はじめに

 たとえ画家が一生懸命に描いたものでも、名も知られていない画家の絵など誰も興味ないかも知れない。
 ここでは、インターネットオークションで非常に安価で手に入れた絵画を紹介する。
 それは、人があまり見向きもしなかったものである。捨てられた絵画とも言えるものである。
 作者不詳で入手したものが多くある。また、作者不詳だから良い絵画でも捨てられるのである。


 掲載画家

 梅崎渡、青山義雄、古沢岩美、緑川広太郎、依岡慶樹、T.K.(作者不詳)、鱸利彦、梅原龍三郎、高間惣七、西尾善積、大久保作次郎、櫻井慶治、横堀角次郎、片岡銀蔵、野間仁根、香月泰男、村上肥出男、伊勢正義、山喜多二郎太、田辺三重松、鶴田吾郎、石渡風古、丁觀鵬??。


 梅崎渡「花」(屋根裏部屋の美術館蔵) 



 購入価格:5,400円

 日本橋アートギャラリー「環」の「環コレクションを含むグループ展」に出品していたことがある画家である。

 「生ある内は理解されないだろう。死んだ後は何も残る事はない。明日は何処でのたれ死んでいるだろう。」(梅崎渡)

 履歴

1952年 福岡に生まれる。
春陽会、独立展。日展、光風会65回記念賞。ホアン・ミロ国際展。毎日現代展。上野の森美術館大賞展賞候補、風景を描く展佳作賞、伊豆美術展賞候補、多摩総合展佳作賞、FUKUIサムホール展、亜細亜美術展、美浜美術展 その他


 青山義雄「海」(水彩、元画廊経営者の娘さん取扱、屋根裏部屋の美術館蔵)



 購入価格:9,500円

 出品者(元画廊経営者の娘さん)による作品紹介

 この作品は国画会?の記念展において、青山先生が何人かの作家とともに、記念として画帖に描かれたもの一部です。真筆保証。

 作品等解説

 中央の折れ目は画貼に描かれていたためである。
 青山義雄は、即興的な筆使いで明るく豊かな色彩を駆使した風景画を多く描き、巨匠アンリ・マティスをして「カラリスト(色彩家)」と言わしめた。
 即興で描かれた絵画であるが、青山義雄のすばらしい色彩感覚が分かる。

 履歴

 文展・日展審査員
1894年 神奈川県三浦郡横須賀町(現在の横須賀市)に生まれる。
1911年 日本水彩画会研究所に入り大下藤次郎、永地秀太に師事
1921年 渡仏し、アンリ・マティスに師事
1933年 春陽会会員となるが、翌年退会
1935年 帰国し、翌年国画会会員に迎えられ、同年の国画会展に滞欧作27点を出品、新鮮な色彩で注目される。
1952年 再渡仏しその後日本とフランスを行き来する。
1986年 茅ヶ崎市内にアトリエを構える。
1993年 中村彝賞受賞
1996年 死去 没年102才


 作者不詳「果物と港」→古沢岩美



 購入価格:5,350円

 作品解説

 古沢岩美は裸婦で有名。この絵画は、大量生産された裸婦より貴重である。

 履歴

1912年 佐賀に生まれる。
      幼少の頃より父に買い与えられた画材で絵を描いた。
1921年 9歳の時、母が病没する。
1926年 14歳。久留米商業学校二年終了、退学。
      絵を描かしてくれるという条件で、朝鮮、大邸に渡る。伯父の経営する練炭所で働きながら、休みの日に妓生の家に通い、描く。
1927年 上京し岡田三郎助宅に寄宿。本郷絵画研究所に学ぶ。作品「夜の花」を描く。
1931年 春台美術展、光風会展へ出品。
1938年 独立展に出品。
1939年 朝日新聞の挿絵コンクールで懸賞。同年美術文化協会の結成に参加。
1943年 応召。
1945年 ソ連国境に向けて転進中に敗戦。武昌地区で約一年間捕虜生活を送る。
1946年 鹿児島へ復員。単身上京し、小説のの装幀をしながら焼け跡をスケッチして歩く。
1947年 アヴァンギャルド美術家クラブを結成。美術文化協会展、日本アンデパンダン展などに出品。
1951年 「プルトの娘」をサンパウロ・ビエンナーレ展に出品。
1955年 美術文化協会を退会。
1966年 「千夜一夜物語」を描く。
1967年 カザノヴァ回想録の挿絵を描く。
2000年 死去。


 緑川広太郎「清節凌寒図」(色紙、昭和二十八年、画家小林寿永取扱、屋根裏部屋の美術館蔵)

 

 
購入価格:6,750円

 
この作品は、弟子の版画家高橋秀氏が大切に持っていたものである。
 作品には「清節凌寒図」とある。
 清節とは季節を表すもので、三清節があり、冬至元始天尊聖誕、夏至霊宝天尊聖誕、2月15日太上老君聖誕である。
 この闇のなかで咲く花は、画家の心を表している。

 履歴


 緑川廣太郎 

1904年 神奈川横浜に生まれる。
1917年 明治中学校に入学するが本郷研究所に通い中退 小島善太郎に師事
1933年 独立展出品
1940年 「黄土」「砂丘」が独立美術協会協会賞受賞
1943年 第6回新文展特選
1944年 戦時特別展無鑑査出品
1949年 独立会員
1966年 児島賞
1968-69年 シルクロードを旅行
1983年 死去


 依岡慶樹「夢を見る女」(エッチング) 



 購入価格:8,250円

 【保証絵画】蔵出

 依岡慶樹 よりおかけいじゅ (1933年〜 )

 1933年 高知県に生まれる。師は西山翆嶂,高山辰雄。


 作者不詳「裸婦」(1990年、T.K. のサイン有り、屋根裏部屋の美術館蔵)



 購入価格:500円
 
 
 Kyoko?「マッチ売りの少女」(屋根裏部屋の美術館蔵)



 購入価格:4,200円


 作者不詳「パリ郊外」(仮題、屋根裏部屋の美術館蔵)→鱸利彦



 購入価格:13,000円 

 作品解説

 鱸は昭和5年にフランスに留学しているが、その時のようすを「画壇ではルノアール、ボナール、ピカソ、ブラック等印象派以後の新しい傾向の絵がもてはやされていたが、私はそれよりもむしろクラシックなものにひかれた。特にコローの作品には自然観照に東洋的な風趣を感じ深く興味を覚え、ルーブルで三か月その模写に専念した」と語っている。(宮崎県立美術館 「鱸利彦」解説)

 履歴

 鱸利彦 すずき としひこ (1894-1993 明治31年−平成5年)

 人物画、風景画を得意とし、一貫して穏健なる自然美を追求する。

1894年 千葉県に生まれる。
1896年 宮崎県宮崎市江平に移り住む。
----年 上京、本郷洋画研究所で藤島武二師事。
1913年 東京美術学校西洋画科入学
1918年 文展初入選 以後35年まで文展・帝展に出品 一時旺玄会に出品。
      戦後は二科会の復興に参加、同会会員となる。
1930年 フランスに留学(-32年)。
1949年 共立女子大学教授(-77年)。
1955年 野間仁根等と一陽会を創立。
1993年 死去。


 鱸利彦「「茶道具と菓子」(屋根裏部屋の美術館蔵)



 購入価格:11,000円


 作者不詳「裸婦」2点(good8508art取扱、屋根裏部屋の美術館蔵)

 

 購入価格:2点で10,000円

 作品解説

 作品は、ニューヨーク・スクール派の比較的初期のものである。
 また、これはキューバ産高級葉巻の木製ケースを壊し、その板に描いたものである。額の裏にはニューヨークの販売店のシールが貼ってある。このことからも、ニューヨーク・スクール派のものということが分かる。
 

 作者不詳「Poppy」(good8508art取扱、屋根裏部屋の美術館蔵)→梅原龍三郎



 購入価格:5.000円

 作品解説

 サインがR.Vと見えたため作者不詳となったようである。梅原龍三郎のサインは、UはVのように見えるのが特徴である。
 我々が知っている梅原の作品にはこのような作風はない。よく知られているのは、薔薇、北京風景、山(桜島、富士山、浅間山)などだけである。
 しかし、数多くある駄作よりこの作品の方が良く、すばらしいものである。

 履歴

1888年(明治21年) 京都市に生まれる。家は悉皆屋で、裕福な家庭であった。
1903年(明治36年) 浅井忠の聖護院洋画研究所及び関西美術院にて学ぶ。
1908年(明治41年) 渡仏
1909年(明治42年) ルノワールに師事する。ともに写生旅行をするなど親交を深める。
1911年(明治44年) ピカソと知り合い、以後交流を続ける。
1913年(大正2年)  帰国
1914年(大正3年)  二科会会員になる。
1918年(大正7年)  二期会を辞す。 
1920年(大正9年)  再度渡仏 
1922年(大正11年) 小杉未醒らと春陽会を設立
1925年(大正14年) 川島理一郎らと国画創作協会の洋画部を設立
1934年(昭和9年) 岩絵の具を使い始める。
1939年(昭和14年) 北京に滞在し制作
1952年(昭和27年) 文化勲章受賞
1986年(昭和61年) 死去(享年97歳)


 高間惣七「花」(水彩、屋根裏部屋の美術館蔵)



 購入価格:3,600円

 作品解説

 高間惣七は、帝展6回連続特選という誰も成し遂げられなかったすばらしい経歴がある。
 しかし、彼の作品には色彩感覚に問題があるようなものが多い。この水彩画は、その点ではましなものである。

 履歴

1889年 東京・京橋生まれ。白馬会洋画研究所に通う 。
1908年 東京美術学校に入学。
1913年 第7回文展(現日展)に「午前の日」を出品し初入選する。
1914年 第8回文展褒状。大正博覧会に「卓上静物」を出品し、一等賞を受賞する。
1915年 第9回文展褒状。
1916年 東京美術学校を卒業。その後、和田英作に師事する。
1918年 第12回文展(現日展)に「夏草」を出品し特選を受賞する
1919年 第1回帝展(現日展)に「初秋」「幽林の春」を出品し特選を受賞する。
1920年 第2回帝展(現日展)に「浜辺」「裏庭」を出品し特選を受賞する。
1921年 第3回帝展(現日展)に「鶏舎のほとり」「花園の鶏」を出品し特選を受賞する
1922年 第4回帝展(現日展)に「八月の海辺」「晴れ日」を出品し特選を受賞する。
1924年 第5回帝展(現日展)に「南窓の一室」を出品し特選を受賞する。牧野虎雄らと槐樹社結成。
1928年 第9回帝展に「窓ぎは」を出品する。
        審査員となり以後、毎回審査員として嘱託出品する。
1933年 東光会創立に参加する。
1934年 七鳳会創立に参加する。
1936年 種線美術協会創立に参加する。
1939年 主線美術協会創立に参加する。
1940年 紀元2600年奉祝美術展に「陽光」を出品する。
1944年 戦時特別展覧に出品する。
1947年 第3回日展に招待出品する。
1948年 第4回日展に嘱託出品となる。
1949年 第5回日展に出品し審査員となる。
        以後日展審査員として嘱託出品する。
1955年 日展審査員を辞して独立美術協会に出品、独立美術協会会員となる。
        日本国際美術展、現代日本美術展に出品
1956年 神奈川県立近代美術館主催、高間惣七・小倉遊亀展が開催される。
1958年 国立近代美術館主催「現代の絵画の展望」に出品する。
1959年 日本国際美術展に「海風」を出品し、優秀賞を受賞する。
1960年 横浜文化賞を受賞する。
1961年 横浜文化賞受賞記念展が横浜高島屋にて開催される。
1962年 東京画廊で個展を開催する。
1964年 マイアミ近代美術館にて個展を開催する。
1973年 勲三等瑞宝章を受賞する。
1974年 横浜にて死去。享年84歳。

 主な収蔵美術館

国立近代美術館、
東京都現代美術館
神奈川県立近代美術館
横浜美術館
板橋区立美術館
横浜市民ギャラリー
新潟県立近代美術館
京都市美術館
福岡市美術館


 西尾善積「リュクサンブール公園」(屋根裏部屋の美術館蔵) 
 


 購入価格:6,750円

 履歴

1912年 京都市に生まれる。
1939年 東京美術学校油画卒業
1938年 在学中の第2回新文展に初入選。藤島武二、川島理一郎に師事。
1943年 第30回光風会展で、光風会賞を受賞。戦後も、同会会員として審査員・評議員をつとめる。
1947年 第2回日展で特選受賞
1958年 渡仏。(-1960)
1993年 日展参与
1995年 死去


 大久保作次郎「花」(1936年、水彩、屋根裏部屋の美術館蔵)



 購入価格:9,050円

 大久保作次郎 おおくぼさくじろう (1890-1973)

1890年 大阪市に生まれる。
1915年 東京美術学校卒
1911年 文展初入選、以後出品を続ける。
1916年 文展連続3回特選(-1918年)
1923年 フランスに留学(-1927年)
1927年 帝展審査員
1938年 槐樹社会員
1940年 創元会の創立に参加
1950年 日展運営会参事
1955年 和田三造らと新世紀美術協会を結成
1958年 日展評議員
1959年 日本芸術院賞
1960年 「市場の魚店」で日本芸術院賞受賞
1963年 日本芸術院会員
1966年 勲三等瑞宝章受章
1969年 日展顧問
1973年 死去

 主な収蔵美術館

東京国立近代美術館
北海道立近代美術館
東京都現代美術館
岐阜県美術館
千葉市美術館
目黒区美術館
茨城県近代美術館他



 櫻井慶治「裸婦」(銅版画、good8508art取扱、屋根裏部屋の美術館蔵)



 購入価格:3,000円

 櫻井慶冶 さくらいけいじ   

 日展参与。日展特選2回、委嘱12回、無鑑査2、岡田賞、入17、元光風会、ルサロン銀賞、仏国際グランプリ2回、招待1、外遊18

1919年 千葉県印旛郡和田村(現在の佐倉市)に生まれる。
1941年 東京美術学校入学。
1947年 光会展入選(、48年)。
1949年 東京美術学校卒業。日展初入選。
1953年 光風会会員に推挙。
1956年 文部省私費留学生としてヨーロッパに出発。
1957年 日本橋三越於いて第1回個展を開催。
1965年 再渡欧米。フランスヴィシー国際展グランプリ受賞
1967年 第10回日展特選。光風会退会。
1968年 日展無鑑査
1969年 改組第1回日展特選フランス国際展グランプリ受賞
1970年 フランスにて市長賞を受賞。
1975年 資生堂に於いて個展。
1989年 第19回日展出品作「フランスの女」千葉県立美術館収蔵。紺綬褒章を受賞。
1997年 日展評議員。
2001年 日展参与。

 櫻井慶治?「ポピー」(屋根裏部屋の美術館蔵)→櫻井慶治



 購入価格:2,300円

 作品解説

 櫻井慶治の作風には2種類ある。ひとつはしっかり描かれたもので、もうひとつはへたうま(一見(一聴)するとへたそうだが、個性や味のある作品)で描かれたものである。味があるのは、へたうまの方である。
 この2作品「裸婦」、「ポピー」は、へたうまである。
 心を子供にして描いた作品である。画家の計算なのか、あるいは無垢な心の持ち主なのか?


 作者不詳「花」(色彩補正あり、good8508art取扱、屋根裏部屋の美術館蔵)→横堀角次郎(よこぼりかくじろう)



 購入価格:11,000円

 作品解説

 同時に横堀角次郎の作品、手紙、写真等が出品されていた。この作品のみが作者不詳となっていた。しかし、これは横堀角次郎の初期作品である。
 横堀角次郎には、益子焼きを描いた同じような作品がある。

 「角次郎は木黄(もっこう)という雅号を持っていて日本画も描いたとか。木黄は横堀の横の部位からとったといいます。けっこう洒落たところがあったのです。」(ブログ「事務所のお仕事 コレクション8 横堀角次郎」)とあるように、この作品にあるサインも変にこだわったものである。角次郎は、Kで表し、横堀は四角形、□の横が掘られ表している。

 履歴

1897年 勢多郡大胡町(現在前橋市)に生まれる。 
1915年 第15回巽画会で「自画像」三等賞銅牌受賞。草土社結成に参加。
1923年 第1回春陽会展で「川べり」等春陽会賞を受賞
1924年 第2回春陽会展で「篭中果実」等春陽会賞を受賞。三岸好太郎らと麓人社を結成。
1925年 春陽会無鑑査
1930年 春陽会会員。
1939年 第3回新文展出品。
1941年 群馬美術協会創立。
1978年 群馬県文化功労者。
1978年 死去。

 草土社

 白馬会の葵橋洋画研究所で外光派表現を学んだ岸田劉生と木村荘八は、文芸雑誌『白樺』で紹介されたゴッホやセザンヌなど新印象主義の画風に強く感銘し、明治45年に斎藤与里・高村光太郎・萬鉄五郎など同志とともに結成したフューザン会においてその影響を色濃く反映した作品を発表します。翌年の2回展をもって同会は解散しますが、劉生と木村は巽画会展洋画部に審査員として参加。この展覧会に出品した清宮彬・椿貞雄・中川一政・横堀角次郎・中島正貴・高橋三千夫、そして豊橋出身の高須光治が草土社のメンバーとなりました。大正4年、劉生らは飛田角一郎・柳沢菊次郎を加え、現代の美術社主催第1回美術展覧会を開催。これが実質上の草土社第1回展となり、以後、田村憲・河野通勢らが同志に加わります。草土社の名は当時、劉生が代々木界隈の赤土と草を好んで写生したことに由来します。このころ劉生はデューラーやファン・アイクなど北方ルネサンスに傾倒し、自ら「写実的神秘派」と称して写実を極めていました。他の同人もこれに追随し、時代に逆行するとの批判を浴びながらも、いわゆる草土社風とよばれる特質を生み出します。(豊橋市美術博物館資料)


 作者不詳「静物」(good8508art取扱、屋根裏部屋の美術館蔵)



 購入価格:6,350円

 作品解説

 サインがあるが、不明である。
 横堀角次郎「花」と同じような内容構成である。陶器は、岸田劉生、横堀角次郎等が用いた益子焼きである。画家は草土社に所属していたと考える。


 野間仁根(屋根裏部屋の美術館蔵)



 購入価格:5,000円

 作品解説

 野間仁根は、美しい色彩で、おおらかな作品を多く作り出した。この作品は、おおらかに描かれている。

 履歴

1901年 今治沖の大島、越智郡津倉村に生まれる。
1920年 川端画学校を経て、東京美術学校に入学
1925年 東京美術学校卒業
1928年 「夜の床」を第15回二科展に出品、樗牛賞受賞
1929年 「The Full Moon」を第16回二科展に出品、二科賞受賞
1933年 二科会会員となる。
1945年 再建二科会に審査員として参加
1952年 日展改組に審査員として出席
1979年 死去

 主な収蔵美術館

東京都現代美術館
愛知県美術館
新潟県立近代美術館
愛媛県立美術館
玉川近代美術館
吉海郷土文化センター


 作者不詳「人物」「百合」(水彩2点、good8508art取扱、屋根裏部屋の美術館蔵)→香月泰男?





 購入価格:2,100円

 作品解説

 この作品は、美大等を出た一流画家により描かれたものである。この子供の顔は非常に特徴的なものである。この顔に見覚えがあったので、この顔を丹念に調べると、香月泰男の顔の特徴と一致した。そしてその後、この絵にあるサインを見るとYASUOとあった。
 ただし、我々は香月泰男の水彩画はほとんど見たこともないし、また、YASUOというサインも知らない。

 香月泰男「自画像」



 履歴

1911年 山口県に生まれる。
1936年 東京美術学校油絵科を卒業。北海道庁立倶知安中学校に美術教師として赴任
1939年 梅原龍三郎、福島繁太郎の知遇を得る。「兎」第三回文展特選
1940年 国画会第15会展で佐分賞を受賞。国画会同人に推挙される。
1943年 満州国に動員される。
1945年 セーヤ収容所に入れられる。
1947年 帰国。下関高等女学校に美術教師として復職
1955年 マチエルに方解末を用いた独特の黒い作品が生まれる。
1956年 「ヒューザンス」がメルボルン近代美術館に収蔵される。
1968年 西日本文化賞受賞
1971年 安井賞選考委員を委嘱
1974年 死去 勲三等瑞宝賞受賞


 村上肥出夫「室内の少女」(布にペンと彩色、インターネット絵画販売木村美術kmi_auction取扱、屋根裏部屋の美術館蔵)



 購入価格:8,250円

 作品解説

 天才画家村上肥出夫が描いたものである。少女の顔は分かるが、後は何が描かれているかは凡人の私には分からない。

 履歴

1933年 岐阜県に生まれる。
「百姓の子が絵かきなんて」と、周囲の嘲笑を浴び続けた青年時代を過ぎ、上京。
1961年 放浪生活中に兜屋画廊主人の西川武朗氏と知り合い交友が始まる。
1963年 主にパリに住んで絵画制作をする。
1975年 「村上君は時には詩を書く、時には天才的なデッサンを描く。そして何を考えて生きているんだか、私には見当が付かない。一種の出来損ないであるのか、それとも天使のような人間であるのか、とにかくつきあいにくい。しかし笑った顔は意外に純真である。そして作品はこの上もなく強烈 である。」 (石川達三)
1997年、自宅アトリエが全焼。
1998年 再び居間が焼けるという災厄にあい、精神を病んで入院


 伊勢正義「アネモネ」(屋根裏部屋の美術館蔵)



 購入価格:11,000円

 履歴

1907年 秋田県大館市白沢に生まれる。
1931年 東京美術学校西洋画卒。卒業後は藤島武二に師事。
1933年 帝展入選。光風会展受賞。
1935年 光風会特選「集ひ」第二部会展特選・文化賞受賞
1936年 伊勢のほか猪熊源一郎、内田巌、小磯良平等 藤島武二の門下生9名によって、「美術界の一切の政治的抗争を排し、芸術行動の純化をめざす」と主唱する新制作派協会(新制作協会の前身)が旗揚げされた。
1985年 東京で死去。


 KUBO?(作者不詳)「太陽と農耕」



 購入価格:3,000円

 作品解説

 大きな船を描いたものなのか。船では農耕が行われている。


 山喜多二郎太「母子像」(仮題、色彩補正あり、屋根裏部屋の美術館蔵)



 購入価格:3,800円

 作品解説

 画家名の記載があったが安価で入手できた。この種の絵画は人気がないようである。

 履歴

1897年 福岡県鞍手郡に生まれる。
東京美術学校西洋画科入学(藤島武二教室)。
1918年 寺崎広業に日本画師事 。
1926年 単身中国遊歴(杭州、蘇州、南京、三峡)水墨画の原点となる。
1934年 第15回帝展特選(「写生」)。
1958年 日展評議員光風会理事。
1965年 死去。

 収蔵美術館

東京国立近代美術館/東京芸大大学美術館/武蔵野市立吉祥寺美術館/ 福岡県立美術館/福岡市立美術館/直方市立直方谷尾美術館/ 北九州市美術館/田川市美術館/一宮市博物館/福井市美術館/梅野記念絵画館


 田辺三重松「風景」(水墨画、画家小林寿永取扱、屋根裏部屋の美術館蔵)



 購入価格:1,000円

 作品解説

 大胆なタッチで描かれている。

 履歴

1897年 北海道函館弁天町に生まれる。
 函館商業高校を卒業後、実家の呉服屋を手伝いながら絵を勉強。
1920年 函館区立幸尋常小学校の代用教員となる。
1926年 北海道美術協会会員となる。
1928年 函館市立新川小学校の正教師となる。第15回二科展で初入選。
1936年 第23回ニ科展で「飛沫」「初秋大沼」が特選。二科会会員となる。
1939年 北海道庁函館高等女子校の図画教諭となる。
1945年 行動美術協会の創立に参加
1949年 北海道文化賞を受賞
1971年 死去


 鶴田吾郎「ヤギ」、「初潮」(色紙、画家小林寿永取扱、屋根裏部屋の美術館蔵) 





 購入価格:2作品計1,000円

 出品者による作品解説(小林寿永画伯よりメールにて)

 鶴田吾郎さんは、豊島区千川にいらして、私の借家からすぐ近くでしたが、ご本人に会ったことは無いのです。しかし何度かアトリエに伺い息子さんとは親しくして貰いました。「中村と二人でこの人を描いたんだよね」そう言ってエロシエンコの生写真を見せて貰ったりしました。既にアトリエもガラス窓は壊れ、外観はお化け屋敷のようでした。息子さんも絵を描いていましたが学校の先生をやっていましたので、鶴田吾郎とは似ても似つかぬもので私は彼の作品は嫌いでした。中村ツネは若死で、鶴田吾郎は長生きしたために、描かなくてもいいものを描きすぎたと思います。鶴田吾郎の「エロシエンコの像」もすばらしいのに、知っている人が少ないのが残念です。息子さんも三年程前に亡くなり、アトリエもありません。残っていた資料も、ばらばらに放出されたのでしょうか。いずれにせよ画家の終わり方は、画家自身の肩にかかっていることを、再認識させられます。
 鶴田さんの作品の入手経路ですが、これも出品直前に大手書画競売市「宏友会」から「鶴田さんの色紙が持ち込まれているので、是非来てくれ」連絡を貰い、とり急ぎ向かったのですが、既に色紙の競りが終了しておりました。落札者を探し、利付け《落札価額に5割〜人によっては倍価額》で入手いたしました。鶴田さんのアトリエへ息子の霊前に、お参りしたとき、未亡人が見せてくれた色紙の一部でした。

 作品解説

 この画家は、「池袋モンパルナス」のひとりである。
 作品「初潮」を観ると、この画家の才能を知ることが出来る。


 鶴田吾朗「盲目のエロシェンコ」 (1920年、株式会社中村屋蔵)



 鶴田吾郎は、エロシェンコにモデルになることを依頼し、友人の中村彝とともに2人で同じ題名「盲目のエロシェンコ」を制作した。作品は第2回帝展に出品され話題を呼んた。

 鶴田吾朗 つるたごろう (1890-1969年)

 履歴

太平洋美術学校教授
1890年 東京市に生まれる。
1906年 白馬会洋画研究所に通う。
中村不折に師事、
太平洋画会会員、
日展審査員。中村彜、中原 悌二郎を知る。中村、中原と太平洋画会研究所に通う。中国、シベリアを放浪。 
1920年 帰国。同年、中村彜と競作で盲目のエロシェンコを描く。第2回帝展に出品し入選。
1969年 死去 没年79歳。



 作者不詳「童子」(絹本、good8508art取扱、屋根裏部屋の美術館蔵)→石渡風古



 
購入金額:8,000円

 作品解説

 この作品には「風古」という落款があるが、石渡風古のものである。
 風古は、童女を得意とした。その作風は、独自のものであるが、この作品に見られる作風はそれらとは異なる。
 また、後の落款は、洗練されたものであるが、この作品にあるものは、まだ洗練されたものではない。しかし、作品はよいものである。

 石渡風古
 
 日本画家。神奈川県生。名は鼎。川合玉堂に師事する。文展・帝展で活躍する。昭和36年(1961)歿、70才(一説に66才)。(「思分閣 美術人名辞典」)

 収蔵美術館

 東京国立近代美術館


 仏画「千手観音」(掛軸、一部、屋根裏部屋の美術館蔵)→丁観鵬 ?? (1737−1786年間に活躍、乾隆時代の宮廷に仕え、人物画を善くした)





 購入価格:3,500円

 作品解説

 作品としては非常に優れたものである。。
 千手観音は千本の手とそれぞれの掌に一眼をもつ。千本の手は、どのような衆生をも漏らさず救済しようとする。頭上に戴く小面も二十七面や二十四面・十一面などがある。しかし、この千手観音は多面ではない。
 冠から、青白い炎が発せられている。また、自然な感じで光を体から発している。
 しかし、紙は変色がないため、紙質が非常に高く保存状態がよかったためなのか、あるいは近年の作品のためなのかは不明。
 銅版画彩色と考える。

 この作品を入手した前後、同じ画家によると思われる作品が数点出品された。また、作品としては異なるものであるが、丁観鵬の落款が入った掛け軸(絹本)も出された。その作品は非常に時代感があるものであった。
 丁観鵬の作品には、ヨーロッパで銅版で作られたものがある。この作品「千手観音」が、それではないだろうか??
 
 
 丁観鵬「文殊像」(台湾故宮博物館蔵)



 作品解説

 この作品は台湾故宮博物館にある。また、丁観鵬の作品「春市図」は切手に使われている。







 白木正一「習作」(屋根裏部屋の美術館蔵→川崎市在住美術愛好家K.S.氏) 



 購入価格:1,000円

 作品等解説

 白木正一は、1997年から2001年にわたって中部経済新聞に連載された「この画家知っているかい?」に掲載された画家である。
 この作品は、彼の初期絵画である。現在は、川崎市在住美術愛好家K.S.氏が所蔵されることとなったが、この方が収集された絵画を観るとすばらしいものが多くある。この捨てられた絵画が、拾われ大切にされることとなった。

 履歴

1912年 名古屋市に生まれる。
1937年 「独立展」初入選以後1938年、1939年と連年入選。福沢一郎の「美術文化協会」結成以後、「美術文化展」に出品。
戦争中は自発的に出品を停止する。
日本敗戦後、請われて米軍基地に絵を教えに通う。
1958年 渡米。リトグラフ作品を精力的に制作。その作品の代表作はニューヨーク「メトロポリタン美術館」「ブルックリン美術館」にパーマネントコレクションされる。
1989年 約30年のニューヨーク生活を打ち切り、帰国。
1995年 死去。

 作品収蔵先

メトロポリタン美術館
ブルックリン美術館
埼玉県立近代美術館
愛知県立美術館
板橋区立美術館
北海道立函館美術館
名古屋市立美術館
浜松市立美術館
長浜市立芸術文化会館
飯能市郷土美術館
恵子美術館
           

 大沼博暉「パテオの花」(油彩10号F、屋根裏部屋の美術館蔵→美術愛好家)



 購入価格:10,000円

 作品解説

 この作品は、画家の優れた技巧により幻想的に描かれている。
 この画家の初期絵画、確か「不揃いの規格」という作品を観たことがあるが、頭を使うタイプの画家と思った。

 履歴

 1969年に渡西し、現在までスペイン・トレド 在住の画家。
 スペイン各地の美術コンクール等で多数の賞を授与。
 日本には大体2年毎に『文芸春秋画廊』にて個展開催。


 作者不詳「−」→宇津宮功「折り畳まれた人間達」(屋根裏部屋の美術館蔵→美術愛好家)



 購入価格:10,000円

 作品解説

 坂口安吾の「桜の満開の下で」の‐節。はらはらと桜が散ります…のー文で開眼し「干渉」シリーズ の制作を始めたのが1970年頃です。丁度,生物化学が全盛をきわめていた頃でもあり,新しい発見が相次いでいました。人間の究極の神秘も解明されたかにみえ、人間尊厳が崩れ始め物質主義への傾斜に拍車がかけられてゆくようでした。(「折り畳まれた人間達」宇津宮功)

 履歴

 宇津宮功 うつみやいさお

 現在はヨーロッパを中心に活動
1945年 岩手県盛岡市に生まれる。
1963年 岩手高等学校を卒業し、武蔵野美術大学造形学部入学。
1967年 武蔵野美術大学造形学部卒業と同時に渡仏。パリ美術学校ベルナァール・サンジエ教室在籍。
1968年 グランプリ・ド・パーク賞受賞
1971年 オスタンド美術館(ベルギー)ヨーロッパ賞銀賞受賞
1979年 第11回国際絵画フェスティバル日本代表。
1981年 フォンダション・ヴィトリー賞受賞(フランス)。


 片岡銀蔵「裸婦」(色紙、贋作?)

 購入価格:5,000円

 作品解説

 右下の出来が非常に悪い。デッサンのような作品か、あるいは贋作か?

 履歴

1896年 岡山県出身
1914年 東京美術学校(現・東京美術大学)西洋画科入学
  藤島武二に師事し、満谷国四郎の家に寄寓し指導を受ける。
1919年 帝展初入選(以後入選を重ねる)
1921年 東京美術学校卒業
1922年 東京美術学校研究科修了
1926年 中国に制作旅行
1927年 フランス、イタリア、ドイツを歴訪(〜29年)
1928年 帝展特選受賞(同30年)
1937年 新文展無鑑査
1954年 日展委嘱
1964年 死去

その他 岡山洋画研究会会長、岡山画家協会代表を歴任

 主な収蔵美術館

岡山県立美術館
倉敷市立美術館
新見美術館
成羽町美術館


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