児島善三郎 苦悩からの脱出 

 はじめに

 当美術館「屋根裏部屋の美術館」が所蔵する児島善三郎「巴里風景」(1928年)を紹介する。
 児島善三郎は、1925年から1928年まで欧州に留学していた。この作品は、パリ留学時1928年のものである。この作品は軽いタッチで描かれたというものではなく、なにか地に足が着いていないようなものである。
 これは、彼がパリ留学で学んで作ったものとはとうてい考えられない。なぜ、このような作品を作ったのか。


 児島善三郎

 1935年頃より、児島らが提唱する“日本的洋画”の主張−日本的風土に則したフランス・フォーヴィスムの受容−は広く画壇に波及するところとなる。児島は豊かな色彩感覚と肉太な線による形の簡略化、様式化により、桃山時代の障屏画を思わせる独自の装飾的な風景画を生み出している。

 「こんど生まれかわったら世界一の絵描きになりたい。」(児島善三郎)

 相貌(そうぼう)心理学とは、顔と性格の関係についての学問である。また、筆跡学は筆跡と性格の関係についての学問である。

 精神的な問題は顔に表れる。1920年頃の自画像にある眉間のしわはと痩けた頬は、非常に強いストレスを受けたことを示す。
 しかし、その1年後の1921年頃の自画像(和服)は、1920年頃の自画像と大幅に異なり、ふっくらとした顔に変わっている。
 これは、「1920年 5年間の闘病生活のち回復する」ということから、健康状態によるものかもしれないが、1921年頃の自画像(和服)は1923年頃の自画像(黒マントの自画像)とは明らかに異なる顔つきである。
 それでは、顔と性格に関連があるなら、この顔の変化は性格が変化したということになる。

 自画像 1920年頃



 自画像(和服) 1921年頃



 黒マントの自画像 1923年頃



 写真 1954年



 また、「書は人なり」という言葉がある。書には、その人の性格が出る。

 この手紙にある宛先「大久保泰」という文字には、「保」にはためらいがあり、また、「泰」は間違っている。
 児島善三郎は、大久保泰と手紙のやりとりを頻繁に行っていた。明らかに、「泰」という文字を間違えるのはおかしい。
 この書には問題があることが分かる。つまり、彼の性格には問題がある可能性がある。



 (大久保泰への手紙 昭和23年2月4日 国分寺より)


 作品「巴里風景」(1928年、古物美術商物故堂取扱、屋根裏部屋の美術館蔵)



 ***出品者古物美術商物故堂による作品紹介***

 本作品は東京の渋谷の旧家の贓品。この旧家の贓品整理を叔母に依頼を受けて実行中です。非常に貴重な作品が多く見られ興味が尽きません。何処の風景を描いた作品かは詳細は不明ですが、一応裏面に「巴里風景・一九二八年・児島善三郎」と張り紙が有ります。其の根拠は裏面の左下に28.12.3と鉛筆書きされているからでしょうか?この時代に児島は巴里に居た、と言う事でしょう。しかしながら委細は不明です。表面にもサインが有ります。支持体は紙。技法は油彩。経年の傷みからか裏面には焼けが見られますが、画面の状態は大切にされていたせいか、非常に良いです。サイズは2号です。筆致や色彩に特徴が見られ、少なくとも私は非常に良い作品であると判断しております。まず間違いの無い作品でしょう。

 ***作品解説***

 九州造形短期大学学長の谷口治達氏は、児島善三郎の作品について次のように述べている。

 「善三郎の絵画の根底には、西洋で起こったフォーヴィズムの影響があります。フォーヴィズムというのは、原色を使った荒々しい感情を表現していくという運動なんですが、善三郎はそれを取り入れて、それに日本ふうというか、文人ふうのものを加味していったのです。」
 「マチス、マルケ、ヴラマンクなどが一九〇五年に初めてパリのサロン・ドートンヌの一室に彼らの奔放な作品を発表したときに、その人たちの絵があまりにどぎ ついので、それを見て美術の評論家たちが「野獣たち」と呼んだのです。いまのアクションペインティングなどのはしりですが、赤いものを赤く描くのではな く、写実の上に自分の感情を大きく反映させるような絵の運動です。そういう系譜の中に善三郎も入るのですね。彼は日本人の感情をフォーヴィズムに反映させ ようとしたのです。善三郎は、一方で日本美術では桃山から江戸時代初期の俵屋宗達、尾形光琳、尾形乾山など琳派を好みましたので、そんな感覚をフォーヴの手法と一致させていったのです。強烈な感情表現と日本的な装飾性とを組み合わせた文人フォーヴを独立展を通して展開し、そのリーダーであったということになりますね。」

 しかし、この作品は、やや奇異な色彩を伴い、地に足が着いていないようなものであり、フォーヴィズムとは異なる。
 彼は、この風景に何を感じたのだろうか。


 作品「カテドラル・ド・ナント」(1927年)



 作品「巴里風景」と類似した作風のものに作品「カテドラル・ド・ナント」(1927年)がある。

 「この『カテドラル・ド・ナント』は、極めて単純化し絵の具をうすく、一気に描きあげており、点景人物でひきしめている。彼の滞欧作の中では、珍しく感覚的で、マティスを思わせるものである。しかし、人物などの描き方や、線がのびのびし、悠々とした広大な気分には、すでに児島の特長が表れている。」(大久保泰/「現代日本の美術第12巻 児島善三郎/中川一政」)

 マティスの影響?このような感じのマティスがあるのか。ゴッホの作品には、このような色彩を用いたものがあるが。
 人物の描き方は、確かにポスト印象派の影響が窺える。
 そうすると、作品「巴里風景」もポスト印象派風のものとなるが?


 マティス「模様地の中の装飾的な人物」(1927年頃)




 作品「独立美術首途『第二の誕生』」(1931年)



 この作品「独立美術首途『第二の誕生』」は、第1回独立美術協会展(1931年)に出品されたものである。

 1930年協会は、1927年に木下孝則、小島善太郎、前田寛治、里見勝蔵、佐伯祐三の5名により創立され、「西洋画の模倣、追隋を脱して自分たちの手による油彩画の創造を」というスローガンを掲げた。
 その後、1930年協会展が発端となり、二科会ほかの団体を超えて気鋭の作家が集まり、1930年に独立美術協会が創立された。 創立会員は、里見勝蔵、児島善三郎、林重義、林武、川口軌外、小島善太郎、中山巍、鈴木亜夫、鈴木保徳、伊藤廉、清水登之、高畠達四郎、三岸好太郎、福澤一郎である。
 当然、1930年協会の「西洋画の模倣、追隋を脱して自分たちの手による油彩画の創造を」というスローガンは受け継がれたものと考えるが、この作品「独立美術首途『第二の誕生』」は、三美神をモチーフにしたもので、女性はマチスの作風を真似たものであり、まさに西洋画の模倣、追随である。


 鬱と躁

 児島善三郎の性格について、匠秀夫は次のように述べている。

 「児島善三郎という画家は、大尽なのにけちであったとか、女好きであったとか、時に横暴極まる風情なのに、また、時に、綿々たる愚痴屋であり、また号泣する底抜けの激情家である、といった話がその正像を知らぬわりに記憶に焼きついている。ところが、児島の作品に向かってみると、女性像であれ、風景であれ、また花にしても一言で言えば、清澄で、卑臭味がまったくないの驚かされるのである。画は人なり、とよく言うが、この並はずれた吝嗇、好色、独断性、感傷家の筆になるものが、およそ、
(「児島善三郎、書簡類の意義 ――児島芸術の確率をめぐって――」匠秀夫著/「児島善三郎の手紙」匠秀夫編)

 児島善三郎は、「横暴極まる風情」とか、「号泣する底抜けの激情家」というややきわだった性格の持ち主である。
 これから、児島善三郎の精神に何か問題があるように感じられる。

 児島善三郎が大久保泰に宛てた手紙には、長期にわたるスランプ、そしてそこから脱出し気分の異常な高揚が書かれている。
 これらから、児島には「不眠症」、「鬱状態」、「躁状態」というものがあったことが分かる。

・昭和19年
 「来年からは本当に仕事に油も乗って来る事だと思います。―この三年以上も、本当に死ぬ苦しみを続けましたから、これからは奔馬空を行く様な法爾自然に仕事が出来るような気がして楽しみです。」

・昭和24年 
 「来夜も来夜も眠れない日が続き、朝起きても薄ボンヤリとしてアトリエにはいる自分の、ミジメな姿! ―嘗ては、朝起きて、マブシイ太陽を浴びながらアトリエにはいる!そして今日、始めてこの世に生まれてきた喜びを感じながら日、一日と自分の新しい天地を開いて行って居たあの頃のことを思うと、たとえ敗戦の洛謄たる悲運の中にあっても、文化だけは負けないだけの気を負っていいはずの、魂を持っていると思っていい筈であるが、ともすれば世情に支配され勝ちになり、生活の不安におびやかされ、生き抜く自身を見失い勝ちとなり、ツイ愚痴をこぼしたくなる自分をかえり見て、いつもシッタしながら仕事だけは続けて来たものの、その不快はどうにも癒すことが出来なかったのです。」
 「だが、モウ違う!断食後の私はまるで自分ながら別人の様になった! 悠久の天地の前に私は自若として座す。 私が命ずれば天地は私の欲するままに表現する。 今に天地を支配する力が私の身内の中にモリ上がって来つつあることを強く感じる!山川草木、私の後(アト)に従って荘厳される!」

・年代不詳
 「実は今年にはいり又例のスランプに陥り一月から四月の初め迄どうにも仕事進まず、何もかもなげ出して死を待つ様な、やる瀬ない気持ちでいましたが熱海へ発つ前小品六号二枚在外シュッとした画が出来たので有頂天になって喜び家の中をいい画が出来た出来たと飛び廻った程でしたが、頑強な不眠症の為め再び意気消沈、母の十七回忌の為九州に帰り、今度帰京したら断然断食寮にはいって二週間ばかり断食を決行、心身の改造を決意して居ります。」

 このように鬱状態と躁状態を繰りかえす人が、大久保泰宛の手紙にあるような、非常に不自然な誤字を書き、また、作品「巴里風景」にあるようなやや奇異な色彩を伴う、地に足が着いていないような絵を描くのである。
 また、そのような人の心理状態は健康の変化と共に変わり、やせた顔の自画像を描いたり、やや太り気味の顔の自画像を描いたりするのである。

 なお、現在、癌にかかった人の多くに鬱病が併発されるという。戦後しばらくまでは、結核は不治の病であり、死と隣り合わせであった。結核が、ストレスとして児島の精神に影響を与えた。

 また、幼少期の劣悪な環境も大きなストレスとなる。
 それを推測するものがある。

 「父は福岡市中島町の紙問屋の長男として生まれた。福岡市中島町といえば格調の高い博多商人の町で、児島家が岡山県の南端児島半島の武家の身から、ここに店を開いたのは慶安元年のこという。武家出身であったためか、児島家の躾は厳しく、食事は各めいめいの据え膳で、作法はとにかくやかましかったと聞いている。そうて育ったためか、私たちにとって、家庭での父は、何か怖いという印象が強いのである。朝アトリエに入ると、昼食のときに出て来るだけで、私はそんな時の父の顔色をうかがいながら、その日の父の仕事がうまくいっているかどうかを判断したものである。機嫌が悪ければ、箸の使い方ひとつにも怒声がとぶので、先に食事をすませ、自分の部屋に閉じこもることにしていた。アトリエでの父は、四角い木の椅子にざぶとんを敷き、その上に正座して絵筆を動かしていた。  戸外での写生のときは、炎天下の日盛りでも、肌を刺すような寒風の中でも、母がいつもつきそっていた。強風の日には、画架のうしろに立ってキャンパスを支え、日照りの時には日傘を差して、母は父の制作を助けていた。もちろん、パレットの後始末や筆洗いはすべて母の仕事である。私が小学校の頃、母と楽しく過ごせるのは、父が一週間ほど、写生旅行に出るときぐらいのものであった。そんな時、母の妹が住んでいた両国へ行き、花火見物、映画にと子どもらしい楽しさを味わった。しかし、何かの都合で、父が予定より早く帰ってきて、留守を知ろうものなら大変である。『出てけ!』と一声、私たちは、父の怒りがおさまるのを、じっと待つだけであった。」(「父の思いで」児島徹郎著/「アサヒグラフ別冊美術特集児島善三郎」、朝日新聞社)

 これは、児島善三郎の息子児島徹郎氏の幼少期である。
 児島善三郎は、これと同じような幼少期を過ごしたと考える。つまり、彼は、幼少期、強いストレスを受けた可能性が高いと考える。
 この幼少期に受けたストレスと結核による強いストレスが、鬱病の引き金となったと考える。

 「病気になって郷里に帰った。東京に来てから四年目、私は二十四歳だった。それから二十八までの五年間、苦しい闘病生活が続いた。転地、サナトリウム、病院……今思っても、ぞっとするような時代である。」(児島善三郎)


 躁転

 精神分析学では、鬱状態から躁状態に変わるとき、脳ではドーパミンが放出され、その時、芸術家はすばらしい作品を作り出すと言われている。
  
 作品「森と聚落」(1958年)



 梅原龍三郎も非常に長いスランプ状態があり、明らかに鬱状態のときがあった。彼の作品にも、この「森と聚落」と同じような大胆な作品がある。

 梅原龍三郎「噴火」




 終わりに

 児島善三郎の作品には、やや奇異な色彩のものが多くある。児島の作品を評して、「豊かな色彩感覚」というものがあるが、この画家の作品の本質は、「奇異な色彩感覚」というものから成り立っていると考える。そして、それは彼の問題のある精神状態から生まれるものである。
 なお、躁状態で生み出された作品は、明るく、また力強く、多くの人から愛されるものであることは、その収蔵美術館の多さからも分かる。


 履歴

1893年 福岡県福岡市の富裕な紙問屋の長男として生まれる。
1909年 この頃、初めて母親に油絵具を与えられ、福岡城後址で写生などをしたといわれる。
1912年 福岡県立修猷館を卒業。長崎医学専門学校薬学科に入学する。
1913年 長崎医学専門学校薬学科を中退。上京する。
1914年 岡田三郎助が指導する本郷洋画研究所に2ヵ月ほど学ぶ。東京美術学校の受験に失敗し、以後師につかず独学で学ぶ。この頃セザンヌに傾倒する。
1915年 「病気になって郷里に帰った。東京に来てから四年目、私は二十四歳だった。それから二十八までの五年間、苦しい闘病生活が続いた。転地、サナトリウム、病院……今思っても、ぞっとするような時代である。」(児島善三郎)
1920年 5年間の闘病生活のち回復する。上京し板橋で制作を始める。
1922年 第9回二科展で二科賞を受賞する。
1923年 「円鳥会」に萬鉄五郎、林武らと会員として参加。
1925年 欧州に留学。アンドレ・ドランに影響を受ける。(-1928年)
1928年 「巴里風景」を制作。
1930年 「二科会」を脱退して里見勝蔵、清水登之、三岸好太郎、林武らと「独立美術協会」を創立。
1944年 「来年からは本当に仕事に油が乗って来る事だと思います。…この三年以上も、本当に死ぬ苦しみを続けましたから、これからは奔馬空を行く様な法爾自然に仕事が出来るような気がして楽しみです。」(大久保泰宛の手紙)
1961年 科学療法のおかげで、結核の方は次第によくなって、日に一時間ぐらい鉛筆をとることが許されるようになった。児島は、「私は孤独なたちで、心は寂しく暗いから、明るい絵を描くんだ」と言っていた。
1962年 死去。


 主な収蔵美術館

東京国立近代美術館
福岡県立美術館
神奈川県立近代美術館
静岡県立美術館
茨城県近代美術館
愛知県美術館
ひろしま美術館
東京都現代美術館
横須賀美術館
北九州市立美術館
笠間日動美術館
中野美術館
府中市美術館
平野美術館
大原美術館
石橋美術館
泉屋博古館
ポーラ美術館
メナード美術館


 参考文献

 「児島善三郎の手紙」(児島善三郎著、大久保泰解説、匠秀夫編、形文社)
 「現代日本の美術第12巻 児島善三郎/中川一政」(後藤茂樹編、集英社)
 「近代洋画界における『無冠の帝王』児島善三郎」(ホームページ「西日本シティ)
 「児島善三郎年譜」(三重県立学芸員田中善映編)
 


 参考絵画

 ゴッホ「アルルのゴッホの寝室」



 この作品も、児島善三郎「巴里風景」と同様に、やや奇異な色彩を伴い、地に足が着いていない感じがする。
 同じような精神状態で描かれたのではないだろうか。


 児島善三郎「黄色い花の枕の裸婦」(1925〜 28年、西宮市立大谷記念美術館蔵)




 田中保「花と裸婦」(1920〜30年)


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