二次パリ報告」と並ぶ重要な資料に、佐伯が各種の紙面に書き残したメモ類がある。総じて佐伯から吉薗周蔵に報告する形式になっているが、その中に稀にではあるが、日付入りのものがある。」(落合莞爾)
 
 「あの時の事思い出しました。あの時こわしたタンス板にかいた画は実に良くかいていました。今はあの時の画を思い出して、新しい事に向かっているのです。板にかいた画は、あの三枚しかないけど、実は今度こっちへきてすぐかいてみたのですが、まったくあの味あいが出ないので、主義を戻しました。誠あの画は実に良くできていました。」(1927年10月2日佐伯祐三メモ/落合莞爾)

 この作品の板は油彩用であるが、佐伯の第一次渡仏作品でヴラマンクから色彩家と呼ばれるようなもの、あるいは「透明できれいな色彩の絵の具」を用いたものは今まで出ていない。この作品は、佐伯からしてみれば、フォーヴを理解していないで描いたものであり、作品として否定しなければならないものである。

 また、この作品は、クリーニングが入っているということなので、その方法を出品者(古物美術商物故堂)に伺った。

 「ご質問の件ですが、通常良くある事ですが業者市での出物の場合、板絵やキャンバスむき出しで粗雑に積み込まれている事が多く、絵自体も埃やタバコの脂や場合によっては故意に古色を付けられた物や様々な物がございます。本作品場合は埃は勿論の事、恐らくタバコの脂が酷くついていた状態でした。まず当方が行うことは、お湯でぬらしたタオルで画面を綺麗にふき取ります。次に市販のオイルで画面の付いた脂を取ります。その時には拭き物は茶色の脂と思われる物が大量に付きます。本作品の場合は絵の具の色落ちは有りませんでした。以上が個人的に行ったクリーニングです。その後、薄くタブローを塗りました。以上の状態です。ご参考になればと思います。以上宜しくお願い致します。」(物故堂)

 この作品は、新たにタブロー(保護用ワニス)が塗られている。そして、元額もなく、所有者の由来もない。この作品は、今では、贋作と判定される可能性が非常に高いものである。

 この作品は、この時期に描いた作品「クラマールの午後」、「オーヴェールの教会」および「雪の村落」などと比較すると、あきらかに作風が違う。
 しかし、この作品は、「市販のオイルで画面の付いた脂を取ります。その時には拭き物は茶色の脂と思われる物が大量に付きます。本作品の場合は絵の具の色落ちは有りませんでした」ということは、古いものであることを証明するものである。

 落合氏のホームページに次のような記載があった。これは、佐伯作品に加筆があったかどうかが分かるもので、ガッシュについて記載されている。

 「ガッシュ(不透明水彩)は、表面の絵の具と加筆の絵の具を接着する役割を果たす。つまり、加筆部分の油絵の具が剥落するのを防ぐためである。さらに上から油や油性ニスを塗ると、油が染み込んで、色が透明に変わり、見た目には塗ってあるのが判らなくなる。キャンバスに油彩を塗ると、表面には酸化皮膜が出来るが、その下の油迄完全に乾くには十年かかり、五十年経つと自然に痛んでくる。いままで佐伯の公開作品は十点くらい修復してきたが、クリーニングは埃を拭き取るくらいしか出来ない。表面を水で拭くと、絵の具の上の層が落ちてくるからだ。これは経年変化でガッシュの接着能力が落ちているからで、こんなことはガッシュを用いないと起こりえない。「肥後橋風景」も直したが、ガッシュを使った加筆はなかった。「下落合風景」も同じだ。日本での作品には、加筆はしていないと思う。」(修復家杉浦勉)

 もし、この作品が佐伯祐三のものなら、物故堂のクリーニング方法からするとガッシュが塗られていないことから、加筆がないものであることが分かる。また、それは、絵を見ても分かることだが……。


 セザンヌ「Chateau Noir 1904」(ルーブル美術館蔵)



 作品「フランス風景」は、この作品と同じような配色である。そして、対象物を中央に配置し、その左右手前に近景を入れる配置は、セザンヌの影響を受けたヴラマンクが用い、またヴラマンクの影響を受けた里見勝蔵が用いた。

 跡見泰「村はずれ」(1922-1924年頃制作、1967年跡見泰回顧展出品作、絵画インターネット販売業hiromi取扱、屋根裏部屋の美術館蔵)



 この作品は、跡見泰が渡仏時作成制作したもので1922-1924年頃のものである。この作品は、フランスで、誰かについて教わったとおり描いたものである。その構図は、対象物を中央に配置し、その左右手前に近景を入れる配置をとっている。
 これが、当時のアカデミックなものである。


 佐伯祐三「クラマールの午後」(1924年)



 作品「フランス風景」は、あきらかにタッチがこの作品と異なる。


 佐伯祐三「ゴッホの墓地から見た教会(1924年、新発見、「そして佐伯祐三のパリ」(朝日晃著)掲載)



 作品「フランス風景」は、あきらかにタッチがこの作品と異なる。


 佐伯祐三「オワーズ河原周辺風景(ネル・ラ・ヴァレ風景)」(1924年、「佐伯祐三のパリ」(朝日晃著)掲載)



 作品「フランス風景」は、あきらかにタッチがこの作品と異なる。
 なお、この作品は「オワーズ河原周辺風景」とあるが「ネル・ラ・ヴァレ風景」を描いたものである。
 (補足:「巴里、北停車場より一時間半、ヴルモンドアより軽便で三十分にしてネル・ラ・ヴァレに着く。」(里見勝蔵))


 ヴラマンク「セーヌ河畔の家並み」(1910年頃、セザンヌ風作品、東京富士美術館蔵)



 作品「フランス風景」の建物は、この作品と同じようなものである。この作品は、セザンヌ「オーヴェール、見晴らしのよい眺め」(1973-1975、シカゴ・アート・インスティテュト蔵)の風景を引き寄せて描いたようなものである。


 里見勝蔵「マリーヌの記念」(1924年、鳥取記念博物館蔵)



 作品「フランス風景」の雲を描いたタッチは、ヴラマンクの影響を受けて描かれたこの作品と類似のものである。特に、一番手前右の2階建ての建物は、作品「フランス風景」に描かれた建物と同じ構造である。


 吉薗佐伯作品「ネル・ラ・ヴァレ/吉薗」(仮題)



 この吉薗佐伯作品「ネル・ラ・ヴァレ/吉薗」は、かって「天才画家<佐伯祐三>真贋事件の真実」(落合莞爾)を紹介したホームページから入手したものである。
 作品「フランス風景」は、比較した作品のなかでこの吉薗佐伯作品「ネル・ラ・ヴァレ/吉薗」と一番雰囲気が似ているが、作風は異なる。

 雰囲気というのは、作品「フランス風景」と同様、なにかおとぎの国に来たような感じがするというものである。
 吉薗佐伯作品「ネル・ラ・ヴァレ/吉薗」はアカデミックなものではない。この作品「ネル・ラ・ヴァレ風景/吉薗」は、「(1928年3月17日)今までの茶を青にして、黒を濃い青にして、濃い茶を緑にして描いたのです。これから、この描き方やったろと思うのです。すがすがしい画になったように、思えるのです。」(「第二次パリ報告」/落合莞爾)という種類のものか。

 建物を遠くに置き、手前に緑の木を置く。この中央に緑の配色は、「ゴッホの墓地から見た教会」(1924年、新発見)と同じものであり、ヴラマンク「セーヌ河畔の家並み」や里見勝蔵「マリーヌの記念」にあるものと異なる。先に色彩の配置を考えたようなものである。

 この作品「ネル・ラ・ヴァレ/吉薗」は、ロマンと色彩配置の点から考慮すると、作品「フランス風景」と「ゴッホの墓地から見た教会」の中間的なものである。


 佐伯真贋騒動

 佐伯作品については、美術界を騒がす大騒動があった。

 1994年1月、佐伯のパトロンであったという吉薗周蔵氏の遺児である吉薗明子さんが、佐伯祐三の作品38点を武生市に寄贈することとなったことから始まる。寄贈とは別に同じ佐伯の作品11点も購入するというものである。
 この作品は、米子の手が加わっていないものであり、特に最後の数年間の米子に手を入れさせることを拒否して完成させたというものである。
 しかし、当代随一の大御所河北倫明氏および匠秀夫氏は新発見の真作としたが、美術品鑑定の権威ともいえる東京美術倶楽部は贋作の疑いありとしたため、美術史上最大の真贋論争が起こった。

 また、当時の資料まで沢山見つかり、周蔵と佐伯との関係も明らかにされた。
 周蔵は、上原勇作付きの特務(陸軍の特務)で、国益のため、純粋アヘンの製造を行っていた。上原から仕事で優遇されていた。

 これには、岸和田事件で有名になった落合莞爾氏の名前もあがり、作品のうち幾点かはこの落合氏の下にあるといわれている。武生市は、結局寄贈を辞退した。

 そして、2002年7月、東京地方裁判所は、吉薗コレクションのすべてを贋作と判定した。しかし、その後もこの真贋論争は続いている。

 上原勇作:宮崎都城生まれ。陸軍軍人。父は鹿児島藩士。明治12年(1879)陸軍士官学校卒業。14年(1881)フランスに留学。日露戦争時には第4軍参謀長として参加。45年(1912)第2次西園寺内閣の陸相に就任。内閣が財政緊縮を進めたために軍の二個師団増設要求と対立し、陸相の辞職により内閣総辞職となった、いわゆる大正の政変の当事者。のち教育総監、参謀総長。陸軍薩摩閥の長老として重きをなす。日本における工兵の創始者。(ホームページ「近代日本人の肖像」)

1.東京美術倶楽部鑑定委員長谷川徳七氏の意見

 ・「一目見ただけで、絵がまるで佐伯祐三とは違う。誰が言おうと、こんなのはダメです。断じて佐伯じゃあない。」
 ・「この目で見た未発表の佐伯祐三の絵とやらが、あまりにも稚拙だったから、ミステリーもどきのストーリー展開に関心はなかった。」
 ・「絵だけではなく、日記、書簡といった大量のニセモノ物証によりだまされた人が多い。」

 著書
 「画商の眼力」(長谷川徳七著、講談社)

 そして、佐伯祐三作品が好きな美術愛好家の意見も同じようなものが多く、彼らの多くは吉薗佐伯作品を贋作と見る。また、落合氏をうさんくさい人物と考えた。
 長谷川氏の考え方は、鑑定委員としては決しておかしなものではない。

 阪本勝氏も著書「佐伯祐三」で同様のことを言っている。

 「……、判定するのに一秒とかからない。つまり佐伯の作品は偽作できないのだ。気合いで一気に描いた絵には、作者の気力が躍動しているから、偽作などできるものではない。技術はある程度真似ることができるが、精神を真似ることはぜったい不可能である。」

 「当時(平成8年)の「芸術新潮」誌(4月号)に掲載された問題の作品16点を見る限りこれが佐伯の絵とはとても信じられない代物ばかりである。」(佐伯作品愛好家)
 この「芸術新潮」に掲載された油彩画16点を見る限り、私も佐伯作品愛好家と同じ意見である。しかし、なかには穏やかですてきなものが数点ある。

2.科学鑑定の結果

 ・画布にテトロンが混じっている。
 ・釘痕が新しい。
 ・作品はまだ油のにおいがする。絵の具は比較的新しく、樹脂用溶剤に溶ける。

3.吉薗佐伯作品真作説派の中心人物落合莞爾氏

 ホームページ「天才佐伯祐三の真相」には、次のようなことが書かれている。

 ・佐伯作品の多くは、妻米子が加筆したものである。
 ・佐伯は、妻米子が描くように言う作品と自分が描きたい作品との間で板挟みになり、悩んでいた。
 ・佐伯、娘弥智子は妻米子によりヒ素を少しずつ投与された。しかし、直接の死因は、拒食を原因とする衰弱死である。
 ・娘佐知子は佐伯の兄祐正との子であった。米子は画家荻須高徳と浮気をしていた。
 ・周蔵が2月(1928年2月)にパリで会ったとき、佐伯は健康そのものであった。従来の佐伯の伝記が、この頃より結核が進み、密室に閉じこもって『郵便配達』や『ロシアの少女』を描いたと説明するが、それ自体が米子の追想話を基にした創作なのである。
 ・吉薗周蔵は、上原勇作付きの特務(陸軍の特務)で、国益のため、純粋アヘンの製造を行っていた。上原から仕事で優遇されていた。

 「佐伯の絵は、妻の米子が加筆している事実が判明した。佐伯作品の再検討が始まる。そうなると美術商たちは恐慌をきたす。ニセとわかれば元値で買い戻す、という一札を業者は入れているからだ。十号数億の佐伯作品となれば,画商の経済的破綻は必至。」(直木賞受賞作家出久根達郎氏、落合莞爾氏)

 落合莞爾氏の履歴
 1941年 和歌山市生まれ
 1964年 東京大学法学部卒、住友軽金属工業入社
 1967年 経済企画庁調査局(出向)
 1972年 野村證券入社。
 1978年 落合莞爾事務所設立。株式会社新事業開発本部社長。

 著書
 「天才画家<佐伯祐三>真贋事件の真実」(落合莞爾著、時事通信社)
 「ドキュメント 真贋―大阪府岸和田市制施行七十周年記念「東洋の官窯陶磁器展」贋作騒動の真相 」(落合莞爾著、東興書院)
 「陸軍特務 吉薗周蔵の手記」(雑誌「ニューリーダー」)
 「教科書(テキスト)では学べない超経済学(メタエコノミクス)―波動理論で新世紀の扉を開く」(落合莞爾・藤原肇著、太陽企画出版)
 「先物経済がわかれば本当の経済が見える」(落合莞爾著、かんき出版)
 「平成日本の幕末現象―破綻した米主日従体制」(落合莞爾著、東興書院)
 「平成大暴落の真相―意図された中堅階層の崩壊」(落合莞爾著、東興書院)

4.落合氏が関与するもう一つの真贋論争 「李朝の陶磁器」の真贋 

 大阪府岸和田市制施行70周年記念「東洋の官窯陶磁器展」で展示した東洋磁器45点すべてが贋作だという指摘が業界団体やマスコミから起きた。
 その東洋磁器45点を所有する紀州文化振興会と名乗る団体(落合莞爾)と朝日新聞社、読売新聞社の担当記者との間で作品の真贋について争われた。
 落合氏は、「数々の名品を展覧会で公開すると共に始まった中傷と露骨な妨害。腐敗した一部の陶磁学者とマスコミ報道」と言う。
 また、落合氏は、陶磁器を岐阜県多治見で科学鑑定を行っているP&Sセンターの河島達郎氏に鑑定を依頼した。河島氏は熱ルミネサンス測定による年代測定と真贋(新古)鑑定の方法を研究している。

 鑑定結果は、「古作と判定。誤差は非常に大きい測定法であるが測定結果からは300年前となる。少なくとも100年以上は経過している。近作ではないと判定できる」というものである。

 これで「李朝の陶磁器」の真贋は解明できたと思われる。しかし、それで終了したわけではなかった。鑑定における最高機関ともいえる東京美術倶楽部や日本陶磁協会が認めていないからである。
 
5.科学的鑑定に対する反論

 「画布にテトロンが混じっている」ということについての落合氏の反論は次のとおりである。

 「事情通の推測では、東京美術倶楽部が百二十倍の拡大鏡で画布の繊維を検査したところ、亜麻の繊維に混じってキラキラと光る細い毛が見えたので、これをテトロンと速断したらしい。五百倍に拡大すると亜麻の繊維の一部と分かるのだが、百二十倍だとテトロンと誤認する。」(落合莞爾)

 そして、このテフロンの一件は武生市の調査で否定された。また、東京美術倶楽部の鑑定委員長谷川徳七氏は、著書「画商の眼力」では沈黙している。

6.美術評論家瀬木慎一氏の意見

 美術評論家瀬木慎一氏の意見には次のようなものがある。

 「武生市の真贋事件でいろいろ意見が出たが、(平成9年7月)現在、通念となっているのは、作品が幼稚拙劣で、付随している資料も贋造の疑いが濃く、 所蔵者の人物と経歴も信頼しがたく、全体として、評価できない、ということにつきるが、この本は、疑問視されてきたほとんどすべての項目にわたり、ポジ ティブな答えを出し、委員会と市が到達した結論に、真っ向から挑戦を試みている。その実証を冷静に読み進めると、多くの事柄で納得がいくばかりか、未知の 意外な事実が次々に提示される。この奇怪な人物(吉薗周蔵)の行動が想像を絶するスケールで、社会の各方面に広がっていることに、唖然とする。どうやら、 吉薗周蔵という身元不詳にみえる人物は大正から昭和期にかけて当時の政治を支配した「軍」と密接な関係を以て、陰に陽に活躍した民間人のエージェントとい うのが、実体であるようで、まさしく時代が生んだ人物であり、その最も陰影の深い一人とみることが出来そうだ。」

 瀬木慎一氏の履歴
 総合美術研究所所長、国際美術評論家連盟会長、ジャポニズム学会常任理事、国際浮世絵学会理事などを歴任し、テレビ東京の番組「開運!なんでも鑑定団」の鑑定士としてもたびたび出演している。

 著書
 「日本美術 読みとき事典」、「色と空の日本美術」、「浮世絵世界を巡る」、「江戸・明治・大正・昭和の美術番付」、「名画の値段——もう一つの日本美術史」、「西洋名画の値段」、「絵画の見方買い方」、「美術経済白書」、「東京美術市場史」、「日本美術事件簿」、「西洋美術事件簿」、「俳画粋伝」、「ビッグコレクター」、「日本美術の流れ」、「ピカソ」、「画狂人北斎」、「写楽実像」、「北斎漫画歳時記」、「現代美術の三十年」、「現代美術のパイオニア」、「藝術の日本」、「様式の喪失」、「名画修復」

7.古物美術商物故堂による美術鑑定についての意見

 当時、わが国美術評論界の最高峰河北倫明氏が吉薗佐伯作品真作派。また、朝日晃氏は真贋騒動では「贋物説の元凶」(落合莞爾)ということになっている。彼らについて、第三者である物故堂の意見には次のようなものがある。なお、物故堂は一連の萬鉄五郎作品に対する東京美術倶楽部鑑定に対して強く疑問を抱いている。

 「物故堂がオークションに参加してちょうど丸2年が経過しました。この辺りで私の絵に対する考え方を今一度整理をし直し来年度に向けての指針としたいと思います。今後、物故堂のオークションに参加される皆様に私の考え方をご理解いただきオークションを楽しんで頂きたいと思います。まず、私の基本は初出しの作品の研究に有ります。美術の研究を始めて30数年になりますが、人知れず薄暗い屋根裏や開かずの蔵の中に数十年間に渡り陽の目すら見れずに眠り続けている作品を蘇らす事に魅力を感じた事がきっかけでした。夭折の画家を始め戦前の私が認めた若しくは好きな物故作家を中心にそこら辺の美術館の学芸委員よりも、時には学芸課長や館長よりも遥かに美に対しての見識と知識と良識を持ち合わせて日々研究をしております。絵を見るときに一番大切なのは偏見と先入観を一切取り払う事です。しかしながら、非常に残念な事に今の美術研究者や美術評論家をはじめ、業者間で作る鑑定機関等を含め余りにもこの先入観や偏見、偏った絵の見方をする人が多すぎるのです。特に最近の美術館学芸委員などは自分の意見を言わない連中も多い。昔は萬鉄五郎の研究で権威が有り又、その他の絵に関しても非常に良く絵の判る人であり、特に萬鉄五郎の絵について私にとって良い勉強をさせて頂いた陰里鉄郎先生や藤島武二の絵について色々教えて頂き助けて頂いた事もある隈本謙次郎先生、青木繁や坂本繁二郎及び古賀春江に関して、非常にためになる教えを受けた元京都近美の館長で後に美術界のドンにまで昇りついた河北倫明先生など、今思えば絵の良く判る人がいた。明治美術の権威の青木さんにも色々勉強させて頂いた。面白い親爺であるが。これらの先生方には昔本当に大変お世話になった。しかし、その逆でその昔、館長クラスのそれも、鎌倉の近代美術館で土方さんの弟子達でさえ絵の判らない人も数人いた。その中の1人で文章を書くのは非常に上手いが、この全く絵の判らない1人のために、私の尊敬する河北先生や陰里先生が佐伯の贋作騒動に巻き込まれ、悲運を遂げられた事には憤りさえ感じる。余談だが土方さんには村山槐多や関根正二の絵に世界の事で非常に勉強になった事を記憶している。それがどうだ。槐多や関根の絵など全く研究もせず、彼らの絵の本質を知りもせず扱ったことさえ無い所詮画商たちの集まりである東京美術倶楽部が、権威だか何だか知らないが所定鑑定人になっている。もういい加減にして欲しい。槐多や関根だけではない。その他にも自分達では判らない多くの作家(浅井忠・古賀春江・三岸好太郎・今西中通・松本俊介等数え上げれば限が無い)の所定鑑定人になっているのだから、呆れるばかりだ。彼らに言わせると私の意見など馬耳東風だろう。」

 履歴
 美術品を30数年間取扱い、研究してきた。
 「年間1,000万円以上は仕入れています。全ての絵が鑑定書なしで現金で仕入れるのです。自分の目だけが頼りですが、巨額な授業料を支払って参りました。研究後、鑑定に回しますが、世に出した真筆(鑑定証書がとれたもの)は、175点です。再び沈んだ作品が350点以上です。175点の中に何点の贋作があり、350点以上の中に何点の真筆が有るのかは神のみぞ知る話です。」(古物美術商物故堂)

 ここで、物故堂が言う「文章を書くのは非常に上手いが、この全く絵の判らない1人」とは朝日晃氏と考える。

 朝日氏は佐伯祐三研究の第一人者であることは確かである。そして、朝日氏は佐伯の作品について、「短く燃えつきた命の結晶ともいうべき、深い人間の心理的作品を目のあたりにすると、彼の、一本の線さえも真似などできはしない」と述べている。

 しかし、匠秀夫氏は朝日氏のことを、「日本では佐伯研究家で通っているが佐伯の心の内などなにもわかっていない、内面をもっととらえるべきなのに」と言っている。

 落合氏は朝日氏のことを、「贋物説の元凶」と言っている。

 「私は、氏の考証家としての熱情は高く評価している。問題は、氏が米子説話にはまってしまい、一気呵成説などの噴飯物をいまだに持するからである。それだけならまだしも、新発見に耳を傾ける余裕なく、あまつさえ曲論を用いてこれを葬り去るに熱心する心情が、甚だ遺憾なのである。」(落合莞爾)

 そして、「屋根裏部屋の美術館 佐伯米子」では、米子の言葉には嘘が多いことを明らかにしてある。

8.諸説入り交じる佐伯伝

 佐伯の親友山田正一氏は著書「素顔の佐伯祐三」(1980年)で、阪本勝氏の「佐伯祐三」(1960年、日動出版)について次のように述べている。

 「余談だが、阪本勝氏の『佐伯祐三』(1960年)の中で、佐伯が首つりの森からアパートへ連れ戻された時の状況に対して、非常に否定的な意見が述べられており、首を吊った際に残った索溝などという事実は無かった、と書かれていたと記憶するが、どういう理由で、氏はそれを強く否定したのか、今だに僕はわからない。」

 この阪本勝氏著「佐伯祐三」について、下落合にすんでいた芸術家達について研究されている方のブログがあった。
 次が、ブログ「 Chinchiko Papalog 縮まらない佐伯像の齟齬やズレ。『気になる本』」に書かれている内容である。

 佐伯の友人山田新一は著書「素顔の佐伯祐三」で、「佐伯祐三」(日動出版)を書いた阪本勝氏について、「その著者は佐伯生存中、大変な親友であったように言っているが、最近会った佐伯の妻、米子の妹は、はっきりパリでも見なかったし、下落合時代の交友は全くなかったと断言していた」と述べている。

 それ以外にも、いくつかの点から、「素顔の佐伯祐三」について疑問を投げかけている。

 交友がなかった坂本氏が大変な親友だと言い、佐伯の自伝を書くには無理がある。そのため、著書「佐伯祐三」は何回か改訂されている。

 私が調べたところ、たとえば、阪本氏の「佐伯祐三」には、次のような記載がある。

 「診察した中村博士は、これくらいのことなら治療すれば治るとはげましたので、それでは暖かい南フランスへ行って療養しようということになり、米子はその準備に取りかかった。これが5月のことである。たまたま見舞いにきてくれた親切なフランス人の紹介で、ヴァンヴ町五番地に安い家賃の部屋が見つかったので、ここへ荷物を置いて南仏へ行くことにきめ、大いそぎでモンパルナスから引っ越した。」

 これでは、5月以降にヴァンヴ町五番地に移ったことになり、朝日晃氏の説「4月下旬、リュ・ド・ヴァンヴ五の西向き四階三部屋の家へ越す」とも異なり、新たな説の出現となった。

 また、1928年3月、佐伯は血を吐いたが、従来説が吐血(口から血を吐くこと。また、その血。多く消化管の出血についていう)であったのにそれを喀血(肺・気管支粘膜などから出血した血液を咳とともに吐くこと)とした。これは米子の話にもとづくものである。

 「寒いモランから帰った1928年3月、パリは雨降りが続いた。『こんな日に絵を描きに出るの――』と米子が病身を気遣って声を掛けると、佐伯は激怒した。雨の雫をたらしまっ白なままのカンヴァスを持ち帰ったこともあった。発熱、吐血、病臥――。」(「そして佐伯祐三のパリ」朝日晃著)

 「それから数日後、ついに大喀血が佐伯をおそったのである。それは彼が階段を揚がってくる途中に起こった。よくこの日まで喀血をせづに過ごしたものだと、私はむしろ奇異の感に打たれる。」(「佐伯祐三」阪本勝著)

 落合氏の記述(吉薗周蔵関係の資料)には嘘が含まれるかどうかを慎重に考えながら読まなければならないが、同様に、この本の発行者は東京美術倶楽部の鑑定委員長谷川徳七氏であり、その点を考慮しながら読まなければならない。
 しかし、今までにない話もいくつか紹介されていて、佐伯祐三に関する重要な書籍である。


 私の見解

 「天才佐伯祐三の真相」(落合莞爾)は多くの推理小説を上回るもので、何気なく書かれているところを調べても問題はない。すべてが真実と考える。そうすると、そこに書かれているような絵は存在するはずであり、吉薗佐伯作品は真作と見なすべきである。

1.作品の真贋について
 
 東京美術倶楽部の鑑定委員長谷川徳七氏は、吉薗コレクションについて次のように述べている。

 ・「一目見ただけで、絵がまるで佐伯祐三とは違う。誰が言おうと、こんなのはダメです。断じて佐伯じゃあない。」
 ・「この目で見た未発表の佐伯祐三の絵とやらが、あまりにも稚拙だったから、ミステリーもどきのストーリー展開に関心はなかった。」

 しかし、私は、一見しただけで真贋は分からないと考える。
 たとえば、梅原龍三郎の次の絵画を見て、一目見ただけで、彼の作品と分かるのだろうか。もし、分かるとしたら彼のほとんど知られていない同様の作品を見たからである。もし、同様の作品を見ずに、この1点だけを見て梅原龍三郎の作品だと判断できるのだろうか。

 作品「トンボ」(仮題、東京美術倶楽部鑑定証書付き)



 また、東京美術倶楽部の何人もの鑑定委員が集まり協議した後、著名でない画家の作品を加工したものに鑑定証書を発行したのはご存じだろうか。

 ***著名でない画家が描いた作品「花」2点***


 ***加工された後、瑛九の作品として売り出された絵***

 贋作制作者は、著名でない画家が描いた作品「花」2点を落札後、右下にあったサインを消し、左下に瑛九のサインを書き加え、木枠と裏地を時代感があるものにし、出品した。それが、最後には美術商の手に渡り、瑛九作品東京美術倶楽部の鑑定証書付きとしてヤフーインターネットオークションに出品された。








 東京美術倶楽部の鑑定証書は、作品題名、作家名および寸法が記載され、裏面にはその作品の写真が付けられ、そのうえでラミネート加工されるので、違う絵の鑑定書と絵を組み合わせて売りに出すことができないものである。
 これらからも分かるとおり、作品の真贋は一見して分かるものではない。

2.科学鑑定について

 「釘痕が新しい」とあるが、「芸術新潮」に掲載された絵画をルーペで見ると、釘の抜かれた跡にはそれなりの時代感のあるさび跡があった。
 「作品はまだ油のにおいがする。絵の具は比較的に新しく、樹脂用溶剤に溶ける」、このことは真贋判定に非常に重要なことである。
 しかし、このようなことで真贋を議論しているとはとうてい考えられない。
 もし、贋作派がこの点を強く主張し、贋作であるという根拠にするなら、テトロン混入の件は武生市の調査で否定されているので、真贋論争はあと、10日もあれば片付くことである。
 
 また、東京美術倶楽部の鑑定委員長谷川徳七氏は、著書「画廊の眼」で最も重要なテフロン混入の件について沈黙している。
 
3.落合氏の説「佐伯作品には米子の加筆があった」について

 ・「佐伯祐三の学生時代の大作がある企業の倉庫に有るのですが、その作品には佐伯祐三のサインでは無くそのサインを真似た米子がしている事が科学的に判明しました。この事実を知るものは日本でも数人ですが・・・佐伯祐三の死後、米子は飯を食う為に様々な手法で佐伯祐三の作品に自ら手を加えた事や、ある種、病的なまでに精神が病んでいたと言われておりました。無論、自分の主人を若くして無くした悲しみからの業かも知れません。以上の事は、家が近かった関係から私と交友の有った画家山田新一氏から聞き及んだ事実であります。」(古物美術商物故堂)
 
 直木賞作家出久根達郎氏が、「佐伯の絵は、妻の米子が加筆している事実が判明した。佐伯作品の再検討が始まる。そうなると美術商たちは恐慌をきたす。ニセとわかれば元値で買い戻す、という一札を業者は入れているからだ。十号数億の佐伯作品となれば,画商の経済的破綻は必至。「吉薗資料」の抹殺をはかるわけである」と述べている。

 この真贋騒動で、佐伯作品米子加筆説は当初の騒動の中心的な人たちではなく第三者ともいえる人たちがこのことに同調している。なお、物故堂のこの話は、佐伯米子に関する問い合わせのとき伺ったもので、佐伯祐三に関するこのページを書く約4年前のことである。物故堂が言う、「米子は飯を食う為に様々な手法で佐伯祐三の作品に自ら手を加えた」というのは加筆のことである。

 これらから判断して、佐伯作品には米子の加筆があったことは間違いない。

 (補足:山田新一は、1946年から京都に住むようななった。物故堂は、京都の人である。)

4.作品数

 画家が描いた絵は、美術商が取り扱ったものおよび美術館にあるもの以外に非常に多いはずである。

・「彼の遺作の数は制作年月の短かさに比して信じられないほどの多数にのぼった。それが嘘でない証拠として、2度目の滞仏時に友人里見勝蔵にあてた彼の通信中には、次のような一節がある。パリについて5ヶ月目には第107枚目、6ヶ月目には第145枚目の画を描いた、と。もって全体の点数を推測する際の、ひとつの目安となるデータといえよう。」(富山秀男)

・「スピード-生涯で残した作品数は、資料写真が残るのみで焼失したと考えられる作品を含めて、390点。書き残した手紙類からすると、もっと多いことになる。パリにいる間は、1日1~2点、多い日は4点もの絵を仕上げたという。」(「佐伯祐三の生涯と作品について」青山学院大学グループK発表、村上明子、河西良太)

・「佐伯の現存作品はだいたい500点ぐらいだと思いますが、30歳という短い生涯でもそれだけの作品があるわけですから、未完成作が50や100、あるいは200や300あっても私は変だとは決して思いません。この人は元来速筆の人ですから、本当はこれ以前のいわゆる素描やデッサン、下絵といったものがもっとあってもおかしくないんです。」(瀬木慎一)

・1928年6月4日の出来事 「彼の力なく白く痩せほそった二本の指を握って、僕はふたこと、みこと元気をつけるように話しかけたが、佐伯は多くを語らず南フランスへでも行って養生したいとだけ言った。そして隣室に僕は驚くほど山積みされた作品を見た。一体これは!何百枚なんだろうと身体のふるえの止まらないような感動に襲われたのであった。聞けば佐伯は興がのれば、一日に四、五枚はおろかそれ以上でも情熱のおもむくがままに描き続けたそうである。そして沛然たる雨に身体全体を濡らしながらも尚描き続けたことが、彼をして致命的な病勢へと追いやったらしく、今やそれらの無理が運命的な死へと駆り立てているようである。」(山田新一)

・「あまりに彼がすさまじく早く絵を仕上げるので、僕もある時、ひやかし半分に『おまえ、二十号をどのくらいで描くんや』と訊いたことがあったが、この時は『そうやな四十分ぐらいやろな』と、こともなげに言ったので、さもありなんと感じた次第であった」(山田新一)

 佐伯作品に米子による加筆があったなら、佐伯は死を前にしてやりたいことをやるはずである。
 当然、米子の加筆のない作品を作ることは自然の流れである。
 そのとき、最後の力を振り絞り、多くの作品を作り出したと考える。

5.落合氏の説「米子は画家荻須高徳と浮気をしていた」について

 佐伯の画友達は、誰も「米子は、画家荻須高徳と浮気をしていた」とは言っていない。そのようなことは、誰にも分からないはずである。
 私のホームページ「屋根裏部屋の美術館 荻須高徳」に、「米子は画家荻須高徳と浮気をしていた」に関する考察を掲載した。
 そして、私は落合氏説「米子は、画家荻須高徳と浮気をしていた」は間違いのないものと考えている。

落合氏の説「米子は佐伯と娘佐知子を毒物ヒ素で殺害しようとした」について

 佐伯の画友達は、誰も「米子は毒物ヒ素を佐伯に投与した」とは言っていない。そのようなことは、誰にも分からないはずである。

 しかし、私は落合氏説「米子は佐伯と娘佐知子を毒物ヒ素で殺害しようとした」は根拠のあるものと考える。
 私のホームページ「屋根裏部屋の美術館 佐伯米子」にそのことに関する考察を掲載した。
 
 ・1928年「3月中旬、異郷パリで、にわかに病気になった。症状は、本人のメモや書簡によれば、まず右手のしびれに始まり、舌がびりびりし、目がかすんで見えなくなった。それが一旦小康状態に戻り、また悪化、という経過を辿ったようである。」 …手紙には、祐三に薬物中毒による知覚障害が生じたこと書かれている。また、その手紙は第三者により祐三自筆だと確かめられている。
 ・1928年6月4日 再会を楽しみに山田新一がパリに着いた時、既に病臥して2か月あまり、やつれた面貌には既に死相が感じられるほどの重体であった。
 ・夜半に佐伯君は私(椎名氏)を一人そばに呼び、まったく正気なものの条理をたどって色々話した末に自分の図った自殺の方法を詳細に物語った。(山田新一、椎名其ニ)
 ・1928年6月20日、「その頃、すでに弥智子も肺病と神経を病んで……。」 (「近代の洋畫人」中央公論美術出版)とあるが、弥智子が神経を病んだ理由を考える必要がある。
 
 佐伯は自殺を図る以前から重体であった。そして、その症状には薬物中毒によると考えられる知覚障害があった。また、弥智子も神経を病んでいた。
 私は、「最初、米子は、佐伯、娘弥智子をガスにより殺害しようとした。しかし、失敗したため、次に毒物ヒ素を与え殺害しようとした。だが、これも死には至らなかった。佐伯は、ヒ素中毒により病床につき、その際、米子より生き方を非難され自殺に追い込まれた。佐伯は、米子が毒物による殺害を謀っているのではないかと考え、拒食をした。そのため、さらに衰弱し死亡した」と考える。
 なお、周蔵関係の資料で、佐伯は視力障害を訴えていた。この視力障害はヒ素の毒性としてあまり知られていない症状である。
 また、佐伯は結核を患っていたのでその薬の副作用も考えられるが、「にわかに病気になった」とあることから、薬の副作用ではなく、米子のヒ素投与の可能性が強いと考える。これは、それ以前の「米子が関与した可能性があるガス漏れ事件」も考慮してである。
 これらのことから、落合氏の説「米子は佐伯と娘佐知子を毒物ヒ素で殺害しようとした」には一理あるものと考える。
 その犯行動機は、佐伯が米子加筆なしの独自の路線を行こうとしたことがあげられているが、祐佐が薩摩千代子と親しくしすぎたことが一番の動機と考える。米子から見れば、佐伯に裏切られたのである。

7.落合氏の説「1928年2月は、佐伯は健康であった」について

 落合氏は、「周蔵が2月(1928年2月)にパリで会ったとき、佐伯は健康そのものであった。従来の佐伯の伝記が、この頃より結核が進み、密室に閉じこもって『郵便配達』や『ロシアの少女』を描いたと説明するが、それ自体が米子の追想話を基にした創作なのである」と述べている。
 
 「近代の洋畫人」(著作権代表者河北倫明、佐伯祐三の部は里見勝蔵著、1959年、中央公論美術出版)に画家里見勝蔵が佐伯祐三のこの頃のことを書いたものがある。この本の発行は1959年で真贋論争が始まる1994年より35年前である。

 「二月頃、佐伯は米子夫人と弥智と、その頃彼に師事していた荻須高徳、山口長男、大橋了介、横手貞美の四人を連れて、巴里から汽車で一時間ほどの美しい田舎モランへ、二ヶ月ほど田園風景を描きに行った。田園風景で転回しようと試みたのである。」(里見勝蔵)

 「モランへ、二ヶ月ほど田園風景を描きに行った」とある。どうやら、落合氏の説「1928年2月は、佐伯祐三は健康であった」は正しいようである。

 なお、朝日氏も1998年発行の著書「佐伯祐三のパリ」では、「1928年2月中旬から下旬、ホテル・デュ・グラン・モランに約20日間滞在し、1日3点制作した日もあった」と述べている。

 また、里見勝蔵は次のようなことを結びに書いている。

 「僕はこの『佐伯伝』を書くにあたり、逸話や作話は一切用いなかった。僕の見て知っていた佐伯を書いた。ことさらに佐伯の天才面だけを挙げて神性化し、偶像化することを避けた。それは迷信と愚劣に過ぎないからである。僕は理解をもって人間佐伯を書く為に、彼の性格と才能は十二分に書いたが、なお彼の欠点をも敢えて付記した。 諸君よ、諒(正しいこと)とせられよ。」

 この里見勝蔵の言葉には、他の人が逸話や作話を用いているということである。つまり、落合氏が言う、「周蔵が2月にパリで会ったとき、佐伯は健康そのものであった。従来の佐伯の伝記が、この頃より結核が進み、密室に閉じこもって『郵便配達』や『ロシアの少女』を描いたと説明するが、それ自体が米子の追想話を基にした創作なのである」というのも正しいようである。

8.落合氏の説「吉薗周蔵は、上原勇作付きの特務」について

 画家関口俊吾は、フランス政府招聘留学生として1935年に渡仏した。そして、ドイツ占領下のパリから極秘の特務艦で帰国した後、戦後は萩須高徳、藤田嗣治に次ぐ3人目の日本人として再渡仏した。このときの特務艦浅香丸にはドイツ戦闘機メッサーシュミットが積まれていた。戦時中、このようなことができるのは日本のスパイがいない限りできることではない。また、当時、欧米に行けるのは一握りの人たちしかいない。吉薗周蔵のような人がいても不思議でないし、また、いなくてはならなかったはずである。

 武生市の調査委員会が吉薗周蔵が遺したとされる日誌を検討した結果、事実と反する虚偽の内容が多く、信用するに足りないという報告に対し、著者が反論報告書を出している。

 「大正十一年一月十二日の記述に「歌舞伎町ヲ歩ヒテ女ニ袖ヲ引ヒテモライ、サソイニノラズニ戻ル」(「周蔵日記」)

 ここでいう歌舞伎町とは、文脈からして、新宿の歌舞伎町とみて間違いない。しかし、当該の地域が歌舞伎町と命名されたのは、何と昭和二十三年四月一日のことであり、大正十一年からは遙かに隔たること二十六年後のことである。つまり、『周蔵日誌』は、いかにも出来事の進行とともに書かれた日誌を装っているが、実際には、昭和二十三年以降のある時点に綴られたものである可能性が高いということになる。(武生市の調査委員会)

 歌舞伎町の名称も、大正末年には現代の新宿一丁目の大国座の傍らにあった私娼窟の通称であった。
 こんなことを予め知る人は現代には稀少であろうから、『準備室報告』が立てたドグマは、ある意味では「現代人の常識」とさえいえよう。このことは、逆に言えば、[現代では非常識とされる]内容に満ちた吉薗資料は、現代人が創作できるものではないことを証拠立てている。(落合莞爾)

 このことについて、間違いなく第三者と思われる方(風俗愛好・研究そして将棋を趣味とする方)から、このことについて調査したところ、間違いのないものであるとのブログがあった。(「Cablog キャバクラに関連した話題が中心の不定期更新の雑記」)
 そして、結論として次のように結んでいる。

 「落合が指摘するように、旧大国座あたりが小規模ながら歌舞伎町あるいは歌舞伎横町との通称で呼ばれていたという話はかなりもっともらしく思える。」

 つまり、この方は、「周蔵日記」にある歌舞伎町の記載正しい、落合氏の反論の方が正しいと確認したわけである。

 わが国美術評論界の最高峰河北倫明氏が吉薗佐伯作品真作派である。河北氏は、真作派匠秀夫氏の著書「未完 佐伯祐三の巴里日記」遺稿刊行によせて次の言葉を寄せている。

 「率直な私見を許していただくならば、私は吉薗周蔵という人物こそ、佐伯芸術をこの世に存立させるための基盤を作った近代特異の精神科医の草分けであったといえるように思っている。いうならば、祐三は周蔵のある意味での作物でもあるかのような趣きさえ付きまとっている。それまでの古い日本が社会的に無視してきた精神医学の先駆者として、周蔵は在地豪族の家産や資力をみごとに蕩尽しながら、佐伯祐三というユニークな芸術的個性の社会における存立を企図してやまなかった。すでに門地を壊してしまったほどの周蔵には、片々たる名利などまったく眼中になかった。どこまでも社会の黒子に徹して自己流の人生を行った吉薗周蔵が、城山で自尽した郷里の大偉人・西郷隆盛の熱烈な崇拝者であったことを、私は特に意味深いものと受けとっている。匠さんのこの本が、この異風の人物に一定の照明をあてる機会を作って下さったことを喜ばずにはいられない。」
  
 河北氏は、「一九六八年十月、東京セントラル美術館でひらかれた『佐伯祐三展』に、中折帽子をかぶった異風の肖像画があったことはかすかに覚えていたが、そのとき『エトランジェ』と題されていたあの像こそが、当の吉薗周蔵の姿だったのである」と、佐伯と周蔵のつながりを述べている。


 結論を出すには吉薗佐伯作品をさらに調べる必要があるが、筆跡鑑定の結果も含め次々とでる第三者の意見を聞く限り、周蔵関係の資料は間違いのないものである。
 また、落合氏等が個人的利益のため各種資料をねつ造したとは考えられない。それは、「天才画家<佐伯祐三>真贋事件の真実」は一種の調査研究書でもあり、そして、その資料の「周蔵手記」は単に佐伯作品の真贋という問題ではなく、日本の近代裏面史とでもいえるような壮大なものである。落合氏が調べた各種資料は、ねつ造して作ることが決して出来ないものである。
 私は、周蔵関係の資料が間違いのないものなら吉薗佐伯作品は真作だと判断するべきであると考える。
 また、吉薗周蔵氏の遺児である吉薗明子さんから作品が出たことをもう少し重視しても良いのではないかと考える。


 吉薗佐伯作品「シベリアを思い出して」(1928年8月、水彩画)



 この絵画が出来たのは1928年8月である。

 佐伯祐三が、自殺未遂をしたのが6月20日未明である。そして、23日からセーヌ県立ヴィル・エヴラール精神病院へ入院した。

 「(6月21日か22日)、彼は実に気が違った者とは思えないぐらい整然たる口調で……」(山田新一)
 「入院の日から彼は食べることを明らかに拒絶した。一切の食事や飲み物を摂らず、それ故に単にブドウ糖やその他の静脈注射だけであったと後に医者に言われた。」(山田新一)
 「8月13日、いつになく目を覚まし、米子の持ってきた果物を食べた。」(「佐伯祐三のパリ」、朝日晃著)
 「8月15日、看護人は夜通し泣き続ける佐伯祐三の姿を見た。」(朝日晃)
 
 佐伯は、入院の日から食べることを拒絶したが、米子の持ってきた果物を食べた?
 朝日晃氏の調査は、米子、荻須高徳からのものが多い。
 「米子から周蔵への手紙、『病院で私の出すもの何一つ食べず、死にましたのよ』」(落合莞爾)というものもある。

 この絵画が出来たのは1928年8月であり、佐伯が亡くなったのが8月16日である。
 絵に対する情熱を持つ画家が、動けない身体で描けるものは思い出である。
 佐伯は、体調を崩しながらも絵を描き続けた。たとえ雨の中でも。そのような画家が、最後に描くのは遠く離れたパリ郊外の風景でもなければ、モデルを前にして描く人物画でもない。それは、思い出である。

 佐伯が死ぬ前日、彼が友人山田新一に語ったのは思い出である。

 「……鴨緑江の舟遊び良かったな……もしも国へ帰れたら、あの風景を、そして辮髪の逞しい男をマッ黒になって……描きたかった……」

 画家里見勝蔵は「近代の洋畫人」で次のように述べている。
 
 「佐伯は、シベリヤ経由で巴里へ行った。途中、佐伯からハガキが来た――ロシアの停車場にとまっている紫の汽車や、エメラルドの荷物列車に興味引かれた。そして木造の小屋の屋根の上に、寺院のエメラルドの半球型の屋根を見て、しばしばシャガルを思い浮かべ、巴里よりも近代的な色彩だと思った――と。」

 この絵画には、佐伯が好きなシベリアの景色が描かれている。そして、文字はしっかり書かれてはいない。また、紙には液体をこぼしたためできた大きな破損がある。
 この着色は、水によりできたものではない。どのようなものからできたものか興味がわく。

 このような絵は、佐伯以外は描けないのではないだろうか。


 吉薗佐伯作品「シベリア鉄道****」(水彩画)



 この作品を見れば、あきらかに画家が売ろうとして描いたものではないことが分かる。絵を描くこに情熱を持っている画家が病床で最後に描いたとも思える。
 画家には、美しい水色の景色がひろがって見えたのである。
 なお、この紙には、この上の紙で鉛筆で文字を描いたような形跡があるように思える。

 「佐伯の身体にはすでに毒が回り、感覚が麻痺していた。色彩感覚もやちられているから、四枚それぞれ色が違うかも知れないと嘆く。描いた場所(すなわち「ここ」)は、ブールヴアールの二階のアトリエである。佐伯は病身を励ましてリュ・ド・ヴアンヴから、ブールヴアールアのアトリエに来て、郵便屋を描き、さら に最後に千代子像を描いた。日付の特定だが、文中にいう手紙は、後述の五(八)月二日付の周蔵宛書簡と見るしかない。つまり、佐伯は周蔵に病院を手配して 貰うや、最後の力を振り絞り、千代子の思い出残るアトリエに来て「郵便屋」の仕上げをしたが、最後の最後には、愛する薩摩千代子の肖像を描いた。佐伯の絶 筆は、したがって「薩摩千代子像」である。アトリエで描いた周蔵宛の手紙は、錯乱状態のなかで、日付を八月二日にしてしまった。」(落合莞爾)

 落合氏は、佐伯の絶筆は「薩摩千代子像」と述べているが、私は、絶筆はシベリアを描いた水彩画と考える。ただ、このような水彩画を絶筆と呼べるものかは別として。


 吉薗佐伯作品「モランにて」(1928年3月)



 この絵画が出来たのは1928年3月である。あるいは、3月にモランにいたという思い出を描いている。
 もし、贋作作成者が作ったとしたら、従来言われている「佐伯2、3月体調不良説」を真っ向から否定して作ったこととなる。自ら非常にリスクを高めながら、人を欺くことになる。

・「周蔵が2月(1928年2月)にパリで会ったとき、佐伯は健康そのものであった。従来の佐伯の伝記が、この頃より結核が進み、密室に閉じこもって『郵便配達』や『ロシアの少女』を描いたと説明するが、それ自体が米子の追想話を基にした創作なのである.。」(落合莞爾)

・「昭和3年(1928年)6月4日、再会を楽しみに山田新一がパリに着いた時、前年に2度目の渡欧を果たした佐伯は、既に病臥して2か月あまり、やつれた面貌には既に死相が感じられるほどの重体であった。」(山田新一)
 つまり、3月は病臥していないこととなる。
 
・「(1928年2月頃)、佐伯は米子夫人と弥智と、その頃彼に師事していた荻須高徳、山口長男、大橋了介、横手貞美の四人を連れて、巴里から汽車で一時間ほどの美しい田舎モランへ、二ヶ月ほど田園風景を描きに行った。田園風景で転回しようと試みたのである。」(里見勝蔵)

・「『曾宮さん 私があまりごぶさたしてゐたのですつかりをこつてゐるでせう。何とぞまあゆるして下さい。ウソデナシニ気になりながら、貴兄の身体を気にしながら。自分も今少し身体が悪い。が大した事はありません毎日ブラブラしてゐます。ヲクさんによろしく。』という佐伯が画家曾宮一念に宛てた1928年3月2日消印の葉書がある。この文面は、1935年(昭和10)に発行された『みづえ』11月号掲載の曾宮一念「佐伯と私」で紹介されている。」(ブログ Chinchiko Papalog 「佐伯が書いた2350分の1の『偶然』)

・「ビリエ・モンバルパンに佐伯君たちが居たので、一日林と二人で訪ねていつたことがあつたが、その夕食の時に大きな田舎のパンを胸に抱き込んで切りながらこんな大きさの「うんこ」が出たらなど云ひ出した。(伊藤廉「佐伯君の死とその前後」より) この文章を読むかぎり、1928年2月初旬(伊藤は 3月初めと誤記憶)」(ブログ Chinchiko Papalog 「佐伯の仕事を背後から覗いてた林重義」)
 伊藤康が言う3月初めというのは間違いではない可能性もある。

・「朝日晃など従来の評伝は、引っ越しを四月下旬とするが、荻須は、引っ越しの時には佐伯は元気で、ネクタイを締めて家主に挨拶に行ったと云うから、病臥以前であることは明らかである。里見勝蔵宛の五月二十三日付佐伯書簡(米子代筆)には、三月二十九日に病臥したとあるから、荻須の云う引っ越しは、三月二十九日以前ということになり、朝日説は破綻している。」(落合莞爾)

・「3月15日、離婚の決意を米子に告げた佐伯は、一人モンマーニュに写生旅行に出た。」(落合莞爾)

・「……と書いたのは山口長男、街頭風景に捉われ過ぎた佐伯の反省から郊外でのヴィリエ・シェル・モランでの二ヶ月、真冬の野外写生に同行し日夜を共にした経験からの実感である。」(山口長男/「そして佐伯祐三のパリ」朝日晃著、P.270)

 真贋問題の中心人物である落合氏の意見を除いて、山田氏、里見氏等の言葉からしても3月29日以前は健康であったと考える。
 そして、パリには画布を取りに帰ったという記載もあったので3月は、パリに多くいて、モランにも行っていた可能性が非常に高い。
 なお、パリからモランまで約1時間ぐらいの距離であるので、比較的容易に行くことが出来る。

 「3月15日、離婚の決意を米子に告げた佐伯は、一人モンマーニュに写生旅行に出た」(落合莞爾)とある。この3月15日からの写生旅行でモランにも行き描いたのではないだろうか。

 「芸術新潮」(1996年4月号)に掲載された油彩画16点を観ると、これらの作風は同じであり、ほぼ同時期に作られたものであることが分かる。そこには、モンマニー風景2点、モラン風景「村と丘」(欠題)1点が描かれている。

 しかし、これは先の水彩画2点と合わせ考えると、贋作作成者が作ったものではないと考える。
 そして、この油彩画16点は、米子と離婚後、心機一転して描いたものと考える。

 吉薗佐伯作品「雪のモンスニ通り」(「芸術新潮」1996年4月号)



 芸術新潮に掲載されている吉薗佐伯作品群は、従来のものとあきらかに作風が異なる。

 米子は、佐伯の作品に加筆を行っていたのである。それは、売るためである。そして、佐伯は、米子の加筆がない新たな作品に取り組むため、離婚を決めた。

 「3月15日、離婚の決意を米子に告げた佐伯は、一人モンマーニュに写生旅行に出た。」(落合莞爾) 

 この時が、作風が変わった時点ではないかと考える。
 そうすると、この作品が作られたのは、佐伯がモランからパリに帰った後、米子と離婚が決まり、そして、体調を壊すまでの間で、1928年3月中旬~5月中旬のはずである。

 落合氏による「天才佐伯祐三の真相」には、佐伯から周蔵宛の書簡が記されている。

 (佐伯祐三書簡・1928年5月(推定)。差出地 5 RUE DE VANV FRANCE)

 今朝電報 見ました、
 医師が巴里を発た
 れてから二十八日が過ぎ ました
 あれから毎日朝八時には
 写生に出る事にしています
 今頃はいつも一人でいきます
 ので市外まで行き夜
 遅く家に帰ること
 もあります
 医師の云ふとおり正しい
 事に決まりはなく
 何もきにしない画を
 描いて見ました
 次のような写生行でした

一 サンピエール広場からの
   眺めを描いて見ました
二 モンマニーへ行ってきました
   ここの景色は思いの外
   描けました
   同じ所と三枚連作しました
三 ポンスリを
   描いてみました。
四 モンスニを
   連作しました
五 ヴレッサンというところ
   行ってみました
六 アンバリッドラドーム
   を入れた巴里の
   眺めをかいて見ました。
七、田舎と村ばかり
   かいていました

 俺は初心に戻り
 たいのです
 大正十二年の
 はじめて巴里に来
 たときに
 もどり
 たいのです
 医師が云われる様
 に他人のことをきニ
 しなけらば 心が安まります
 誰も誉めてくれない
 ものを毎日かいています 今日の画も
 誰も誉めないでせう
 それらをまとめて
 医師に送ります
 今日で命運つき
 た俺のさいごの画 送ります
 黒も白にも 囚われない
 今の俺の画です

 さようなら 佐伯祐三
 吉薗様

 匠秀夫氏は、この書簡を1928年5月と推定している。
 また、落合氏はこれを1928年3月20日頃と考えている。
 この書簡からも作風が変わったのは、この頃からと分かる。
 なお、この「作風が変わった」というものは、単に米子加筆の有無ではない。

 従来の佐伯作品で、1928年のものには雪景色がない。そして、3月中旬~5月中旬にパリで雪が降った年はほとんどないはずである。つまり、1928年3月中旬~5月中旬にパリに雪が降っていなければ、この一連の吉薗佐伯作品は贋作と言われても返事に困るものである。また、雪が降っていれば真作である可能性が非常に高いものとなる。強いて言えば、真作だと決定づけられる。

 この1928年(および1927年)はヨーロッパに異常気象が起きた年である。
 1928年の3月中旬~5月中旬のパリでの降雪について調べてみた。

 1928年4月17日付けのザ・ニューヨーク・タイムズには、「4月16日、パリは、寒波により気温が-2℃まで下がり、雪が降った」とある。
 
 パリで降った雪が、アメリカでも報じられたほどの異常気象であった。
 それは、非常に特殊な出来事であり、後日、贋作を作る場合、このような情報を入手してから作るということは考えられないものである。

 なお、作品「フランス風景」は、この作品と同じような構図で、対象物を中央に配置し、その左右手前に近景を入れたものである。
 これが、吉薗周蔵関係の資料で、佐伯が言うアカデミックなもののひとつである。


 画友達の隠し事

 佐伯の履歴に関して、意見の食い違いが多くある。
 里見勝蔵は、「諸君よ、諒(正しいこと)とせられよ」と「近代の洋畫人」で結んでいる。
 つまり、里見は画友達が嘘をついている、あるいは隠し事をしていると言っている。しかし、里見自身もこの嘘、隠し事がどのようなものかを述べていない。あるいは、「近代の洋畫人」に書かれていることと、画家達が言っていることとに違いがあるのか……。

 1. 嘘といえる「佐伯2、3月体調不良説」。

 ・「朝日晃など従来の評伝は、引っ越しを四月下旬とするが、荻須は、引っ越しの時には佐伯は元気で、ネクタイを締めて家主に挨拶に行ったと云うから、病臥以前 であることは明らかである。里見勝蔵宛の五月二十三日付佐伯書簡(米子代筆)には、三月二十九日に病臥したとあるから、荻須の云う引っ越しは、三月二十九 日以前ということになり、朝日説は破綻している。」(落合莞爾)

 2. 米子と荻須高徳は自殺未遂はなかったと言っている。しかし、山田新一は自殺未遂があったと言う。




 3. 彼らが嘘をついている、あるいは隠し事をしているから、いろいろな憶測が生じる。

 「藤田の話、『自分は米子からは聞いていないが、仲間の連中からは聞いた。部屋から逃げ出したというのは、私刑をやり損ねて、目を離したうちに逃げられたのではないか、と思う。首には紐で締めた痕が残っていたらしいけど、そのことを口に出せないようだ。仲間内で口裏を合わせたであろうが、それぞれ自己本位になるから、言うことが違ってくる。そこで問題は米子だ。それは夫婦間が終わりそうだったのではないかと思う。佐伯は薩摩の千代子と近かった。それ故に、薩摩は千代子のことを見放したよ』。」(「周蔵手記」/ホームページ「天才佐伯祐三の真相」落合莞爾)

 しかし、その考えはあまりにも飛躍しすぎている。

 2月はモランなどに行き作品を作っていたことは確かである。そのとき、彼らは加筆なしの佐伯作品を見たはずである。
 それなら、夫と娘を亡くした可哀想な米子のため隠し事をすることにためらいはないはずである。
 彼らの隠し事とは、米子の加筆に口をつぐむこと、米子の嘘に口をつぐむこと。それは、夫と娘を亡くした可哀想な米子のために。
 
 「山田は、米子ハンが靴屋を展覧会に出さはった時、ワシが山田に打ち明けた時、『米子ハンも苦しいやろ きっと。お前より苦しいかも知れん。セイコウするまで 米子ハンに任せたらどうか』云うた。それはみんなワシのせいや。ワシが米子ハンなしでは いられんからや。」(「天才佐伯祐三の真相」落合莞爾)

 つまり、山田氏は米子の加筆を知っていた。
 そして、山田氏は口外しないようにしたが、友人には話している。

 「佐伯米子が病気かどうかは判りませんが、佐伯祐三の学生時代の大作がある企業の倉庫に有るのですが、その作品には佐伯祐三のサインでは無くそのサインを真似た米子がしている事が科学的に判明しました。この事実を知るものは日本でも数人ですが・・・佐伯祐三の死後、米子は飯を食う為に様々な手法で佐伯祐三の作品に自ら手を加えた事や、ある種、病的なまでに精神が病んでいたと言われておりました。無論、自分の主人を若くして無くした悲しみからの業かも知れません。以上の事は、家が近かった関係から私と交友の有った画家山田新一氏から聞き及んだ事実であります。」(古物美術商物故堂)
 
 しかし、隠し事はそれだけでないような気がする。
 精神病院に入院したときの記録には、「被害妄想の兆候も顕著だった」とある。被害妄想の内容については、誰も述べていない。


 愛する娘のほほえみ

 この絵は、佐伯祐三のものである。この絵は、真贋を問われれば真作である。
 佐伯祐三は、娘弥智子がかわいくてかわいくてたまらないのである。



(巴里日記 水彩とペン字 右側の鉛筆画は佐伯弥智子による画) 


 美しき人 薩摩千代子



 「古来、英雄はふさわしい女性から慕われる。わが天才の場合にも当然その人がいた。人形のような作られた美しさから、ドーリーと呼ばれ、パリ中の耳目を集めた薩摩治郎八の夫人千代子である。ブールヴアールのアバルトマンの二階のアトリエは、薩摩が千代子のために用意したものだが、米子から逃げ出してきた佐伯の第二アトリエになり、佐伯はここで独自の馬の目の画風を完成させていく。米子と暮らす三階から二階へ降りてくる佐伯は、ここへ通ってくる千代子と、しばしば置き手紙で通信していた。」(落合莞爾)

 あなたが下にいつもいると思うから
 俺は今やりぬく心があるのです。
 あなたの純粋が好きです。
 愛
 俺の愛を捧げます。
 良いものかいてささげます。
    十二月二十四日  佐伯祐三
    千代子サマ

 この手紙には、美しい人への愛が語られている。

 薩摩治郎八:日本の実業家。作家で大富豪として知られた。その華麗で洒落た浪費ぶりから「バロン薩摩」と呼ばれた。藤田嗣治をはじめとする日本人画家や、ピカソ、ジャン・コクトー、マリー・ローランサンなどのパトロンとなり、彼らの創作を支援した。日本人留学生のために、日本政府に代わり、自費で「日本館」を建設した。今にすれば約六百億円ものカネを散財し尽くした稀有の男。


 美しきもの

 美しきもの、それは、優しき心、愛する娘のほほえみ、ロマンのあるフランスの景色、美しき人薩摩千代子 ……。
 
 醜きもの、娘弥智子をいじめる米子。そして、米子を愛することを心に誓ったものの、米子から心が離れる佐伯自身。 

 
 終わりに

 多くの佐伯祐三ファンからすると、吉薗佐伯作品は評価されるものではないようである。
 しかし、こんな声もある。

 「佐伯が死んでまもないころ、私は久しぶりに北中を訪れ、図画教室で中村先生に会った。そのころ『ノートルダム』は教室の正面にかかっていた。師はじっとその絵を見つめ、私にこう言われた。『この絵はたしかに傑作ですね。この作品には、べつに異常なところはありませんが、二度目の渡仏時の作品を見ると、佐伯はもう狂っていますね。可哀想です。可哀想です……』」(「佐伯祐三」阪本勝著)

 第二次渡仏時の従来の佐伯作品、つまり米子加筆作品には狂気を感じると言っているのである。
 この吉薗佐伯作品「ネル・ラ・ヴァレ/吉薗」、「モンスニ通り」は、おおらかで狂気などはみじんもない。

 人生とは何か、美とは何か・・・非常に難しい問いである。

 「人生とはなにか」、この問いに「どのように生きるか」と置き換えてみると、妻子ある人が人妻を愛するということは決して好ましいことではない。しかし、自由に生きる画家にはこの生き方がひとつの答えだったのかもしれない。それは、妻米子により佐伯が自身の絵を描くことが許されない状況になったことが、妻米子から薩摩千代子に目が移った原因の一つであるからだ。
 しかし、米子から見れば、それはけっして許されるものではない。
 
 「優しき心」、「愛する娘のほほえみ」、「メルヘンのような景色」、そして「美しき人薩摩千代子」は、「美しきもの」であることには違いはない。
 「美とは何か」、この問いに、自由に生きる画家には「美しきもの」という答えがあったかもしれない。

 美しき思い出、それは、ロシアの風景。

 「ロシアの停車場にとまっている紫の汽車や、エメラルドの荷物列車に興味引かれた。そして木造の小屋の屋根の上に、寺院のエメラルドの半球型の屋根を見て、しばしばシャガルを思い浮かべ、巴里よりも近代的な色彩だと思った。」

 ところで、アカデミックだがロマンのある作品「フランス風景」(仮題、真贋不明)、ロマンのある吉薗佐伯作品「ネル・ラ・ヴァレ/吉薗」(仮題)、および穏やかな作風の吉薗佐伯作品「雪のモンスニ通り」は、すてきなものだと思うのは私だけだろうか。


 履歴

 1924年と1928年について、朝日氏、落合氏、里見氏、山田氏の意見を矛盾を承知でそのまま記載した。

 佐伯祐三 さえき ゆうぞう (1898-1928)

1893年 大阪に生まれる。
1911年 名門北野中学の入試を受けたが失敗する。「佐伯の落胆と悲しみは非常なものだった。」(阪本勝)
1912年 北野中学に入学。
1917年 川端画学校に入り、洋画家藤島武二の指導を受ける。
1918年 東京美術学校西洋画科に入学。
 「藤島武二をはじめ、石膏デザインを長原孝太郎に、油絵を小林萬吾に学んだ。この三人の師は、いずれも感覚的で明るい色彩表現を尊ぶ外光派白馬会の黒田清輝門下である。」(「新潮日本美術文庫43 佐伯祐三」斉藤泰嘉著、新潮社)
1920年 池田米子と結婚。下落合に家を借りて住む。
 「親の死を考へると自分は恐ろしい。弟の死を考へると私はたへられない。あまりにたへられない苦しい恐ろしさのために矢張り自分を楽します自己主義が人間の本性か、なる可く父や弟の死から離れ様とする強いてわすれ様とする自分が極く近頃の私なのです。・・・・・死なない間にいいものを書かなければ今自分が死ぬとあまりに淋しい。一枚ものこしたい画のない自分を考えて見ると--今死ぬならみんな焼き捨ててしまいたいと思ったりします。」(友人山田への手紙)  
1921年 3月、弟祐明が肺結核の為死去(20歳)。佐伯もこの頃から喀血していたとも言われる。病気の為、美術学校を三ヶ月休学。
1922年 2月、長女弥智子生まれる。
1923年 東京美術学校卒業。
1923年9月1日 関東大震災が起きる。

      **********

1924年 渡仏。1月パリ、リヨン駅に到着、里見勝蔵を訪ねる。パリ市南方約五キロ離れたところにあるクラマールにある屋敷の一角に住み、グランド・ショミエール画塾(研究所)の自由科に通う。
1924年7月 妻子、友人とともに南仏へ写生旅行する。
1924年初夏 里見勝蔵に同行しフォーヴィズムの巨匠ヴラマンクを訪問する。ヴラマンクは、佐伯の持参した裸婦の絵をみると、「アカデミスム!」と吐き捨てるように言った。佐伯も里見も困惑し、ベルト夫人がどうにかとりなしてくれて、ヴラマンクも彼らが帰るときには、「また見てあげよう」と声をかけたが、佐伯は日本流のおじぎをするのが精一杯で声も出なかったと言う。
1924年9月 「川口、木下らと、バルビゾン、フォンテーヌヴロウー、モレーに行く。」(朝日晃)
1924年秋 オーヴェール、ヴァルモンドワ、ネル・ラ・ヴァレなどを写生旅行。
1924年秋 「一九二四年の秋の美しい日がつづく頃、僕は佐伯たち三人と、木下勝次郎を誘って、ノルマンディの片田舎のネル・ラ・ヴァレへ行った。そこは、かつてヴラマンクが自ら自動車を運転しながら、僕にこの地方の景色、彼のモチフを見せてくれた。非常に美しい村の一つであつた。」「そこで佐伯もヴラマンク風の風景を盛んに描いた。粗雑だが、ちょっと愛すべき風景をたくさん描いた。われわれは三ヶ月ネルに止まった。クリスマスから新年にかけて、中山、前田、中野、小島らが来て、村娘たちと踊った。」(里見勝蔵)
1924年11月 モンパルナスの裏町風景をモチーフにするようになった。
1924年12月上旬 「モンパルナスの駅の南、リュ・デュ・シャトー十三(十五区)の四階に引っ越す。以後約一年間のパリでの制作拠点になる。」(朝日晃)
1924年12月 「まず現在の病状と診断結果について報告します。結核については病状は軽いです。心配なのは生活環境です。隣人や同業者との関係に調和が欠けています。さらに、ホテルでの暮らしが劣悪なようです。この状況が変わらなければ、彼の性格は異常なものに変化していくと予想されます。その解決策は、彼が他の人々と文通させることです。彼に必要なものは、自信や周囲への信頼であり、また安心であります。敬具。 ジョルジュ・ネケル」(落合莞爾)

1926年1月 兄祐正とイタリアを旅行する。
1926年3月 結核を患っていた彼を案じた家族らの説得に応じ、帰国する。パリでの友人である小島善太郎、前田寛治、里見勝蔵、佐伯祐三、木下孝則の5名により「1930年協会」を結成。第13回二科展に滞欧作を発表、「レ・ジュ・ド・ノエル」などで二科賞を受賞。

      **********

1927年8月 再度渡仏。第20回サロン・ドートンヌに入選。
1927年9月 ポントワ-ズ近郊の北にある小さな村オスニーの絵はがきを山田新一へ送る。

      **********

1927年10月 
・ヴールヴァール・デュ・モンパルナス162番地の新築直後のアパート3階に移る。なお、2階には薩摩千代子が住んでいる。
(備考:佐伯が曾宮一念へ宛てた1928年3月2日付けの葉書には161番地とある)
・「モンパルナスのアトリエは佐伯の健康を害した。というのは、壁がまだ十分乾ききらないうちに入室したのが悪かったのである。」(「佐伯祐三」阪本勝)
1927年11月3日 「口ききません。ヤチがストーブ用の火箸で 折檻されたようで 足に怪我しました。」(「天才佐伯祐三の真実」落合莞爾)
1927年11月、12月 「千代子サン ヤチにオーバー作って くれはったけど 米子ハンが燃やしてしまいました。」(「天才佐伯祐三の真実」落合莞爾)
1927年11月、12月 「米子の話によると、へいぜい妻にやさしかった佐伯は、このころからよく怒るようになったという。精神はようやく狂い始めたのだろうか。」(「天才佐伯祐三の真実」落合莞爾)
1927年12月
 「あなたが下にいつもいると思うから 俺は今やりぬく心があるのです。 あなたの純粋が好きです。 愛 俺の愛を捧げます。 良いものかいてささげます。 十二月二十四日 佐伯祐三 千代子サマ」(「佐伯祐三メモ」/「天才佐伯祐三の真実」落合莞爾)
 ガス事故が起きる。
・「石炭ガス中毒で、祐三一家が死にかかったのも当時のアクシデント――である。」(「そして佐伯祐三のパリ」朝日晃)
・「佐伯とヤチ子が、シングルベッドに背を向け合って、寝ていた由。佐伯は五日、ヤチ子は七日ほど入院したが、佐伯は頭痛が取れず、ずっと後まで頭痛を訴えていた。ヤチ子は目に異常があるように思うと、千代子はいう。周囲の声が耳に入らぬように茫然としており、佐伯が指を鳴らすと、催眠術から覚めたように正気に戻る。また壁土や石を舐めたり、異常の行為が目立つ、というので、これは一刻も早く東京に戻した方が良いと周蔵は判断した。」(「天才佐伯祐三の真実」落合莞爾)
・「大使館員の調査に対して、米子は『アタクシの不注意です』と云った。」(「天才佐伯祐三の真実」落合莞爾)
「ガスの事があってから、米子はんは 巴里の街中 描かんようになりました。描けん云うてます。技が止まってしまったようです。」(「天才佐伯祐三の真相」落合莞爾)・・・「絵には精神が表れる。米子は、この頃より精神に異常をきたしたと考える。」(「屋根裏部屋の美術館 佐伯米子」中村正明)

      **********

1928年2月、3月 (3月下旬より

・1928年2月5日 「山口、荻須、大橋、横手と、郊外写生地の下見にモラン河沿いのヴィリエ・シェル・モラン、サン・ジェルマン・シェル・モランに行く。」(「そして佐伯祐三のパリ」朝日晃)
・「荒行が二週間つづいて、とうとう横手君が悲鳴をあげて、一同も垢だらけになってパリへ帰ることになりました。佐伯夫婦だけがのこってしばらく仕事を続けたようです。」(「私のパリ、パリの私 荻須高徳の回想」荻須高徳)
・「『街頭風景に捉われ過ぎた佐伯さんの発案で郊外のモランへ……』、『超人的情熱と努力に全く感動』と、約二十日間生活を共にした山口長男の言葉である。カンヴァスが足りなくなり一度パリに戻って補給、また引っ返した。荻須、大橋、横手も同行したが、山口、荻須が書き残したように、それはまさに荒行、修行で、それに耐えられず横手は脱落した。我々が二度目の絵を終わって畑の中や村家の裏等を捜し廻ると何枚目かの画面を暗くなるのも構わず必死に描いていた。こういう時は四枚目も描いていたに拘らず結局駄目だと内心いら立っていた」(「美之國」山口長男、1937年4月号/「佐伯祐三のパリ」朝日晃)
・「……と書いたのは山口長男、街頭風景に捉われ過ぎた佐伯の反省から郊外でのヴィリエ・シェル・モランでの二ヶ月、真冬の野外写生に同行し日夜を共にした経験からの実感である。(山口長男/「そして佐伯祐三のパリ」朝日晃、P.270)
・1928年2月頃 「佐伯は米子夫人と弥智と、その頃彼に師事していた荻須高徳、山口長男、大橋了介、横手貞美の四人を連れて、巴里から汽車で一時間ほどの美しい田舎モランへ、二ヶ月ほど田園風景を描きに行った。田園風景で転回しようと試みたのである。(里見勝蔵)
・「周蔵が2月にパリで会ったとき、佐伯は健康そのものであった。従来の佐伯の伝記が、この頃より結核が進み、密室に閉じこもって『郵便配達』や『ロシアの少女』を描いたと説明するが、それ自体が米子の追想話を基にした創作なのである。」(落合莞爾)
・「佐伯はモランから何度も戻っていた。画布を取りに戻ったらしい。」(落合莞爾)

1928年3月2日 「『曾宮さん 私があまりごぶさたしてゐたのですつかりをこつてゐるでせう。何とぞまあゆるして下さい。ウソデナシニ気になりながら、貴兄の身体を気にしながら。自分も今少し身体が悪い。が大した事はありません毎日ブラブラしてゐます。ヲクさんによろしく。』という佐伯が画家曾宮一念に宛てた1928年3月2日消印の葉書がある。この文面は、1935年(昭和10)に発行された『みづえ』11月号掲載の曾宮一念「佐伯と私」で紹介されている。」(ブログ Chinchiko Papalog 「佐伯が書いた2350分の1の『偶然』)
・「ビリエ・モンバルパンに佐伯君たちが居たので、一日林と二人で訪ねていつたことがあつたが、その夕食の時に大きな田舎のパンを胸に抱き込んで切りながらこんな大きさの「うんこ」が出たらなど云ひ出した。(伊藤廉「佐伯君の死とその前後」より) この文章を読むかぎり、1928年2月初旬(伊藤は 3月初めと誤記憶)」(ブログ Chinchiko Papalog 「佐伯の仕事を背後から覗いてた林重義」)

1928年3月15日 ついに離婚が決まる。(落合莞爾)

1928年3月中旬 
・「春の初め、モンパルナスの駅の裏のレスト街にある、荒れた小さな三室のアパートに転居したが、ここでは、もう佐伯は一度も筆をとることはできなかった。」(里見勝蔵)
・「3月のパリ、雨降りや寒さもかまわずに、イーゼルや絵の具箱、カンヴァスを持って街頭での制作を続け、風邪をひいて病床に臥す。」
「パリは雨天が続き、屋外写生、小雨に濡れたのがもとで風邪を引く。病床について『郵便配達人』、『ロシアの少女』を描く。やがて喀血する。二十九日病床につく。」(「そして佐伯祐三のパリ」朝日晃、p.297)
・「寒いモランから帰った一九二八年三月、パリは雨降りが続いた。『こんな日に絵を描きに出るの――』と米子が病身を気遣って声をかけると、佐伯は激怒した。雨の雫をたらしまっ白なままのカンヴァスを持ち帰ったこともあった。発熱、吐血、病臥――。」(「そして佐伯祐三のパリ」朝日晃、p.271)
・「『ロシアの少女』は1927年暮れの作品である」(落合莞爾)
・「3月中旬、異郷パリで、にわかに病気になった。症状は、本人のメモや書簡によれば、まず右手のしびれに始まり、舌がびりびりし、目がかすんで見えなくなった。それが一旦小康状態に戻り、また悪化、という経過を辿ったようである。」(落合莞爾)
・「朝日晃作成の年譜では、4月下旬、リュ・ド・ヴァンヴ五の西向き四階三部屋の家へ越す、とするが、真相は、実は3月13日に引っ越しており、世間体から四月下旬まで発表しなかったのである。」(落合莞爾)
・「3月15日、離婚の決意を米子に告げた佐伯は、一人モンマーニュに写生旅行に出た。」(落合莞爾)
・「3月18日付け手紙 モンマーニュの写生旅行から帰ってきた佐伯は、身体に異常を感じた。ヴールヴァール・デュ・モンパルナス162番地よりの手紙である。」(落合莞爾)
・「三月末に風邪をこじらせ抜歯も影響して発熱した。」
・「阪本勝は、その間大喀血したと云うが、「周蔵遺書」では、吐血としている。」(「天才佐伯祐三の真実」落合莞爾)
・「田舎から帰ってまもなくの三月のある日、佐伯さんを訪ねるとカゼで寝ていました。例の大阪弁で、『荻須さん、けっして雨の中でがまんして画を描いてはいかんわ』と注意してくれました。佐伯さんは学生時代肋膜をやったときいていますが、おもえばこのときのカゼが命とりのもとになったようです。」(「私のパリ、パリの私 荻須高徳の回想」荻須高徳)

     **********

1928年4月 (謎の4月)

・「4月下旬、リュ・ド・ヴァンヴ五の西向き四階三部屋の家へ越す。」(「そして佐伯祐三のパリ」朝日晃)
・「真相は、実は3月13日に引っ越しを行った。」(「天才佐伯祐三の真実」落合莞爾)
・「……。その時風邪をひいたのです。四月の終わり頃でした。以来アトリエ(ヴールヴァール・デュ・モンパルナス162番地のアパート(2階?)と考える)で寝ていましたが、五月頃でしたか、古いアパート(リュ・ド・ヴァンヴ五と考える)のアトリエの方が家賃が安いというので引っ越しました。われわれも三~四日に一度はのぞいたんですが、熱が一ヶ月以上続き憔悴しきっていました。描くことが自分の支えなのに描くことができず、『死にたい』と言っていたようです。そんなある朝、佐伯が家を出たという連絡を受けたので……。」(山口長男/「求美」1978年36号)
・「三月末から二十九日に病気になって、いまだに一歩も起きられない。今日で五十五、六日目になる。四月の終わり、どうしても宿がえをしなければならなかったので、そっとだが身体を動かしたのが悪かった。今一寸、いつ起きられるかわからない。パリに着いてから七ヶ月、ずいぶん仕事に奮闘して、三月には又一興をおぼえて、よろこんで進んで行く足を切られたような気がする。」(「米子が代筆した里見宛五月二十三日付の封書」/「佐伯祐三のパリ」朝日晃)、「3月に一興を覚えたのは、『郵便配達夫』と『ロシアの少女』のコスチュームのモティーフで、米子は祐三にまだ持続する余力を期待していたのだろうか。」(「佐伯祐三のパリ」朝日晃)   ・・・しかし、米子には嘘が多い。
「4月16日、パリは、寒波により気温が-2℃まで下がり、雪が降った。」(ザ・ニューヨーク・タイムズ)
 「吉薗佐伯作品『雪のモンスニ通り』を描く。」(「屋根裏部屋の美術館」中村正明)


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1928年5月 (5月上旬は元気だったが中旬より容体は急変)

1928年5月2日 「佐伯は周蔵に病院を手配して貰うや、最後の力を振り絞り、千代子の思い出残るアトリエに来て「郵便屋」の仕上げをしたが、最後の最後には、愛する薩摩千代子の肖像を描いた。佐伯の絶筆は、したがって『薩摩千代子像』である。アトリエで描いた周蔵宛の手紙は、錯乱状態のなかで、日付を八月二日にしてしまった。」(「天才佐伯祐三の真実」落合莞爾)

1928年5月 「仲の良ゐ友人にたのんで荷造りしましたので六十枚弱の画送ります。仕様のないものばかりですから仕様がなかったら焼き捨てて下さい。今日ハ元キです。  佐伯祐三  俺モこの頃デハ文字(英文文字)モ人物モヤヤ画ケルヤフニナッテイマス  ナラマシタンヤ」(「未完 佐伯祐三の『巴里日記』 吉薗周蔵宛書簡」匠秀夫編・著、形文社)

1928年5月 「(リュ・ド・ヴァンヴ五の)四階三部屋のこのフロアーに引っ越して二ヶ月め(←これより5月とした)、荻須はリュ・デュ・シャトーから十分足らずの距離をゆっくり歩く、ネクタイをつけた最初で最後の祐三の姿を記憶している。パリに精通した椎名の忠告、家主への心遣いである。」(「パリに死す」椎名其一/「そして佐伯祐三のパリ」朝日晃)

1928年5月中旬 
・「再び風邪がもとで、身体は衰弱の度を増していった。中村博士に診てもらっていたのだが、ある夜半の急病で、往診にきたフランスの医師がした注射の分量が、日本人の体質には多すぎたといわれているが、佐伯は急に発狂状態に陥った。」(里見勝蔵)
・「フランス人の看護婦が私の止めるのもきかず澤山の分量の注射をし過ぎました。中村さん(博士)のおっしゃるには一のものを十したそうです。その夜急にひどい抗糞に陥つてあとはめちゃめちゃになりました。」(「米子から前田寛治宛てに書いた手紙」/「中央美術」第十四巻第十号/「佐伯祐三」阪本勝)
・ジョルジュ・ネケル氏から吉薗周蔵宛の書簡(5月29日付け) 「患者は心の安定を失っている。精神病ではないが、心が荒廃している状況にある。治療を求めているが、打開策はない。今、彼を助けることが出来るのは神だけである。彼が今熱烈に望んでいるのは生きることであり、必要とするのは生きる力である。」(「天才佐伯祐三の真相」落合莞爾)

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1928年6月2日 「俺は病気にとりつかれてしまいました。今度の病は、今までのもんと違って、ほんまの病気です。今度はほんまに、俺は死ぬと思います。……。ヤチも苦しそうに寝ています。」(「吉薗周蔵宛の佐伯メモ」/落合莞爾)
1928年6月4日 
「『佐伯がね、そりやお待ちしていますのよ……だけど、この二、三日どうも工合がよくありませんの。から、あまり沢山お話なさらないでね……』、そんなに悪かったのか!そして僕は充分覚悟して病室に入ったのだが、扉を開けた瞬間『いけない』絶対的! そんな感じに襲われたのである。ひどくやつれている上に髭だらけで、落ち窪んだ眼窩がするどく一種死相とでもいうべき影が漂っていた。彼の力なく白く痩せほそった二本の指を握って、僕はふたこと、みこと元気をつけるように話しかけたが、佐伯は多くを語らず南フランスへでも行って養生したいとだけ言った。そして隣室に僕は驚くほど山積みされた作品を見た。一体これは!何百枚なんだろうと身体のふるえの止まらないような感動に襲われた。」(「素顔の佐伯祐三」山田新一)

1928年6月13日
・「二年程して僕が結核になって療養所にいた時、診てもらった中村という医者が、佐伯君が身体を悪くして寝ているから私に激励してくれ、療養所に来るようにすすめてくれくれって言うので、デ・ヴァンプ通りのアパートに行きました。僕が『文学をやることにした』と言ったら、『好きでやればいいですよ』と言って、とてもはっきりしていました。私は『療養所で文学をやる決心がついたんだから療養するのは人生の無駄にならない』と言って、私は『療養所に帰りますから一緒に行きませんか』って言ったんですよ。そしたら涙を流してね、『貴方は何処にいますか?』って聞かれたので『ブールラレーヌにいるのです』と言いましたけれど、その時番地を言えばよかったのに言わなかった。数日して彼が家を抜け出したのを聞きました。」(芦沢光治良/「求美」1978年36号)
・「芦澤が、ヴァンヴ、五の佐伯祐三を見舞った記録を-。『今日椎名氏が来て、佐伯氏が肺を悪くし、その上、神経衰弱で死にそうだから…』『中村博士も言って呉れたが、佐伯氏は神経衰弱で殆ど絶望的らしい…』」(「そして佐伯祐三のパリ」朝日晃)
・(月日?)「佐伯は最後になって、坂本医師によって病名がはっきりしたんです。精神分裂病でした。結核によるショックもあっただろうし、しまいには洗面器一杯じゃきかないぐらい喀血して絶望的にもなっていたんで、精神病を誘発したんだと思います。」(山田新一/「求美」1978年36号)

1928年6月19日「十九日夜を徹夜のつもりで、佐伯の病室の隣の部屋にいたのは、山田新一、山口長男、荻須と椎名の友人室本なる男の四人で、朝の四時まで話していたが、早朝うとうとしていたとき、米子のあわただしい声でみな飛び起きた。佐伯の姿が消えていた。」(落合莞爾)
1928年6月20日 自殺未遂をする。ブーローニュ警察からの連絡で米子と林が連れに行く。(「そして佐伯祐三のパリ」朝日晃)
「そのままヴァンヴの家につれもどされる。」(「没後30年佐伯祐三展」河北倫明)

・「夜半に佐伯君は私(椎名氏)を一人そばに呼び、まったく正気なものの条理をたどって色々話した末に自分の図った自殺の方法を詳細に物語った。『……森の奥の大木によじのぼり、一本の枝に紐を結び付け、そして首を吊ったのである。それからどうして降りたのか、どうして落ちたのか、彼自身にも明らかでな いが、空中の声に導かれるがままに、奥へ奥へとひた歩きに歩いて行ったのだ』……と。」(椎名其ニ)
・「ある夜、もう真夜中であったが、僕と椎名氏とが、例の首吊り事件から戻されて、いずれは病院に運ばれる日の近かった佐伯の病室をそおっと覗くと、佐伯は小児のように眠るが如く眠らざるがごとくしていた両眼を、パッチリ開けて、手振り身振りで自分の寝台の近くに我々を呼び寄せた。……
 佐伯が言ったこの世における間違ったこととは、椎名氏も先に「彼はある女との関係を気にかけていたらしかった」と書いていたひとつの恋愛であった。彼は実に気が違った者とは思えないぐらい整然たる口調で、そして心の底からこの世に遺してゆく懺悔の心をこめて、我々二人にしみじみと告白するのであった。」(山田新一)

1928年6月23日 「セーヌ県立ヴィル・エヴラール精神病院へ入院する。米子と荻須が同行。」(「そして佐伯祐三のパリ」朝日晃)
・「『入院時診断書』 発作を頻発、自殺や自傷行為、衝動的で混乱反応、両腕に噛傷が数ヵ所、進行性肺結核の可能性。要注意。……。」(「そして佐伯祐三のパリ」朝日晃) 
・「アパートで寝ていたときクラマールへ脱出して、首をつって、助けられて、そのあとわれわれは閉口して入院させたんですが、それからあとというものは、絶対食べることを拒否」、「佐伯は、入院したその日から飲食一切を拒否しました。何を食えと言っても、何を飲めと言っても拒絶したんです。ブドウ糖の注射だけで一ヶ月もちこたえた。このことはどの本にもあまり書いてありませんけれど・・・。アパートで寝ていたときクラマールへ脱出して、首をつって、助けられて、そのあとわれわれは閉口して入院させたんですが、それからあとというものは、絶対食べることを拒否して、自殺したといえますね。」(山田新一)
・「祐三の入院後、米子、弥智子は、ホテル・デ・グランゾンに移った。(朝日晃)
・「米子から周蔵への手紙、『病院で私の出すもの何一つ食べず、死にましたのよ』」(落合莞爾)
・「その頃、すでに弥智子も肺病と神経を病んで……。」(里見勝蔵)
・「目下弥智が結核喉頭炎の上に髄膜炎を併発して一両日中が危険であるから米子夫人勿論手紙書くことができず小生又多くを記することができない。」(山田新一)
・「娘は別の病気で、明らかに薬物中毒に陥っており、症状は重篤と見るべきである。」(落合莞爾)
1928年8月13日 米子が見舞う。いつになく目を覚まし、米子の持ってきた果物を食べた。(朝日晃)
1928年8月15日 看護人は夜通し泣き続ける佐伯祐三の姿を見た。「そして佐伯祐三のパリ」(朝日晃)
1928年8月16日 セーヌ県立ヴィル・エヴラール精神病院で死去。享年30歳。
1928年8月30日 娘弥智子もホテル・デ・グランゾンで死去。

「佐伯祐三の急死には事情があると睨んで、周蔵が米子に疑惑の目を向けたのは当然である。後日、パリから帰国した藤田嗣治の説明で、ある程度のことが分かった。周蔵と別れた後、佐伯の奇妙な行動に、一画学生が気がついた。佐伯が仲間のことを探って記していたメモが見つかってしまったのである。直ちに画学生仲間に触れ回られ、佐伯は問い詰められる。やがて暴力沙汰に発展し、査問された佐伯は、縄で首を絞められたのか、あるいは自殺を強要されたのか、危うく逃げ出した。精神病院に入れられた祐三は食物を拒否し、ついに餓死した。以上が真相だと思うが。」(落合莞爾)

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(「佐伯祐三の死――自由に焦れて在仏40年」椎名其ニ著、中央公論昭和33年2月)
(「素顔の佐伯祐三」山田新一著、中央公論美術出版)
(「近代の洋畫人」中央公論美術出版)
(「そして佐伯祐三のパリ」朝日晃著、大日本絵画)
(「佐伯祐三」阪本勝著、日動出版)


 参考文献


「佐伯祐三のこと」(佐伯米子著/「日本近代絵画全集10」、講談社)
「天才画家<佐伯祐三>真贋事件の真実」(落合莞爾著、時事通信社)
「近代の洋畫人」(著作権代表者河北倫明、佐伯祐三の部は里見勝蔵著、1959年、中央公論美術出版)
「ヴラマンク・里見勝蔵・佐伯祐三展」(朝日晃等著、日動出版)
「佐伯祐三の生涯と作品について」(青山学院大学グループK発表、村上明子、河西良太)
「佐伯祐三の死――自由に焦れて在仏40年」(椎名其ニ著、中央公論昭和33年2月)
「素顔の佐伯祐三」(山田新一著、中央公論美術出版)
「アート・ギャラリー・ジャパン 20世紀日本の美術15 岸田劉生/佐伯祐三」(浅野徹、富山秀男著、集英社)
「そして佐伯祐三のパリ」(朝日晃著、大日本絵画)
「未完 佐伯祐三の『巴里日記』」(匠秀夫編・著、形文社)
「佐伯が書いた2350分の1の『偶然』」(ブログ Chinchiko Papalog)
「天才画家佐伯祐三の真相」(ホームページ、落合莞爾)
「私のパリ、パリの私 荻須高徳の回想」(荻須高徳著、東京新聞出版局)
「佐伯祐三」(阪本勝著、日動出版)
「未完 佐伯祐三の『巴里日記』 吉薗周蔵宛書簡」(匠秀夫編・著、形文社)


 佐伯祐三作品

 佐伯祐三「モラン風景」(1928年2月)




 ジェームズ・アンソール「マリアケルケ」



 「佐伯が芸術性を感じる」(佐伯祐三書簡/落合莞爾)と言ったアンソールの作品。
 佐伯が、アンソール風の作品十枚を送るから、周蔵の評を請うという手紙がある。
 吉薗佐伯作品「ネル・ラ・ヴァレ/吉薗」(仮題)の作品から受ける感じは、この絵画と似ている。ただし、空の描き方はまったく異なるものであるが。


 佐伯祐三「巴里」(仮題、「未完 佐伯祐三の『巴里日記』」)



 匠秀夫氏が書いた「未完 佐伯祐三の『巴里日記』」に収載されたこの絵画も吉薗佐伯作品に該当するものである。

 ブログ「或る『享楽的日記』伝」(ごく普通の中年サラリーマンが、起業に向けた資格受験や、音楽、絵画などの趣味の日々を淡々と綴ります。自己紹介:ハンコック)には、この絵画についての感想が書かれていた。

 「読み終えて一番印象に残ったのが、なんと内容じゃなくて日記帳の中の挿絵。下の写真はその中の2枚。妻の米子の加筆とか贋作とか、どろどろした話が渦巻く中でピュアな佐伯に出会えた気がして。眺めているとなんだかじーんとしてしまいました。」


 吉薗佐伯作品 「クーポールの見える街」

 


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